リハビリ日記Ⅳ 45 46

45 岩藤雪夫のはがき
 春のおとずれを告げるアオモジの木の花。アオモジは別名、卒業木だそうな。はじめて見るもの。白い小さな花が、枝に連なって咲いている。黄緑の葉たちも、清らかな感じがする。しかしテーブルの上では、その姿、形ははっきりしない。自治会役員の安杖さんが、浜松北部の山から、ひと枝もってきてくれた。安杖さんはNPOの仕事で、毎週末、山に入るのだという。わたしはさっそく、ひと枝を透明な花瓶に生けてみた。
 ここはタマネギの産地だ。1月から3月ころ、どこの家でも収穫に追われる。とれたての新タマネギはやわらかくて、おいしい。りえこさん、ケイさん、えつこさんからいただいた。それぞれ甘みがちがうのが、おもしろい。包丁を使わずに料理できるのは、うれしい。麻痺の残った右手にもち、左手でひと皮ひと皮むいていく。なんで、こんな病気にかかったのだろう。しみじみ思いつつ、わたしはタマネギをなべに放りこんでいた。
 作家、辺見庸さんの『自分自身への審問』(角川文庫)を再読する。1度、単行本で読んでいる。辺見さんは2004年3月、脳出血で倒れた。その直後の執筆だ。右半身の「絶望的な麻痺」と、書いている。病気で得たことも考察されていて、読みごたえがあった。

 岩藤雪夫。いわとうゆきお、と読む。本名は岩藤俤、いわとうてい、である。
 昭和初期のこと。プロレタリア文学の世界で活躍した小説家だ。「文藝戦線」派の同志からは〈がんちゃん〉と呼ばれていた。「鉄」「ガトフ・フセクダア」などの小説がある。労働者の生活が描かれる。
 岩藤さんのはがきが残っていた。わたしは5年間も文通していた。岩藤さんは、ふでまめな人だった。ていねいな文字が、律義な人を想わせる。
 はがきの他に1枚の写真も出てきた。和服姿の、岩藤さんとその妻。そして、セーターにズボン姿の息子。〈この家族写真は、浦西さんとあなたにだけあげるよ〉書誌学者の浦西和彦のことだ。息子は、〈ちび〉と自称する父親よりも背が高くて、スマートである。〈ぼくの息子、いい男でしょ〉そのとおりハンサムな青年だ。ついでに書けば、岩藤さんにはもう1人、原という同志との間にもうけた息子がいる。
 〈去年はよろこびを運んできてくれた貴女と逢った年でした〉岩藤さんの最初の年賀状にはこう書かれている。最初の訪問はドキドキした。岩藤さんの家は横浜市鶴見区にあった。2度目は、プロレタリア作家、里村欣三の妻の前川マスヱといっしょに訪ねた。
 岩藤さんのつましい暮らしぶりがうかがえた。が、貧乏だったプロレタリア作家も、今は一戸建てに住んでいる、という感慨もまた、わたしは抱いたのだった。
 戦時下、岩藤さんは、横浜港湾で沖仲士をしていた。昭和初期の活動家時代からずっと、警察からマークされていたという。
 戦後は自宅で、ミカンなどをつめるネット袋を作っていた。ガス処理のさい異臭と騒音が発生し、近所に迷惑をかけたと、岩藤さんは話した。
 〈ぼく、あなたの先生にお金を借りたままでいます〉岩藤さんはとつぜんいいだした。戦後何年ころのことか。文芸評論家の平野謙の取材をうけたおり、いくらか借金をしたようだ。打ち明けるとは、正直な人である。
 わたしの取材は、岩藤雪夫最晩年の5年間だった。岩藤さんは公害病を患っていた。が、日々、富岡多恵子や宮本輝などの現代文学を読む、勉強家だった。

46 岩藤雪夫の出生秘話
 「国民舐めすぎ」ネット上に載った非難の1つ。厚労省老健局の職員23人が深夜まで送別会を開いていたという。3月下旬のこと。彼らは感染症対策を担当している。 
 このニュースを見て、わたしは思いだした。若いころ通産省でアルバイトをした。その課の課長秘書が、午前中から、分厚い世界文学全集を読んでいるのだ。毎日。自分の決まった仕事をすますと、あとは黙々と。隣に課長はいつもいる。誰も注意しない。今でもわたしは、彼女と男課長の顔は覚えている。公務員の自覚、誠実って、何なのか。少しも進化していない。彼らは、見られているという意識にかける、不遜な人たちだ。
 リハビリ教室に行く。先生にごまをする通所者はどこにもいるものか。S病院に入院しているとき、理学療法士のT先生が〈つぎに病室にくる患者は、話せる人だといいね〉と、声をかけてくれたのを思いだす。話せる人って、なかなか、いないものである。
 通所して2年。いくつものトレーニングのおかげで、呼吸法が身についてきた。唾液もたくさん出るようになった。

 岩藤雪夫のはがきは、こうも書いてある。〈母をお雪さんと呼んでくださったのは、阿部さん1人だけでした。うれしく思っています〉と。
 岩藤さんは、実母〈雪子〉について知らない。父と祖母がひたがくしにしたためだという。しかし、岩藤さんの母親探しは、一生つづいたようだ。横浜駅駅長に問い合わせる。が、関東大震災で当時の記録は消失していた。近く、母の縁者に会いにいくとも、岩藤さんはいった。
 1902年3月。雪子は、夫に会いたくて上京する。横浜駅近くで産気づく。〈3月26日〉男児を出産するが、雪子は死亡する。列車内にトイレはなく、土瓶に用をたす時代のこと。夫は会いにこなかった。男児は、横浜の農家に里子に出されるのだった。出生届はおくれ、岩藤俤の出生は4月1日になった。ここまでは、岩藤さんが養祖父母から聴かされた経緯である。
 9歳のおり、岩藤さんは、東京九段の父の家にひきとられる。野原を駆けまわっていた少年は、ネオンサインの街にびっくりする。活動弁士の父は、しつけがすこぶる厳格だった。子は反発する。〈すねて、ひねくれた〉。
 父、岩藤思雪。子、岩藤雪夫。どちらも本名ではない。母、雪子の雪の字を採っている。
 父、岩藤新三郎は、岡山県津山の出身。生年は不明で、没年は1938年。作家の山代巴が、岩藤さんに語ったという。〈何かを求めずにはいられない、偉大なお父さんでしたね〉と。日本映画の黎明期にあって、岩藤思雪は、無声映画の弁士のほかに、映画監督、編集技師をする、行動的な人だった。
 わたしは、岩藤雪夫への取材をとおして、その母にまつわる哀しい物語を知った。お雪さんは、津山から上京したのだろうか。しかし、彼女の一念は果たせなかった。
 岩藤さんは、母親を慕ういっぽうで父親に反抗する。その思いは深くて切ない。岩藤雪夫が文学を欲したゆえんであろう。小説家としての存在理由でもあろう。

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