⑬ 文芸評論家、板垣直子
今年もおなじ木からわが家のウメの花は咲きはじめた。木々の下をとおると、あまい香りがおりてくる。ある日、どこぞの見知らぬ女性がスマートフォンで満開の花たちを撮影していた。ちょっぴりおどろいた。同時に気持ちもなごんだのだった。
あっ。あの日の声の人だ。2月下旬、NHK「ラジオ深夜便」から三宅義行さんの声が流れてきた。
6年前まで住んでいた新座でのこと。夜のアルバイトからの帰り道。横暴な女社長め。生徒たちも怖がっている。あんた、それで人間なのか。ぶつぶついいながら歩いてきた。と、パーシモンホテルの駐車場から、男性が子どもを注意する大きな声がした。〈三宅さんですか〉〈はい、そうです〉三宅さんは、元重量挙げのオリンピック選手だが、想像していたよりも背は低かった。近くの自宅から家族とともに食事にきたのだろうか。
三宅さんは、山下アンカーのインタビューに熱っぽくこたえている。娘の三宅宏実さんも重量挙げのオリンピック選手で、メダルを獲得した。父親として、どのように子育てをしたか。また監督として、どのように選手を指導したか。
三宅さんの応答は、とてもわかりやすかった。とりわけ注目したのは〈いろいろなことがふつうにできてほしかった〉というその信条だった。宏実さんのたくましさのなかに人間としてのやさしさが感じられるのも、父親の信条からくるものかもしれない。
ふと、思いだしたことがある。法大に在学していたとき日本文学科の教授、近藤忠義が授業中に言った。〈三宅義信は、試合をひかえて練習に忙しいときも、レポートが提出できない、授業を欠席すると、きちんと伝えにきましたよ〉三宅義信さんは三宅さんの兄で、法大在学中にローマオリンピック大会に重量挙げ選手として出場している。
近藤先生は、日頃さぼっている学生たちを叱咤する意味で、義信選手の誠実さを引用したのだ。わたしにはいまだ感銘ふかい話だ。練習に懸命なときも人間としての真面目さをわすれない。三宅一家に通じる、生きる信条にちがいない。人間へのふかい愛情を想う。
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文芸評論家の斎藤美奈子さんは、たくさんの現代小説を読んでいるという。NHKラジオ「飛ぶ教室」の高橋源一郎先生が、教室に招いた斎藤さんについて紹介した。女性の文芸評論家の初めての人だと。それを斎藤さんは否定しなかった。
斎藤さんよりも早く、板垣直子がいる。大正から昭和にかけて活躍した。1896年青森に生まれ1977年他界している。日本女子大学を卒業後、1921年に東大の第1回女子聴講生になっている。
わたしは、鷹野つぎと平林たい子を研究しているとき、近代文学をベースにした板垣文学と出会った。まじめな文芸評論だった。文芸評論家第1号は、この人、板垣直子である。
わたしも、斎藤さんがデビューする1994年より早く、文芸評論家の名で伝記的作家論や書評などを発表している。
男性の文芸評論家は多い。その1人、平野謙が言った。文章が正しいといわれるよりも、おもしろいといわれたい、と。平野はわかりやすい文章を書いた人だ。文芸評論というむずかしいジャンルを一般読者にまでひろめたのだった。その功績は大きいと思う。
板垣の文芸評論はかたい。あまりおもしろくない。平野の文芸評論は女性にも読まれ、親しまれた。女性読者からファンレターがとどいたと、平野がうれしそうに話したのを、わたしは覚えている。
⑭ 作家、佐多稲子のこと
青土社の編集者、明石陽介さんから「ユリイカ」3月臨時増刊号がとどく。贈り物である。瀬戸内寂聴の特集号だ。寂聴は昨年11月、99歳で他界している。今年は生誕100年目にあたる。わたしも同誌に拙文「瀬戸内寂聴のこと」を発表したのだ。
さまざまな分野の専門家が寄稿している。読みごたえはありそうだ。執筆者の年齢層もはばひろい。寂聴のどんな全体像が浮上してくるのか。わたしは、何十年も心にしまっていたエピソードについて書いた。国会図書館に勤めていた中森さんは元気だろうか。リコーの2人の社員はどうしているだろう。彼らは組んで仕事をしていた。上司は慶応大出身で、部下は早稲田大出身だといった。
3月3日、すずかけセントラル病院に行く。定期の受診日だ。帰りがけ、院長の横山徹夫先生に報告した。〈「ユリイカ」だね。見つけて読みますよ〉。
こんなに冷たい冬はなかった。毎日が寒い。しかし、リハビリ教室「健康広場佐鳴台」は欠席できない。しんむらさんがきている。ひさしぶりの出席だ。うれしい。わたしは8か月皆勤している。
ノルディックウォーキングの練習。理学療法士、伊藤先生の指示で、2本のポールを用いずに歩行する。腕の振りをわすれてはいけない。意識して振る。なかなか、右腕が後方にのびない。背後から、リハビリ専門スタッフの大瀧先生が見つめている。さぼれない。きびしい。〈先週よりも両腕がよく振れてますよ〉からだのバランスはどうやら保たれているようだ。
授業の最後は「口腔トレーニング」美人の介護士、藤田先生ののびやかな誘導がたのしい。「七生麦 七生米 七生卵」の早口言葉は、一語一語、噛みしめながら発音する。口内が明るくなった。さっぱりする。「雪」の合唱も、大きな声がだせる。わたしは1人住まいだから、ここぞとばかり大声で発散する。歌はどべただ。しかし、うたいたい。生徒はみなさん、なぜか、おしとやかなのである。
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中央・総武線の大久保駅のプラットホームを、佐多稲子が継母といっしょに歩いていた。大学にかよう午後のことだった。稲子は、実母とは幼いころに死別している。継母とはそんなに年齢がはなれていないはずだ。2人とも灰色の和服に黒っぽい羽織を着けていた。ホームの端を継母がすたすたと歩き、そのあとを稲子がゆっくり歩いていく。のどかな風景だが、わたしは継母のたくましさを想ったものだ。
作家、吉行淳之介の展覧会を見学したことがある。そこに稲子の便箋の手紙文が公開されていた。達筆だった。うつくしい文字を書く人である。稲子はどの賞だか、受賞した。その選者の吉行に礼状をしたためている。稲子は筆まめな人でもある。
稲子は文芸評論家の平野謙にもよく手紙を書いていたのだろう。ある日、平野夫人がこんなことをいった。〈作家のほうが文芸評論家よりも上だと、佐多さんは思ってる〉と。たしかに作家は、自作を評価する文芸評論家に気をつかうのかもしれない。が、その妻の存在にまで気はまわらない。
夫人は稲子に否定的だった。稲子は小説家の自分のほうが文芸評論家のわが夫よりも〈上だ〉と思っている。〈上〉とは。夫人は何を意味してそういったのだろう。
夫へ対等に意見を書いてくる女性作家に、あるいは、妻は反発や嫉妬をおぼえたのかもしれない。日頃から夫に抑圧と軽視を感じていたとすれば、妻のそんな感情は理解できる。あるいは、夫人は収入の格差をいったのかもしれない。おなじように苦労と時間をかけながら文芸評論家のほうが収入が少ない。夫人の女房的リアリズムは無視できない。
平野謙は、プロレタリア文学を書いた、佐多稲子・宮本百合子・平林たい子を高く評価し、尊重していたのだった。
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