ロシアから見たクリミア問題

ロシアのクリミア併合を巡って内外のマスコミは一斉にロシアを非難して止まない。力による脅しで国境を変えるのは不法で許せない、と。これをロシア側の立場に立って、その論理を斟酌して、ことの真相を見極め、事態の推移を分析してみたい。

 

遅れたロシアを西欧なみにという志向は17世紀のピョートル大帝以来、ロシアの悲願であった。「進んだ西欧、遅れたロシア」というロシア人の認識自体は現在にいたるまで変わっていないだろう。しかし、ソ連時代になって一度は米国と世界を二分する覇権大国になったことがある過去をもち、この劣等意識はかなり希薄化した。ロシアはソ連時代に根強い「欧米不信」を経験した。冷戦体制のなかで旧ソ連は情報開示にかたくなであった。一方、欧米は推論をもった色調で敵対国ソ連を「悪く書」いたり、潤沢な情報量を背景としてソ連の人権問題をえぐり出したり、また科学技術上のノウハウを駆使してソ連を出し抜いたりした。ソ連が先端技術において大きく欧米に後れを取っていたことは明らかであり、人権や自由の考え方も西欧のそれと違っていた。だが、それらをあげつらう西欧は、ソ連からみれば、欧米のソ連蔑視であり、ロシア人はこれに長く屈辱感を抱いていたと見ることが出来る。この背景にはロシア人の大半が正教徒であることも関係してると思われる。正教徒には根深いカトリック不信がある。

ソ連が崩壊し資本主義体制に変容したロシアになってからはどうか。欧米のロシア蔑視は変わっていない。このことにロシアは平生から快く思わなかっただろうし、加えられた侮蔑には怒りをもっていたであろう。今時のクリミア問題はその怒りの爆発と理解される。

ロシア人の大半は正教徒である。正教は東ローマ帝国、後のビザンツ帝国の国教として発展し、東方正教会、オルトドクスとも称せられる。正教サイドからみればカトリックは教理上の見解の違いで早くから分派として離脱していった。オルトドクスの原意は「正統派」である。中世には西欧キリスト教のイスラム勢力への聖戦として発動された十字軍が、名目上の目的は果たさずにビザンツの帝都コンスタンチノープルを攻略しさえした。16世紀には興隆するイスラム勢力のオスマン帝国軍に包囲されたビザンツ帝国は同じキリスト教のカトリックローマに援軍を懇願したが、ローマはこれに応えず、コンスタンチノープルは陥落し、ビザンツの命脈は尽きた。槌と鎌だったソ連の国の紋章はロシアになって双頭の鷲に変った。これはロマノフ王朝の紋章である。ロマノフ王朝はコンスタンチノープル陥落以降、正教の首座はモスクワに移り、モスクワが第三のローマだとする見解を踏襲している。双頭の鷲はビザンツ帝国の紋章であった。

20世紀、第二次大戦前、クロアチアの極右組織ウスタシャはローマカトリックの精神的支援を受けつつ、セルビアの正教徒を虐殺した。バチカンは正教徒駆逐は否定しなかったので、ウスタシャの非道を見て見ぬふりをした。ユーゴスラビア正教徒のカトリック不信は根深い。

岩田昌征氏の指摘(ちきゅう座サイト2014.3.22)で知ったことだが、ソ連崩壊の前、ブッシュ(親)米大統領はゴルバチョフに旧ワルシャワ条約機構加盟国のNATOへの加盟はないと約束していたそうだ。ソ連としては、自国を仮想敵として成立したNATOがソ連国境に及ぶことは自身の存在基盤を危うくするという強い危機感を抱いていた。だが約束は破られたことになる。ゴルバチョフは騙された。ソ連がロシアに変わって、NATOは旧ワルシャワ条約機構諸国を組み入れたし、ロシアに直接国境を接する旧ソ連領バルト諸国にもそれは及んだ。NOTOと距離を置きたいため、プーチンは昨年の年次教書演説で、現行のロシア、ベラルーシ、カザフスタン3国の関税同盟に触れ、ウクライナを含めるべく要請していた。

今時、そのウクライナでこの動きに逆行する事態が生じた。ヤヌコヴィッチ政権とそれに対立する反政府側との紛争だ。ロシア主導で行こうというヤヌコヴィッチに対し、ロシアの影響力から離れてEU接近を図る反対派が立ち上がった。紛争が拡大したとき、欧米とロシアはそれぞれ背後からこれを調停していこうと図ってきた。とくに、今年2月21日には、反政府側と政権側とは協定が結ばれた。大統領の権限を縮小し、新たに選挙を実施し、その上で国民連合政権を発足させるというものだ。この協定にはドイツやフランスの外相が保証人となっていた。ロシアは当初、この協定自体を認めたがらなかったが、オバマとメルケルがプーチンにヤヌコヴィッチをして協定に署名すべく強く迫ったのだ。だが、協定が成立して1日とたたない間に、ネオナチを中核とする反政府側の暴力によってヤヌコヴィッチが国外に退去させられ、協定は事実上反古になった。欧米はこの協定のことも、選挙によって成立したはずの政権が反政府側の暴力によって倒されたことの可否についても触れたがらない。

米国の軍事介入は古くはチリのアジェンデ政権打倒、インドネシアのスハルト政権誕生などに見られるような大衆的政治行動を媒介とせず軍部に直接クーデタを唆して政権転覆を図るやり方だった。最近では反政府側の大衆的デモに肩入れし政権を転覆させ、あらたに親米的な政権の樹立を図るやり方に変わってきた。新政権が親米的であればいいのだ。 イラク、リビア、シリア、そしてアフガニスタンでもそうだった。ユーゴスラビアを分解させたのも米国だ。民主化とはほど遠い。米国が軍事介入をする理由はこれらの国の政権がアメリカの利害に反する行動をとっていたからだ。民主主義とは関係ない。

ウクライナの暫定政権にはネオナチがいる。ネオナチの中核は政治組織スボボダだ。ウクライナ西部、ガリツィア地方に拠点を置いている。ガリツィア地方は「1950年代半ばまで反ソ武装闘争が行われていた。その後もソ連の支配を潔しとしない人々が海外に逃れた。亡命先として最も大きなコミュニティーがあるのはカナダで、約120万人のウクライナ系コミュニティーがある。カナダで英語、フランス語に次いで話されている言語はウクライナ語だ。1980年代末、ゴルバチョフのペレストロイカ(改革)政策でソ連人の外国人との接触条件が緩和されると、カナダのウクライナ人はガリツィアの親族、知人が展開するウクライナ独立運動を、資金的、政治的に支援し、現在に至っている」(佐藤優「内戦勃発になりかねないウクライナ危機の本質」ネット、「産経ニュース」2014.3.7)。

スボボダは公然とナチズムを肯定する過激な民族主義者の組織だ。反ユダヤ的人種差別を公然と表明し、平時でもユダヤ人への迫害に躊躇しない。同時に反ロシアでも共通し、その暴力は過激だ。今回もキエフ独立広場で突出してスナイパーなどを買って出て、多くの死傷者を出す原因を作ったとされる。ロシアのマスメディアはスボボダによる殺戮の脅威をしきりに報道していた。スボボダはウクライナ暫定政権の一角として有力な構成メンバーになっている。

「エルサレム発ユダヤ通信社JTAによれば、ユダヤ人機関(JA)議長のナタン・シャランスキー氏(旧名アナトーリー・シチャランスキー=ソ連時代の反体制派の一人でシベリア送りされ、86年2月収容者交換で釈放後、イスラエルに。イスラエル内閣の閣僚も務めた)は2月22日声明を発表し、ウクライナのユダヤ人コミュニティーを緊急に救援するよう広く呼びかけた。ウクライナのラビの一人モシェ・アズマン氏は「マーリヴ」紙に、ユダヤ人信徒たちにキエフを、できればウクライナを離れるように忠告したと語り、 首都のユダヤ人学校を休校にしたことも明らかにした。キエフのイスラエル大使館はユダヤ人たちに外出を控えるように連絡したことも伝えられた」(元共同通信モスクワ支局長・中澤孝之氏のレポート)。

ロシアはクリミア自治共和国へのスボボダのスナイパー侵入を極度に警戒し、共和国自警団に物心とも支援し続け、住民投票に漕ぎ着けた。それ以前、ソチ冬季五輪の警戒にあたっていたロシア軍がクリミアに回された。ロシア軍はウクライナ国境には軍備を敷いたが、クリミアに本格的進出はしていない。米国は衛星監視で熟知しているはずだ。

欧米はウクライナの領土の一体性を声高に叫ぶ。しかし、コソボの武装組織「コソボ解放軍」が時のユーゴスラビア政府に反旗を翻した時はどうだったか。「コソボ解放軍による様々な犯罪が最も悪化したのは、1998年の夏だった。そのとき、彼らはオラホヴァツ(英語版)の町を攻撃しようとした。ユーゴスラビア政府はこの状況にどのように対応すべきかを長く思案していたが、このコソボ解放軍の挑発に対し何らかの対策をとるべきだと判断した。スロボダン・ミロシェヴィッチ政権は英米とその同盟国とは関係が悪く、もしユーゴスラビア政府が「コソボ解放軍」を攻撃すれば英米にアルバニア人を迫害していると非難される危険性があった。スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は英米及びその同盟国との衝突を回避するか、それとも国民と国土の一体性を守るかというジレンマに陥っていたが、最終的には後者を選択した。そして、ユーゴスラビア軍は「コソボ解放軍」への攻撃を強化した」(以上「ウィキペディア」)。

米国は反欧米的なミロシェビッチを東欧共産主義者の最後の生き残りと見て、その指導下のユーゴスラビアを叩くべく、70日以上に渡りイタリアの基地から飛び立った爆撃機により空爆し屈服させた。このあと、コソボは事実上分離独立を果たした。コソボは欧米を志向して独立を果たした。現在、コソボには米国の大軍事基地が設置されている。この時、だれがユーゴスラビア、セルビアの領土の一体性を問題にしたであろうか。

ユーゴ空爆の時、ロシアマスコミは連日爆撃がロシア領土へのそれであるかのように猛烈に反発し、反米的国民感情が高揚した。ソ連がロシアに体制が変わっても、ユーゴは同じ正教の国であり、ミロシェビッチの共産主義への郷愁とも相俟って、ロシアは米国の振る舞いに我慢できなかった。だが、経済危機から脱して間もない当時のエリツィン政権は外交に余裕がなく、駐露ユーゴスラビア大使はミロシェビッチの実弟であったが、ロシアは大使へ何も約束できなかった。ロシア国民のあいだに欧米への拭いがたい屈辱感が残っただけだ。

今回、プーチンは欧米から突きつけられた制裁をよそに、クリミア自治共和国を併合する条約に署名した。クリミアにはロシア人が6割以上住んでいる。ロシアによるクリミア併合について、ソ連時代に1954年にクリミアをウクライナに移管したことはソ連の法律に違反していて、ロシア領に戻すことはその間違いを正すことだとした。独裁者ニキータ・フルシチョフが住民の意向を素通りさせてクリミアの帰属をウクライナに独断で変更したのだからと。クリミア併合についてはコソボ独立を例に引いて欧米の二重基準を突いている。さらにプーチンの強気の背景にはロシア議会と国民の圧倒的支持がある。新たな冷戦を思わせるようなロシアに対する国際世論の厳しい流れにも、プーチンは自信をもって対峙している。この自信の背後には何があるのか。

ロシア経済は石油と天然ガスで潤い、エリツィン時代と比較して立場が向上している。脆弱な国内産業を抱えるとはいえ、国際的な結びつきも強く、貿易、投資、エネルギー、文化などで結ばれている。ロシア孤立化は周辺国にも損失をもたらし、容易ではない。そうした事情を勘案した上でなお、筆者にはプーチンの強気の背景には上述のロシアの対欧米劣等感からの解放と、正教徒的視点からの同胞愛と、また、それと表裏一体の全般的欧米不信とが底流となっているように思えてならない。  2014.3.30

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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