「神」を守る「チェーカー」
このロシアの「神」を守り抜く役割を果たしのが「チェーカー」ということになる。1917年12月、人民コミッサールソヴィエトが反ボリシェヴィキのストライキやサボタージュに対抗するために「反革命・サボタージュとの闘争に関する人民コミッサールソヴィエト付属全ロシア非常委員会」(VChK。その後何度も名称変更するのだが、「チェーカー」と総称された。これは一種の秘密組織であり、日本で言えば、特別高等警察[特高]のようなものであった)が創設された。このきっかけとなったのは、11月15日に武装解除に応じた反革命派の大半が数週間のうちに反革命派に復帰してしまったという事件であった。
注意喚起すべきことは、「国家権力と党機構がそのなかで合体するように見え、そしてまさにそれが故に全体主義支配機構の権力中枢として正体をあらわす唯一の機関は、秘密警察である」と、ハンナ・アーレントが指摘している点だ(Arendt著『全体主義の起源』)。軍は暴力的な潜在力はもつが、秘密警察は内外の問題についてともに権力中枢に利用される(軍は主に対外的に活動するだけだ)。心に留めるべきことは、自国のなか、ないし外国領土を征服した場合、軍は一貫して警察機構に籍をおく官僚の命令権下におかれ、国防軍に所属する者は警察が配置した精鋭組織の風下に立たされることである。さらに、全体主義的支配形態が出現するまでは、秘密警察は他のすべての政府機関に対する優位を与えられる、つまり、「客観的な敵」がだれであるかを決定する権利を留保しているが、全体主義が確立すると、最高指導者にすべての権利が奪われ、犯罪を摘発する任務さえ失う。いかなる犯罪が行なわれ、だれが犯人であるかを決める のは最高指導者ということになる。
全体主義を支えた「チェーカー」
1922年2月、全ロ中央執行委員会はVChKを廃止し、内務人民委員部付属国家政治総局(GPU)に再編する決定を採択した。重要なのは、「チェーカー」(VChKやGPU)が単なる官僚機構ではなく、テロや階級への復讐のための道具となったことである。その存在は、プロレタリアート独裁は反革命や階級の敵に対して国家の強制権力を使わなければならないとしたレーニンの考え方に両立するものであったのだ。「チェーカー」は「初の社会主義政権」を支持するかどうかというイデオロギー上のチェック機関として機能するようになる。それどころか、スターリンの独裁がはじまると、スターリンによるスターリンのための反スターリン主義者の粛清機関となるのだ。こうして「チェーカー」は暴力と恐怖によって、全体主義的な傾向に一挙に傾くのである。
企業内で起きたこと
「チェーカー」は企業内にも存在し、企業活動を監視してきたし、ソ連崩壊後の21世紀の現在でも省庁や大規模な企業や銀行は監視下におかれている。この点こそ、ロシアの特殊性に基づくきわめて重要な特徴である。だからこそ、筆者は拙著『ネオKFB帝国』や『プーチン露大統領とその仲間たち』のなかで同じ趣旨を繰り返し指摘してきた。ここでもう一度、この問題を再論したい。ロシアの特殊性がもたらしているもっとも重要な点に対する理解がいっこうに進んでいないからある。
最初の「チェーカー」であるVChKのなかには、スパイ闘争・軍管理のための特別部のほか、鉄道・水輸送およびその活動監視への敵対要素との闘争のための輸送部、経済における経済スパイ、妨害行為、破壊行為との闘争のための経済管理部、外国での諜報実施のための外国部、反ソヴィエト的党・グループ・組織との闘争のための、同じく、知識人や芸術家の監視のための秘密部があった。さらに、「その後、国家安全保障のソヴィエト機関の活動ないし関心のこれらの方向性は変わることなく残され(名称が変更されただけ)、定期的な改革に際してもなんらかのかたち(部、管理部ないし総局)でつねに自らの形態のままであった」という。つまり、VChKはその後、国家政治総局(GPU, 1922年)、統一国家政治総局(OGPU, 1923年)、内務人民委員部(NKVD, 1934年)、国家保安人民委員部(NKGB, 1941年)、国家保安省(MGB, 1943年)、国家保安委員会(KGB, 1954年)のように変化するが、「経済における経済スパイ、妨害行為、破壊行為との闘争のための経済管理部」のような下部組織をもち、企業内での工作を継続してきたのである。
おそらく、「チェーカー」の企業内への「配備」は、ゲンリフ・ヤゴーダの後任として内務人民委員部のトップ(内務人民委員)のポストに1936年に就いたニコライ・エジョフによって推進された。「1937年に向けて、レーニン党の徹底的根絶の作戦を準備しながら、彼は内務人民委員部を師団や数十万の警備員をもつ巨大な軍に変えた。内務人民委員部の機関はすべての地方で絶対的な権力になった。内務人民委員部の特務部がすべての大規模な企業や、すべての教育施設に配備された」のである(ラジンスキー著『赤いツァーリ』, 1996)。
たとえば、1959年1月9日から1991年5月16日までKGBの活動を律してきた「ソ連国家保安委員会とその地方機関に関する規程」をみると、国家保安機関の権利として、第九条において、「課題遂行のために国家保安委員会とその地方機関につぎの権利が供与される」とあり、そのなかに、「省庁同じくそれらの従属する企業や設備における暗号業務や機密事務の状況の検査を行うこと」という項目がある。この工作があからさまに企業内で行われるのか、工作員を秘密裡に送り込んで実施するのかはわからないが、「チェーカー」の伝統として企業への干渉が継続されていることになる。
特筆すべきことは、1937年から本格化する大粛清を前に、1936年の段階で、スターリンの権力基盤である内務人民委員部が全権を掌握していた点である。ラジンスキーはつぎのように明確にのべている。
「内務人民委員部特務部は、今は上は中央委員会にまでいたる党の全機関を監視下においており、党のすべての指導者たちが、内務人民委員部の承認を得て初めて自分のポストにつくことが認められた。内務人民委員部自体も、党の内務人民委員部の職員たちを監視する秘密の特別部が設けられた。そしてそれらの各特別部を監視する秘密の特別部も」。
そして、こうした状況は多くの人々が互いに中傷し密告し合う社会を広げた。だからこそ、1938年になってボリショイ劇場で開催されたVChK(ヴェーチェーカー)20周年祭の祝典で演説したアナスタス・ミコヤンは「わが国ではすべての勤労者が内務人民委員部の職員になった」とのべたのであろう。さらに、「チェーカー」のトップであったラヴレンチー・ベリヤが一時期、核兵器開発の監督者に指名され、モスクワのミサイル防衛の総責任者でもあった理由がわかるだろう。
連邦保安局法の重要性
すでに拙著『ネオKGB帝国』で指摘したように、ソ連時代、国家所有のもとにあった企業には、「第一課」(ペールヴィ・アトジェール)と呼ばれるKGBの「細胞」があり、企業の機密保持活動に従事していた。この組織はソ連崩壊後なくなったが、ロシアになってからも、連邦保安局(FSB)から担当者(クーラートル)と呼ばれる者が大規模企業に出向き、企業を監視している。国防発注を受けている軍産複合体には、FSBだけでなく、地方検事局からの監視者もいる。これがロシア企業の実態なのだ。
KGBの後継機関の一部である連邦保安局(FSB)を優位に立たせたのが1995年4月3日に制定された連邦保安局法だ。その15条では、国家機関、同じく、企業・施設・組織が連邦保安局機関に協力しなければならないとされ、とくに、「テレビ・秘密・衛星通信システムを含む、すべての種類の電子通信、郵便通信のサービスを提供する、ロシア連邦における個人および法人は、連邦保安局機関の求めに応じて機器に追加的設備やプログラム手段を含め、また、連邦保安局機関によるオペレーション技術措置の実施に必要なその他の条件を創出する義務を負う」ということになった。盗聴に協力することが義務づけられたのだ。
15条には、もう一つ、驚くべき規定がある。「ロシア連邦の安全を保障する課題を解決するために、連邦保安局の軍人は国家機関、所有形態と無関係の企業・施設・組織にそれらの指導者の合意のもとに、軍人を軍事勤務に残したまま、ロシア連邦大統領によって定められた方式で一時的に派遣されうる」というものだ。軍人と同じような将校などの肩書きをもつFSBの職員が「一時派遣者」として企業において「屋根」の役割を果たすことが可能になったわけである。おそらくこの規定がプーチン政権になって積極的に利用され、それが上述したFEBの担当者(クーラートル)の活用につながっているものと考えられる。
官庁でも同じようなことが起きている。拙著『プーチン露大統領とその仲間たち』で詳述したように、筆者は2016年2月、モスクワで拉致された経験をもつ。そのとき、筆者を拘束した責任者の名刺には「連邦漁業庁・国際協力総局 ミリュチン・ヴィクトル・ニコラエヴィッチ」とあった。だが、彼は自分を連邦保安局の職員であると名乗った。つまり、彼はFSBから漁業庁に出向するかたちをとっていることになる。
ここで強調しておきたいのは、いまのロシアは「チェーカー」の伝統を引き継いでいるという特殊性である。日本には、諜報機関と呼べるほどの機関はないが、治安維持機関はある。だが、警官や検察官が民間企業に出向したり、秘密裡に工作員として民間企業に潜り込んだりして工作活動をするなどということはないだろう。れっきとした諜報機関をもつ欧米諸国でも、ロシアでいま現在なされているような監視活動はしていないだろう。ゆえに、「チェーカー」の伝統に由来する、この諜報ネットワークの構築こそロシアの特殊性なのだ。
学問の世界では、企業統治を各国ごとに比較するような研究が行われている。ただし、この事実に気づいている英語、ロシア語、日本語の文献(本でも論文でも)を読んだことがない。はっきり言えば、世界中の大多数の学者はなにが重要かをわかっていない。だからこそ、改めてロシアの特殊性と、それがもたらしているいまのロシアへの注意喚起をしたいと思った次第である。
最初に紹介した井筒俊彦は、「言語コミューニティごとの人間生活の具体的現実の只中においてこそ、個々の倫理的または道徳的キータームの意味は形成される」と説く(井筒著『井筒俊彦全集 第11巻 意味の構造』, 1959=2015)。各国ごとの特殊性を考察するには、井筒の主張するように、いわば「文化パラダイム的相違」にまで立ち入って考える必要がある。長い歴史を虚心坦懐に探究する姿勢が肝要なのだ。あえて指摘すれば、拙著『官僚の世界史』こそ、その試みを粘り強く丹念に行ったものである。だからこそ、ここで紹介したような「ロシアの特殊性」も見えてきたのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study763:160831〕