ロヒンギャ問題:南アジアの多数派優位主義の歴史 Murderous Majorities by Mukul Kesavan, New York Review of Books

 ロヒンギャ問題をミャンマー人が語るとき、ロヒンギャへの頑なな憎悪に驚かされることがある。この背後には、仏教徒多数派が長年にわたって国民の間に醸成してきた多数派優位主義的感情がある。

 多数派優位主義の中では、多数派の政治的基盤を固めるために少数派の迫害を利用する。大虐殺が起きるたびに、多数派優位主義の政党が勢力を伸ばしていく。このような動きがミャンマーだけでなく南アジアの各国で繰り返し起きてきたことは、歴史をひもとけば明らかだ。

 ガンジーが夢見ていた「一つのインド」は実現せず、パキスタンとインドに分割されて独立したこと自体が、少数派になりたくないというイスラム教徒の望みから出たことだった。インドは独立後しばらく多数派優位主義に抵抗していたが、1983年のアッサム州ネリーのイスラム教徒虐殺事件以後くりかえし起きる大虐殺をきっかけに、多数派優位主義へと突き進んできた。今ではほとんど全ての南アジア諸国が宗教的多数派優位主義の政治体制になってしまった。
 ミャンマーは仏教徒が多数を占めたが、その中に英領インド時代から何世代も住んでいるイスラム教徒を抱えている。イスラム教徒であるロヒンギャを国民と認めないことで選挙権を剥奪し、議会にイスラム教徒が一人もいない状態を実現したのは、皮肉にも民主化プロセスの中で起きたことだった。
 今もロヒンギャの脱出は止まらず、バングラデシュ領内に難民となったロヒンギャの行き先が見つかったわけでもない。だが世界の人々がロヒンギャ問題を忘れ、ロヒンギャ問題の報道が沈静化すれば、ミャンマーの多数派優位主義者は我が意を得たりと勢いづくことになる。その意味でも、この問題に関心を向け続ける必要がある。

 ふり返って日本を見れば、安倍政権が振りまく排外主義的言動とポピュリズムが、南アジアの多数派優位主義と重なって見える。これは全世界的現象なのだろうか、あるいは国民国家というシステムが抱える根本的な問題なのだろうか。

 定評ある書評誌ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス2018年1月 18日号掲載に掲載された歴史家ムクール・ケサバンの書評『Murderous Majorities』を翻訳して紹介する。

 ムクール・ケサバンはニューデリーの大学ジャーミア・ミリア・イスラーミアで植民地時代のインド史を教えている。

原文はこちら。

(注:翻訳はアップ後微修正することがあります。)

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多数派が殺意を抱くとき

ムクール・ケサバン

『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』
アジム・イブラヒム著、ムハマド・ユヌス序文
ハースト刊、改訂新版、239ページ、£12.99 (ペーパーバック)

『ミャンマーにおけるイスラム教と国家:イスラム教徒・仏教徒間関係と帰属の政治』
メリッサ・クラウチ編
オックスフォード大学出版局刊、345ページ、$55.00

ロヒンギャはイスラム教徒のコミュニティーで、その居住地はミャンマー西部ラカイン州の北部に集中している。ラカイン州にはイスラム教徒が何千年にもわたり暮らしてきたが、その人口は植民地時代に英領インド、特にベンガル地方からの移住によって著しく増えた。最近バングラデシュへの集団強制移住が起きる前は、ミャンマー国内のロヒンギャ人口は百万人を少し上回ると推計されていたが、この数字は論争の的になっている。政府はロヒンギャを正当な呼び名と認めたくなかったので、最新の国勢調査にはロヒンギャが含まれていなかった。ミャンマーの軍部指導者が1978年と1990年代初頭、2012年に実施した「一掃作戦」のとき近隣のバングラデシュに逃げ込んだロヒンギャ難民を含めると、総人口はもっと多くなりそうだ。

ラカイン州とミャンマー全土には他にもイスラム教徒のコミュニティーがあるが、唯一暴力的差別の的にされてきたロヒンギャとは、文化的・民族的に異なる。ロヒンギャの方言ははっきり異なり、民族的に「よそ者」だ。ラカイン州北部に集まって住んでいることが組み合わさると、ミャンマー指導者の目に映るロヒンギャは、同化不可能で、仏教国を自認するこの国の統合に対する脅威だ。

2017年8月の末に、ロヒンギャ過激派がラカイン州北部でナイフと手製爆弾を使って警察署を襲った。12人の治安部隊員が殺された。ミャンマー軍はロヒンギャの村々への焼き討ちで報復し、民間人の殺害とレイプを行い、50万人以上のロヒンギャを、バングラデシュに逃げざるを得ない状況へ追い込んだ。

この民族浄化の規模こそが、南アジアにおける多数派優位主義政治の、最も高らかな勝利を表している。ロヒンギャの迫害のおかげで、ミャンマーは近隣諸国の多数派優位主義政党にとって、お手本ともいえる存在になった。ヒンドゥー教国家主義のインド人民党(BJP)が率いるインド政府は8月中旬、インド国内にいる4万人のロヒンギャ(以前の集団脱出による難民)は不法移民だから強制送還すると発表した。9月初めに、ミャンマー軍による「一掃作戦」の凶暴性が知られるようになり集団脱出の規模が明らかになった後でさえ、ナレンドラ・モディ政権では誰一人として声を上げず、一国の政府がしばしば蔓延する人間の苦悩を認めるために使う形式的な憂慮の表明さえ行われなかった。

多数派優位主義(国家の政治的運命は宗教的あるいは民族的な多数派が決定すべきだという主張)は、南アジアの国民国家と同じくらい古くからあり、脱植民地化の原罪だ。植民地独立後の南アジア諸国は、程度の差はあれ大筋では多元的で非宗教的な国家という理想を掲げて出発したが、独立から約10年を経て、軍部指導者に権力を奪われるか、多数派優位主義政治家によって宗教国家に変貌した。

パキスタンはイスラム教徒が多数派の国を作るため英領インドから切り出された。建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーは時に非宗教的国家の考えを支持するかと見えたものの、1947年インド分割(インド・パキスタン分離独立)の時の大量虐殺ともいえる暴力の結果、同国から非イスラム教徒の少数派を事実上排除してしまった。短命に終わった1956年憲法で、パキスタンは自国を正式にイスラム共和国と定義し、以後60年以上にわたって続いている。スリランカ(当時のセイロン)は、1948年に非宗教的国家として建国されたが、1956年までにシンハラ人仏教徒の政治家が押し切る形で仏教共和国と再定義され、仏教徒多数派の言語であるシンハラ語を唯一の国語に定めた。この多数派優位主義の動きは、同国の北部と東部に集中する相当数の非仏教徒少数派であるタミル語の話者を隅に追いやることを狙ったものだった。パキスタンから1971年に独立を勝ち取ったバングラデシュは、ベンガル語を話す非宗教的な国として建国されたが、1975年のクーデターの後、軍事政権がイスラム共和国へと変えてしまった。(最高裁判所が2010年に世俗主義を回復したが、イスラム教はバングラデシュの公式宗教のまま残った。)

ミャンマーを第二次世界大戦後にイギリスから独立させ1947年に暗殺されたアウンサン将軍は、非宗教的な共和国を思い描いていた。しかしミャンマーを独立国家として確立した1948年の憲法は、ほとんどの少数民族に完全な市民権を与えたものの、ロヒンギャには与えなかった。1950年代を通じて、ウー・ヌ初代首相の政府はロヒンギャコミュニティーの存在を認め、ロヒンギャに市民権を与える見通しを示した。1961年の国勢調査では「ロヒンギャ」を一つの人口分類として認めさえした。ミャンマーの明確な仏教国への変貌は1962年に始まり、軍事政権がクーデターで権力を掌握し、仏教国家主義のイデオロギーを押し付けた。この動きが頂点に達した1982年の市民権法は、ロヒンギャが完全な市民権を得ることを公式に否定した。

皮肉にも、それは2012年から2017年の民政移行期間に起きた。そのとき同国は民族浄化を通して、また民主的手続きと制度から公式にロヒンギャとイスラム教徒全般を排除することによって、純粋に多数派優位主義の政治形態となった。2012年の暴力は(2017年の民族浄化の前兆だったが)、12万人のロヒンギャをラカイン州北部の街から追放し国内強制移住者のキャンプに閉じ込める結果となった。2014年の国勢調査は「外国人」少数派を排除するように作られたもので、ラカイン州の人口のほぼ3分の1がカウントされなかった。これはロヒンギャがベンガル人イスラム教徒と名乗ることを拒否したためで、もしそれを認めてしまうと、ロヒンギャは外国人であって国民ではないという主張に信用を与えかねないと考えられた。この国勢調査は、2015年に行われる同国初の民主的選挙のための新しい選挙人名簿の作成に使われたが、実質的にロヒンギャから選挙権を剥奪し、結果として独立後初めてミャンマー連邦議会からイスラム教徒が完全に消えた。

政府はその年、ロヒンギャに保健・教育サービスの権利を与えていた登録カードを没収した。このカードは近年まで選挙権の証でもあったが、選挙権は政権が気まぐれで与えたものだった。またこのカードはロヒンギャが持つ身元や居住を示す唯一の公式書類だった。これらの行政処分により、ラカイン州とミャンマー全体で仏教徒が首尾良く支配権を握った。

選挙プロセスと連邦議会の両方から重要な少数派が消えるということは、南アジアの多数派優位主義者の積年の果たせぬ夢である全面勝利と同然のものだ。ミャンマー選挙の1年前の2014年に、ナレンドラ・モディがBJPを率いてインド総選挙で絶対多数を取った。モディの多数獲得は、BJPから一人もイスラム教徒の連邦議会議員を出さなかったという点で歴史的だった。だが他党から23人のイスラム教徒がインド連邦議会の下院であるローク・サバー(Lok Sabha)に選出されているので、ミャンマーの議会に一人もイスラム教徒がいないというのは多数派優位主義にとってさらに徹底した勝利だった。インドの右派ヒンドゥー教国家主義政党がイスラム教徒から距離を置くのは驚くことでもないが、ミャンマーでイスラム教徒の候補を一人も立てなかったのは、アウンサンスーチーの党であるリベラル野党の国民民主連盟(NLD)だった。NLDがイスラム教徒の候補を排除したのには戦略的な理由があったかもしれない。過激主義者の僧侶が扇動した反ロヒンギャ感情を切り抜けて、民主制への微妙な移行期間では軍の偏見に従ってラカイン州の仏教徒多数派との敵対を避けるため。あるいはNLD党員の偏見のためだ。その結果、既に立場を脅かされている少数派は政治的に疎外された。イスラム教徒を連邦議会から排除し60万人のロヒンギャを乱暴に追放したミャンマーは2017年、宗教的多数派による政治的支配の達成を確実なものにした。

アジム・イブラヒム著『ロヒンギャ、ミャンマー大虐殺の内幕』はラカイン州で起きている悲劇の客観的な歴史を装ったりしない。これは党派心に基づいた本で、読者に訴えているのは悲劇の歴史理解ではなく、その緊急性と洞察だ。長く待たれていた選挙の直後、2015年に完成したこの本は、民主制への移行により、悲劇的にもロヒンギャはさらに排斥された弱い立場に置かれ、NLDと軍が迫害を止めようと動かない限り、追放の可能性がこれまで以上に高まったと警告する。2017年9月の暴力の後で書かれた改訂版ペーパーバックの終章で、イブラヒムはこの予測の正当性の証拠を検討し、「不安定な状況がコミュニティー全体の民族浄化へとエスカレートするのを我々は見ているのだ」と主張する。彼の洞察、特に2015年の民主制移行を扱った部分はこの本を薦めるに十分な理由だ。

多数派優位主義は別種の市民権を強く主張する。多数派の宗教と文化を持つ者を真のミャンマー国民とみなす。その他は厚意による国民、つまり多数派のゲストであって、礼儀正しく敬意を持って振る舞うことを期待される。あくまで多数派の計らいによって許容されているのであって、近代民主制での完全な市民権に代わるものではない。中ぶらりんの状態で、慢性的に不安定な状態だ。少数派の完全な市民権を否定するような政治形態は、遅かれ早かれ、少数派の権利を政治的に奪う。また居住者であっても全く国民とはいえず、実際は別の地域(インド、パキスタン、タミル・ナードゥ州、あるいはロヒンギャの場合バングラデシュ)に属しているという理由で追放する。ミャンマーには3種類の市民権がある。国民、準国民、そして帰化国民だ。ロヒンギャは外国人に分類される。1980年代に至るまで多数派優位主義の誘惑に公式に抵抗していた南アジア唯一の国はインドだった。1950年に立憲制共和国として建国され、世界第3位のイスラム教人口を抱える同国は、相当数のイスラム教徒少数派を、完全で対等な国民として扱った。80%がヒンドゥー教にもかかわらず、インドの宗教的少数派はヒンドゥー教文化への同化を求められているというような感覚は、公式にはなかった。この同化を要求した政党は、モディ首相のBJPの政治的祖先にあたるインド大衆連盟(Bharatiya Jana Sangh)のような弱小地域政党だけだった。共和国の建国から25年の間、ジャワハルラール・ネルーと、続いて娘のインディラ・ガンディーの指導の下、インドは憲法の上では非宗教的国家に留まった。

1970年代末から1980年代初頭に、非常事態を受けて政治的バランスが変化し、インディラ・ガンディーは1975年から1977年まで独裁的統治を試みた。だが新たな政治を形作った要因には大虐殺もあった。1983年に、ベンガル人を祖先に持つ2千人のイスラム教徒が、アッサム州ネリーの街でわずか数時間のうちに虐殺された。(非公式推計は死者数を1万人以上としている。)虐殺を実行した土着のアッサム人はイスラム教徒をバングラデシュからの不法移住者と考え、その名前が選挙人名簿に載っていることを問題にした。当時比較的新しい国家だったバングラデシュは、同情を示さない隣国民から人口輸出をする国と見なされ、こうした移民はベンガル語を話すイスラム教徒のことが多かったので、外見も言葉も「よそ者」として目立った。

1983年のアッサム大虐殺はインド政治の転機となった。反イスラム教運動をエスカレートさせて大虐殺を起こした学生組織が政党を結成し、次の地方選挙で易々と勝利を収めた。この事件が示したことは、不法移民が深刻な問題であること、ベンガル人イスラム教徒が政治的なスケープゴートにされたこと、そして最も重要なのは、大虐殺が政治的な利益になりうるということだ。

1984年に、インディラ・ガンディーが2人のシク教徒の警護警官に暗殺された結果、デリーその他の場所で組織的なシク教徒殺しが起きた。彼女の息子ラジーヴ・ガンディーは、この大虐殺後の選挙で大勝し、ネリーの虐殺の教訓が、今度は国家レベルでより強固なものになった。ボンベイ(1992年〜1993年)とグジャラート州(2002年)で続いて起こったイスラム教徒の大虐殺の後には、シヴ・セーナー(Shiv Sena)やBJPのような暴力に加担する政党が選挙で勝利を収めた。公式には少数派の権利剥奪はなかったが、インドの多数派優位主義政党は少数派に対する暴力を煽れば選挙で票が集まることを学んだ。

多数派優位主義の暴力は南アジア全域で権力への近道となった。ミャンマー、パキスタン、バングラデシュでは、権力基盤の不安定な軍部指導者が国家を宗教的多数派に寄り添わせることで正当性を得ようとし、インドとスリランカでは侵略的な少数派によって国家が転覆されつつあるという考えを広めた先住民優位主義の政党が選挙に勝利した。20世紀の終わりまでに、多数派優位主義政党は全ての南アジア諸国で政権の座に着くか野党第一党になっていた。

ミャンマーのイスラム教徒と政府の関係を取り上げた論文集『ミャンマーにおけるイスラム教と国家』にベンジャミン・ションサルが寄稿した小論で、ミャンマーにおける仏教徒の多数派優位主義がスリランカにおけるシンハラ人の先住民優位主義とどれほど似ているかを例証し、最近行われたある会合のことを指摘する。それはスリランカのボドゥ・バラ・セーナ(Bodu Bala Sena:仏教の力の軍)と、反イスラムを明言するミャンマー僧が率いる969運動の間で持たれたものだ。969運動で最もイスラム嫌いの説教者として知られるアシン・ウィラトゥ(Ashin Wirathu)が2014年の末にコロンボを訪れ、ボドゥ・バラ・セーナと969運動の相互理解に関する覚え書きに署名した。両国の国民は「より広い地域的な枠組みの中で自分たちの行動を見はじめている」ことをションサルは示す。

論文集の別の小論でニーニー・チョー(Nyi Nyi Kyaw)は、969運動の政治運動と、インドの民族義勇団(Rashtriya Swayamsevak Sangh)やBJPのようなヒンドゥー狂信的愛国主義者組織の政治運動とを比較した。高いとされている男性イスラム教徒の生殖能力と、一夫多妻の風習は、ミャンマー仏教徒の将来にとって脅威と見なされる。ここでの主張は、イスラム教徒の男性が「愛のジハード(聖戦)」を仕掛けているというものだ。イスラム教徒の男性が仏教徒の女性を誘惑するのは「生殖戦術のためだ。やつらはたくさん子どもを作り、雪だるま式に殖える」と、969運動の僧アシン・ウィマラール・ビウンタ(Ashin Wimalar Biwuntha)が非難したことを、チョーは指摘する。

「愛のジハード」や「ロメオのジハード」という言葉は、ヒンドゥー教の頑迷さを示す語彙から直接取ってきたものだ。BJPとその党員は「愛のジハード」を実践するいわゆる侵略的イスラム教徒との戦いに全力で取り組み、街角の自警団が「反ロメオ隊」を組織している。インドで最も人口の多いウッタル・プラデーシュ州の首相は、ヨギ・アデッテナート(Yogi Adityanath)というヒンドゥー教の僧で、ヒンドゥー教青年軍(Hindu Yuva Vahini)という私的な民兵組織を何年にもわたって養い、この実体のない敵に対する戦いを続けている。じっさい、彼が2016年に州首相に選出された最大の理由は、「ヒンドゥー教のストリートギャング」をイスラム教徒に立ち向かわせる彼の能力に実績があったからだった。

急速に繁殖し布教活動を行うイスラム教徒による人口絶滅という想像上の脅威は、インド、スリランカ、ミャンマーで多数派優位主義を動員するために中心的なものだ。インドのいくつかの州では改宗を厳しく規制する法律を可決した。その暗黙の目的はイスラム教やキリスト教への改宗を防ぐことだが、一方でヒンドゥー教への改宗は復帰と見なされ、ガル・ワプシ(ghar wapsi)つまり「帰郷」と呼ばれる。ヒンドゥー教の多数派優位主義の話法では、イスラム教徒とキリスト教徒は全てヒンドゥー教徒を祖先に持つということになる。

ミャンマーは、少数民族を乱暴に追放し、残留する者の権利を剥奪し、仏教徒の狂信的愛国主義者の偏見を法律にしてしまう能力において、南アジアにおける多数派優位主義の先導者であり続けている。ビルマ語名称の頭文字を取って「マ・バ・タ」と呼ばれる人種宗教信条保護機構は、人種宗教保護法と総称されていた法案を可決させる運動として2013年に始まった。2年あまりの間にこれらの法案は議会で承認され大統領の署名を受けて法律となった。

一夫一婦制、避妊、改宗、異宗教間結婚(イスラム教徒が暗黙の標的)に関するあらゆる法律の中で、目に余るほど甚だしく差別的なのは「ミャンマー仏教徒女性の特別結婚法」だ。20歳未満の仏教徒の女性は非仏教徒と結婚する際に親の同意が必要となる。地域の戸籍係には結婚申請書を掲示する権限が与えられる。誰からも異議申立がなかった場合に限り二人は結婚できるが、全ての国民は異議を唱えることができ、その結果として法廷で異議申立を受けなければならない。離婚の場合は、女性が自動的に子を引き取ることになる。この法律の目的は、仏教徒女性と非仏教徒男性の結婚をできる限り難しくすることだ。ミャンマー政府が宗教の擁護者として傑出することができたのは、宗教に基づいて自国の多数派に有利なように法的に差別したからだということに、南アジアの全ての国々の僧、聖職者、多数派優位主義者たちは気付くことだろう。

南アジアでの多数派優位主義はイスラム教徒を標的にするとは限らない。反抗的な少数派全般を罰する必要から引き起こされるのでもない。多数派優位主義政治の原因は、丹念に構築された多数派の自己イメージだ。自分たちは敵に虐げられ包囲されていて、長く苦しみを受けてきたので、これ以上黙って苦しむのは拒否すると強く信じているのだ。この被害感覚の醸成は、必ず続いて起きるリンチ、大虐殺、民族浄化の必要前提条件だ。

多数派優位主義は機会均等を頑迷に主張する。スリランカでは、タミル・タイガー(タミル・イーラム解放のトラ)が敗北し、タミル人の故郷を作るという目標は最終的に破棄されたが、ほとんど急進的先住民優位主義者を落ち着かせる役には立たなかった。シンハラ・ラバヤ(Sinhala Ravaya:シンハラ国家の咆哮)や、ラバナ・バラヤ(Ravana Balaya:ラバナの力、スリランカを支配したと信じられている伝説の王を指す)、ボドゥ・バラ・セーナにとっては、タミル人に代わってイスラム教徒が、シンハラ人仏教徒国家としてのスリランカの統合を脅かす存在となった。イスラム教徒のコミュニティーは内戦で孤児となった。イスラム教徒はタミル語を話すので長年にわたってスリランカ国家から不信感を抱かれてきたが、タミル・タイガー支配地域からもタミル人らしさが足りないので追い出された。現在、新たなイスラム教徒の脅威は、人口、金融(通商と産業を支配していると思われているので)、多国籍の問題と見られている。なぜなら一地域のイスラム教徒は、仏教徒世界をイスラム化するもっと広域の共謀の一部として見られるからだと、ションサルは書く。だが、スリランカの多数派優位主義者はイスラム教徒だけを叩くとは限らない。国民遺産党(Jathika Hela Urumaya)が長らく行ってきた、仏教以外への改宗に厳しい制限を課す法案を推進する運動は、キリスト教伝道者に対する嫌悪によって拍車がかかった。

ほぼ全人口がイスラム教徒(97%)のパキスタンでさえ、少数宗派のイスラム教徒を標的にした。1974年から同国は15年にわたるイスラム化のプロセスを開始し、アフマディ派の信者を非イスラム教徒と断定し、「神への冒とく法」を可決して少数派を迫害するため日常的に使ようになり、シーア派に対し恐ろしい暴力行為を進んで働くスンニ派原理主義組織をひいきにした。イスラム教徒が多数を占めるもうひとつの国バングラデシュでは、ヒンドゥー教徒の人口が減少してきた。シェイク・ハシナ首相の下でバングラデシュ国家はより世俗的になったが、ヒンドゥー教徒、少数民族、無神論者にとっては依然として危険だ。

最近のミャンマーからのロヒンギャ追放は非難の嵐を巻き起こしたが、これに対してアウンサンスーチー国家顧問やミャンマーの広報官からだけでなく、歴史家、政策専門家、外国人外交官からも弁護の回答が出された。もしこのミャンマーの政策を擁護する主張によって、平時では最大(1990年代半ばに2百万のルワンダ人が国を追われて以来)の強制集団脱出を正常なものと言いくるめることができれば、南アジア全域の少数派はこれまで以上に迫害に弱い立場に置かれることになる。

ラカイン州での暴力に対するインドの最初の反応は、大虐殺を暗に是認するものだった。インド首相がミャンマーを公式訪問中の9月6日に発表された共同声明によると、「先日ラカイン州北部でのテロ攻撃が発生し、ミャンマー治安部隊員が何人も命を落としたが、インドはこれを非難した。テロリズムは人権を侵害すること、したがってテロリストを殉教者として賛美するべきではないことを、両国で合意した。」共同声明はロヒンギャ難民の集団脱出について一言も触れなかった。ニューデリーでの会議で発言したインドの外務長官は、ミャンマーを批判しないように注意深く言葉を選んだ。

「多数の人々がラカイン州から集団脱出しているという事実は、明らかに憂慮すべきものです。我々の目標はどうすれば彼らが元いた場所へ戻れるかを見守ることです。簡単ではありません。この状況の解決は、ただ非常に激しく糾弾するのではなく、現実的な対策と建設的な議論を通して行うほうが良いと、我々は感じています。」

ミャンマー政府とアウンサンスーチーに対する主に西洋諸国からの激しい糾弾は、過剰で、過度に単純化しすぎで、重要なことを分かっていないと批判されてきた。多数派優位主義者の主張では、仏教徒はこれまで西洋諸国の人権団体に巧みに陳情することができなかったので、ロヒンギャの被害者意識に基づく物語はラカイン州仏教徒の心の傷を覆い隠すものだということになる。この主張では、植民地解放の時からラカイン州北部にイスラム教徒の独立自治区を作るよう求めている武装ロヒンギャの活動が強調される。ラカイン州でのイスラム教徒コミュニティーはイギリスが19世紀初頭にビルマを併合した後で大幅に拡大し、ベンガル地方からこの地域への移民の流入を許したという事実が強調される。もし外国人が対立する民族国家主義者の犠牲となったこれら二つのコミュニティーをもっと公平に扱おうとするのなら、ベンガル人イスラム教徒の侵入を受けたラカイン州仏教徒の恨みを、もっと長い歴史の中に位置づける必要があると主張する。

この立場の問題点は、歴史的な因果応報に公平性などあり得ないことだ。イスラム教徒の残忍な扱いを支持する主張の意味を理解するには、ビルマ人仏教徒のいう土着民と外来者の区別を市民権と帰属の根拠として受け入れるしかない。ロヒンギャが民族として認めて欲しいと要求する理由は、ミャンマーで完全な市民権を得るには、「国家人種」(タインギンタ:taingyintha)のどれかに属していることが必要だからだ。ラカイン州のイスラム教徒を国家人種(タインギンタ)から除外し、何世代にもわたり居住しているにもかかわらず国家人種(タインギンタ)からの除外にもとづいて市民権を否定する政府の政策は、堂々巡りという点でカフカの小説のように不条理だ。オーストラリアの学者ニック・チーズマンは国家人種(タインギンタ)についての記事の中で、「究極的にはミャンマーの問題は『ロヒンギャ問題』ではなく『国家人種(タインギンタ)問題』で…、国家人種(タインギンタ)という概念そのものが問題なのだ」と指摘する。

この最近の残虐行為を報じるニュースのほとぼりが冷めたなら、ミャンマー政府はラカイン州に存在するロヒンギャを減らす計画が実績を上げていると信じる理由ができるだろう。スリランカの仏教徒はブミプットラ(bhumiputra:大地の息子)で非仏教徒はムレッチャ(mlecchas:劣等外国人)だと信じる同国の先住民優位主義者は勢いづくだろう。過去にバングラデシュの不法移民が暴力のきっかけとなったアッサム州のBJP政府は、民族浄化を少なくとも「大地の息子」が行う場合は、加害者がどこまでやっていいかについて、新たな教訓を学ぶだろう。

最近の暴力について声を上げている反対運動の多くは、ヨーロッパ諸国、外国の人権団体、国連機関から発したものだという事実は、ミャンマー政府とその擁護者を増長させ、何も知らない部外者やプロの「悲しみ屋」の仕業だとして無視している。だがこの殺意ある追放は、西洋諸国と非西洋諸国の間の紛争ではない。ロヒンギャの民族浄化は、南アジアでの多数派優位国家主義の長い歴史の中で、特に悪意のある事件だ。その歴史を認識し、その遺産に異議を唱えなければ、さらに多くの悲劇が待ち構えている。

2017年12月20日

(本文終わり)

初出:「ピースフィロソフィー」2018.01.10より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2018/01/murderous-majorities-by-mukul-kesavan.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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