参考文献:「ローザ・ルクセンブルクの『社会主義的民主主義』論」赤海勇人著、『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』パウル・フレーリヒ著 伊藤成彦訳(東邦出版社)、『ローザ・ルクセンブルク 思想案内』 伊藤成彦著(社会評論社)、『ローザ・ルクセンブルク』トニー・クリフ著 浜田泰三訳(現代思潮社)、『ローザ・ルクセンブルクの暗殺 ある政治犯罪の記録』 エリザベト・ハノーファー・ドュリュフック、ハインリッヒ・ハノーファー編者 小川悟、植松健郎訳(福村出版)、『ローザ・ルクセンブルク選集』(全4巻 現代思潮社)、『レーニン』和田春樹編(平凡社)、『ドキュメント ドイツ革命』野村修編(平凡社)、その他
*ゴチック、あるいは下線はすべて筆者のものである。
まえがき
一橋大学大学院生の赤海勇人氏に頂いた紀要「ローザ・ルクセンブルクの『社会主義的民主主義』論」に触発されて、改めて、1918年の「敗北した」ドイツ革命とローザ・ルクセンブルクの果たした役割及びその思想的意義について考えてみようと思った。
赤海氏のこの論文の主眼は、副題になっている〈「異なった考えを持つ者の自由」を中心として〉にある。
さすがにこの着眼点は鋭いと敬服するが、いざこれを論ずるとなると非常に厄介である。第一、ローザ自身がこの主張を一貫して展開できたかどうかも怪しいのではないか、というのが私の偽らざる気持ちである。しかし、非常に面白い論点なのでローザ・ルクセンブルクの生きざまと関連付けながら、可能な限り考えてみたい。
いかなる思想家にとっても、その人の人生とその思想とは切り離せない。況や彼女のように「革命家」としてその生涯を全うした女(ひと)に於いてをや、だ。
ローザ・ルクセンブルクは1870年(レーニンと同年)にポーランドのザモスツという田舎町の割に富裕なユダヤ人商人(材木商)の家に生まれている。このころのポーランドはロシアのツァーリズムの支配下にあり、なおかつユダヤ人差別はすさまじく、ポーランド社会の「カースト」の最下層として虐げられていた。
「彼ら(ユダヤ人)はロシア帝国に君臨する絶対主義の過酷な専制支配や、ポーランド人に対する外国支配や、土地の貧しさという彼らの境遇に加えられた一切の圧迫と悲惨を背負わねばならなかった。…この帝国〔ロシア帝国〕の中で、ユダヤ人は最も卑しいもののそのまた僕であり、社会的ピラミッドの頂点から落ちて行き着く最低のところであった。・・・絶対主義が他の住民には許していたほんのわずかの市民的権利でさえも、ユダヤ人にはただの一人も許されてはいなかった。」(P.フレーリヒ:上掲書pp.17-8)
しかし、ローザの家は、このような「物質的・精神的貧困から抜けだ」し得た例外的な部類に属していた。祖父の代に築かれた財のおかげで、父親はドイツの商業学校に学び、そこで自由主義的な考え方を身につけていたといわれる。おそらくそのことが、ローザの幼少時の精神形成にとってかなり大きく影響したのではないかと思う。
肉体的には病弱であったが、知的に早熟な少女であったローザは、17歳にして、「プロレタリアート」という革命党の秘密活動を手伝い、第二次「プロレタリアート」党結成に参加している。当時この党は、1884年の大弾圧で、中心メンバーの大半を失い(4人死刑、23人長期拘留、200名以上が追放)、ほぼ壊滅状態にあった。そして、やがてローザ自身にも逮捕の危険が迫ったため、1889年スイスに亡命し、チューリヒ大学に入学する。そしてここから「革命家」ローザ・ルクセンブルクの本格的な活動が開始している。
ローザがその生涯を通じて、幾度逮捕され、どれぐらい長期に拘留されていたか、それにもかかわらず、どうしてこれだけの学識や驚くべき洞察力を身につけえたのか、これらのことを調べるだけでも非常に興味深い。しかし、この小論であまりに長々しく彼女の経歴を追いかけ描写していると、肝心な問題への論究が滞り、読者に冗漫な思いをさせるだけであろうから、ここではその点は必要最小限にとどめたい。そして焦点をあくまで彼女が提起した実践上の問題点に合わせながら主題に掲げたことを考察したいと思う。
当然のことながら、「革命家」ローザ・ルクセンブルクが対向した問題は多岐にわたる。特に彼女の主著といわれる『資本蓄積論』は、マルクスの『資本論』をさらに敷衍化しようとして書かれた意欲作であり、レーニンの『帝国主義論』、ヒルファーディングの『金融資本論』と並び立つ名著である。しかし、ここでは触れない。
この小論では主にレーニン、トロツキーらの「ボルシェヴィキ」との論争の中で彼女がとった「批判的立場」の持つ意味(『ロシア社会民主党の組織問題』と『ロシア革命論』をベースにして)を再吟味し、それを1918年のドイツ革命の総括に絡ませながらその歴史的意義を検討してみたいと思っている。
1.「ロシア革命は、世界大戦のもっとも強烈な現実である」-「ロシア革命」観(1)
この問題を検討する糸口として、まず『ロシア革命に寄せて』(=『ロシア革命論』)という草稿から入っていきたい。ただしその場合、注意すべきは、これが書かれた時期、ローザはブレスラウ(今のポーランド領ブロツワフ)の監獄に収監されていたということだ(彼女が出所できたのはやっと1918年11月9日のことである)。この草稿は獄中で書き留められていたため、ロシア革命のリアルで正確な情報に欠けている。この点は割り引いて考えられねばならないであろう。
その上でこの論文を読むとき、この論文の主論点(ローザの批判の矛先)が次の三点にある、というのは衆目の一致する意見でもある。農地政策(農民と土地分割問題)、民族政策(プロレタリア革命と民族自決)、民主主義(「外部注入論」批判と大衆運動論)。
確かに、この三点の大問題が、「ロシア革命」の帰趨を決める局面で極めて大きな実践的な意味を持つものであったことは間違いない。言い換えれば、レーニンの「革命家」としての全素養がこれらの問題への対処において示されたとも言いうる。
この革命の成否を決める最高に重要な局面において、ローザならどう決断しただろうか、おそらくほぼ間違いなくレーニンと同様な決断(革命を完遂するうえでの断固たる意志)を下したのではないかと思う。それは彼女が監房の中から出した手紙類や彼女の書き留めた先の草稿によってある程度推測しうる。
「ロシア革命は、世界大戦のもっとも強烈な現実である。革命の勃発、その比類のない急進主義、その持続的影響は、政府公認のドイツ社会民主党がドイツ帝国主義の侵略作戦を開戦当初、熱心に、イデオロギー的に言いつくろったあの偽りの空文句、つまりロシアのツァーリズムを打倒し、その抑圧下にある人民を解放することがドイツの銃剣の使命だというあの空文句に対する最高の断罪である。…この革命が一切の階級関係を動揺させ、社会上及び経済上のあらゆる問題を提出し、首尾一貫,ブルジョア共和制という第一段階からさらに進んだ段階へと内的論理の宿命のままに突進していった…
ドイツ帝国主義と一緒になって帝国主義戦争の遂行に加担したカウツキーやドイツ社会民主党主流派の有象無象の連中は、この偉大なロシア革命の成果にひれ伏すがよい!」(ローザ・ルクセンブルク『ロシア革命論』)
いかにローザが「ロシア革命」の成功に欣喜雀躍していたか、その様子がよくわかる。
ただし、彼女はただ無批判的に踊り狂ってはしゃいではいない。ただちに冷静さを取り戻し、その中身の検討に入っている。なぜなら、そうすることによってしか「ロシア革命」のプロレタリア革命としての真の成功はおぼつかないと確信するからだ。
「(ただしロシア革命に対しては)明らかに無批判的な弁護論ではなく、徹底的な思慮深い批判だけが、経験と教訓の宝庫を開くことができる。実際、労働者階級の独裁を伴ったこの最初の世界史的な実験において、しかも帝国主義による諸国民の相互殺戮という世界的惨禍と混沌の真っただ中、ヨーロッパの最も反動的な軍事大国の鉄の環の中、国際プロレタリアートの完全な無力化の下、という考えられる最悪の条件の下で、つまりかくも異常な条件の下で行われた労働者独裁の実験において、ロシアで行われた事柄のすべてが完璧を極めたものであったなどと考えるのは狂気の沙汰であろう。」(同上)
ロシア革命が置かれた極めて困難な状況を見事に透見している。ここにわれわれは「革命家」ローザ・ルクセンブルクの真骨頂を見ることができる。ローザのロシア革命への批判的な見地の立脚点は、単なる「政治路線的な相違」から出されたセクト主義的なものではない。ロシア革命の成功を通じて、世界のプロレタリア革命へ向けた突破口を開く「手掛かり」としたいという必死の実践的な思いから考えられたものである。「すべての歴史的関連を含めて、ロシア革命を批判的に検討することが、現代の状況から生まれつつある課題に向かってドイツおよび世界の労働者を鍛え上げる最良の方法である。」(同上)
2.レーニンの「農地政策」と「民族政策」への批判-「ロシア革命」観(2)
さきに挙げた三点の重要問題【農地政策(農民と土地分割問題)、民族政策(プロレタリア革命と民族自決)、民主主義(「外部注入論」批判と大衆運動論)】のすべてを今、詳細に論ずる余裕はないので、ここでは前の二点についてはごく簡単な紹介だけで済ませ,最後の問題をドイツ革命と関連づけて少し丁寧に論じたいと思う。
P.フレーリヒはボルシェビキの農業問題について次のように簡潔に述べている。
「ボルシェヴィキのかつての農業プログラムは、第一の社会主義的措置として、大土地所有の国有化をあげていた。…しかし、農民による土地の分配が革命的に実施されるべき瞬間に、ボルシェヴィキはかつてのプログラムを棄てて、社会革命党のプログラムを採用した。かくしてほとんどすべての大土地所有は農民に分配された。(P.フレーリヒ:上掲書:p.332)」
その結果として、「…ボルシェヴィキが1917年にとった農業問題の解決は、その後、社会的経済的な危機を次々と引き起こした。そして十月革命の15年後には内戦に近い状況を創り出し、その際にソヴィエト政府は、私有財産にしがみつく農民層を過酷に弾圧することとなった。(同上書:p.334)」
そしてレーニン自身、このことを、当時の事情からみての「疑う余地のない妥協」として自己批判している(レーニン全集第31巻『左翼小児病』)。
ローザがこの点で、レーニンの方針の誤りを厳しく批判していたことは正しい。ただし「革命を防護」するために、レーニンによってやむを得ず取られた実践上の苦肉の策であったこともまぎれもない事実である。
もう一つの重要問題である「民族政策(プロレタリア革命と民族自決)」についても簡単に触れておきたいと思うのだが、実のところ、民族問題をめぐる両者の対立の内容を簡単に要約・紹介することは至難の業である。これには両者の出自から来る立場上の違いもあるが、むしろ、論文(相互批判も含めて)発表の時期、その時の特殊な情勢と実践活動上の立場が色濃く影響している。さらに言えば、「民族問題」はマルクス主義の今日に至るも依然として弱点の一つであるということにも起因する-かつて廣松渉は、マルクス主義の弱点として、「女性問題」「環境問題」そして「民族問題」の三つを挙げていた。廣松自身は、マルクス派の民族問題の先行者として、オーストロ・マルクス主義、特にオットー・バウアーに注目していたが…。
こういう事情から、ここでは余儀なく、諸問題を無視した思い切った「強引暴証」(略述)になることをお許し願いたい。
まず、先ほどらいたびたび引用しているP.フレーリヒは、この問題での両者の違いを次のように要約している。
「諸国民の民族自決問題ではローザ(「民族的自治」論)はレーニン(「民族自決」論)と対立し、そのためにポーランドの党とロシア社会民主党の組織的結合の実現を妨げることになった。この対立が拠って来るところは、ローザは被支配民族の労働者階級のために働いていたために、プロレタリア階級闘争が民族主義の影響を受けて退廃せぬように注意する必要があり、そのためにポーランドとロシアの労働者階級の共同闘争に大きな比重を置かねばならなかった。一方レーニンは、”100の民族”を抑圧する国家の一員として、大ロシアという条件の中で働いたのであり、これらすべての民族の革命勢力を反絶対主義に結集することを希望した。そのために彼は大ロシアに抑圧されている諸民族の民族的利益を、ロシアからの完全な政治的分離権をも含めて、明確に認めねばならなかった。レーニンが民族自決権を強く主張したのはこの故であった。」(P.フレーリヒ:上掲書pp.56-7)
ローザの立場を一言で特徴づけるとすれば、それは「プロレタリア国際主義」であろうと思う。もちろん、レーニンの考え方の中にそういう発想がなかったという意味ではない。しかし、ローザにあっては「生来の」と言えるほど彼女の生き方そのものを規定しているように思える。例えば、次の引用である。これは1917年2月16日にヴロンケ監獄から親友のマチルデ・ヴルムにあてた書簡である。
「あなたは特殊なユダヤ人の苦しみをどうしようというのですか?私にとっては、ブトゥマヨのゴム農園の哀れな犠牲者も、ヨーロッパ人によって体を手玉に取られているアフリカの黒人も、(私にとっては)同様に身近なものに思われます。…私の中にはユダヤ人のための特別席を作る余地はないのです。」(『ローザ・ルクセンブルク 思想案内』 伊藤成彦著p.173)
また、「民族問題と自治」論文(この論文についてローザ自身は書簡の中で、「ポーランドの自治に関する論文」と呼んでいることは、注意されてよい)の中で自身の立場を次のようにはっきり表明している。
「民族問題は、社会民主党にとっては、他の全ての社会的・政治的な問題と同様に、階級利害の問題なのである」「〈民族自決権〉はブルジョア社会では全く実現不可能で、社会主義体制という基盤の上でのみ実現可能な理念を形而上学的に定式化したものにすぎない」
繰り返すようだが、彼女は「民族問題」を「民族の」問題として問題にするのではなく、あくまで「プロレタリア革命の一環としての民族問題」として捉え直し、その立場をどこまでも貫こうとする。この「プロレタリア革命としての…」という立場と、革命は単に一民族、あるいは一国だけに止まれるものではなく(「一国革命論批判」)、あくまで「労働者階級」の全世界的規模の連帯の上に展開されてこそ、成功するものだという「革命の世界性」(トロツキーの「世界革命論」と似通ってはいる)の主張にも表れている。とはいえ、この時期では、レーニンも、ロシア革命の成功は、ドイツ革命、またヨーロッパの革命の成功なしにはあり得ないだろうという考え方をしていた(1919年結成の「コミンテルン」はその一例)から、その点では必ずしもローザ・ルクセンブルクの独創的な考え方とは言えない。
先に引用したローザの言葉(「考えられる最悪の条件の下で」戦われているロシアの革命闘争)をもう一度思い起こしていただきたい。1918年3月3日に締結された、ブレスト=リトフスクでの対独の屈辱的な条約とは何だったのか、を併せて考える必要がある。
「さらにその一週間後には、単独講和を非難するイギリス軍がムルマンスクに上陸し、次いでチェコスロヴァキア軍団の救出を名目にシベリア出兵が本格化して、(対ソ)干渉戦争が始まる。11月革命を経てドイツは連合国との間で休戦するが、これは短期的にはドイツに対峙していた連合国の軍隊の一部がロシアに振り向けられることを意味し、ロシアにとっての戦況はむしろ悪化した。…しかしドイツ革命の成功に勇気づけられたレーニンは、世界革命の展望を捨てなかった。1919年3月には共産主義インターナショナル(コミンテルン)が結成」(『第一次世界大戦』4 遺産 山室信一、岡田暁生、小関 隆、藤原辰史編 岩波書店)
この極限的な状況下(例えば、「1918-22年の内戦と20‐21年の対ポーランド戦争の死傷者数が大戦でのそれを上回る事実は、大戦からの離脱を実現したロシア革命が結局はより深刻な戦禍を招いたことを物語る」)で、プロレタリア革命を守るために「やむなく」レーニンが採用したのが、先の「農地政策」であり、またこの「民族政策」であると考えることは十分できるのではないだろうか。
「1919年10月にはペトログラードの陥落が危惧される緊迫した情勢も生まれたが、大戦で疲弊していた干渉列強は大規模な軍隊を送ることが出来なかった。また、白軍には用意しえない土地政策をソヴィエト政権が提案できたことで、赤軍派農民の支持の調達において圧倒的な優位を確保できた。この点は内戦の帰趨を決するうえで決定的であった。」(同上)
ローザのボルシェヴィキ批判は、そのことを十二分に解ったうえで行われているのである。彼女の批判の眼目は、「プロレタリア革命」のさらなる展開を見据えたものであり、決して現実をないがしろにしたものではなかった。レーニンもその点を察知している。だからこそ「ローザの悲劇(虐殺)」の後、彼女を「鷲」と讃えたのである。
ともあれ、ここでは若干の引用をもって、この問題に一応のケリをつけたいと思う。まず、伊藤成彦の次の興味深い指摘に止目したい。
「ローザが『諸民族の自決』と『プロレタリアートの自決』を絶対的に相対立するものと捉えていたのではないことだ。『社会主義者が民族問題にどのような態度をとるべきかは、とりわけ、それぞれの所与の具体的な状況に関わっている。それは国ごとにひどく異なっており、しかも、それぞれの国の中でも時間の経過とともにかなりの変化をこうむっている』。従って『諸民族の自決』と『プロレタリアートの自決』が一致することは理論的にはありうることだが、それには階級の問題が解決されていなければならない。」(前掲書:pp.135-6)
それではレーニンはどうか、実際にはレーニンもローザと同じような考え方をしていたことは、次の言葉(1916年7月)から推測可能だ。
「ポーランドの特殊条件をとってみたまえ。ポーランドの独立は、今日では、戦争または革命なしには〈実現不可能〉である。…今ポーランド独立のスローガンを掲げるのは、実際には空想を追い求め、偏狭な民族主義に陥り、全ヨーロッパ革命、少なくともロシアとドイツの革命の前提を忘れることを意味する」「社会主義の目的とするところは、小国家への人類の細分状態と諸民族のあらゆる分立をなくし、諸民族の接近を図るばかりか、さらに諸民族を融合させることである」(『レーニン全集』第22巻)
第一次世界大戦中、帝国主義諸列強は、戦略上、盛んに「民族自決」を鼓舞し、それを利用した。その結果、各地にナショナリズムの高まりと地域紛争が惹起したが、戦後それらはいくつかの例外を除き、無責任に放置された。このことが今日に至るも繰り返される東欧やアラブでの地域戦争の大きな要因をなしている。実はこの問題と「民族の国家的独立か、自治か?」の論争が密接に関連している点が最大のポイントである。
3.民主主義(「外部注入論」批判と大衆運動論)―「ロシア革命」観(3)
第三点目の「民主主義」の問題は、運動論上、また革命後の共産主義(社会主義)社会の在り方に関わる極めて重要なテーマだと思う。ローザはかなり早い時期(『ロシア社会民主党の組織問題』)からレーニンの主張する「少数の職業的革命家による前衛党」という組織論に真っ向から反対の立場を表明している。ここではローザの批判的意見を二つだけ挙げておく。
「レーニン=トロツキーが意味する独裁理論の暗黙の前提は、社会主義的変革とは、そのための完成した処方箋が革命政党のカバンの中にあって、それをただ全力をあげて実現しさえすればよいということだ」
「プロレタリア革命は、その目的のためにいかなるテロルも必要としない。プロレタリア革命は、人間の殺戮を憎み、忌み嫌う」(1918年、「ローテ・ファーネ」)
さてここで、赤海氏の論文の主眼点である「異なった考えを持つ者の自由」というローザの考え方の基調とドイツ革命、およびロシア革命の運命などについて考え合わせてみたいと思う。
この言葉は先述した草稿『ロシア革命に寄せて』(=『ロシア革命論』)の中にある(『ローザ・ルクセンブルク選集』第4巻p.256)。ここでは伊藤成彦の前掲書の中から、該当箇所を引用しておく。
「ローザは草稿の欄外に次のように書き加えている。「政府の支持のためだけの自由、ある党のメンバーのためだけの自由は―その数がどれほど多くても―決して自由ではない。自由とは常に異なった考え方をするものの自由のことである。それは〈公正〉を狂信するからではなく、政治的自由のもつ活性化、健全化、浄化の力はまさにこの本質に関わっているからであり、もし〈自由〉が特権となれば、この力が失われるからである」「カウツキーは勿論民主主義に賛成だが、それはブルジョア民主主義のことだ。レーニンとトロツキーは逆に、民主主義に対して独裁を支持しているが、そのことによって一握りの人たちの独裁を、つまりブルジョア的な独裁を支持しているのだ。この二つは対極だが、両者とも真の社会主義の政治から遠く離れている」(pp.33-4)
いきなり結論じみた言い方になるかと思うが、革命観あるいは組織論における両者の決定的な違いが由って来る所以がどこにあるかと考えたとき、おそらく両者の「労働者観」の相違にあるのではないかと思われる。ローザはマルクスの原則に則って、「労働者」を多分に理念的、概念的な「存在」領域(実体論)の中で考えているようだが、一方レーニンは、ロシアの現状、あるいは第二インターナショナルから見えるヨーロッパの労働運動実態を冷徹に見据えたうえで、「現存=Existenz」としての労働者、自己の階級に無自覚なまま、まだその即自的(直接的=自然的)な生活実感に捉われて行動するスチヒーヤ(自然性)としての労働者像を表象している。そういう労働者を相手にして、革命的実践活動をどのように作り上げるべきか、が彼の主目標であった。
この点において、ローザ自身、あるいはローザに共鳴するグループがどんなに否定しようと、彼女の運動論が本質的に「労働運動の高揚の自然的な高まり」への期待感をもとに成り立っていたこと、それ故それは「自然性への依拠(拝跪)」に過ぎないと言われざるを得ない脆弱さを多分に持っていたことは事実であるように思う。この彼女の運動論の弱点が、1918年のドイツ革命において確固たる「労兵評議会(レーテ)」を組織しえなかったという点で露呈したのではなかっただろうか。
レーニンは労働者のスチヒーヤ性に対して、意識性(階級性)を対置した。彼にとってはスチヒーヤ性は自分自身で打破できる代物ではなく、上から外からの強引な強制(意識の外部注入)がどうしても必要だ、そのためには自覚した職業的な革命家集団による指導=矯正が必須条件だというのである。
しかし、レーニンが主導するボルシェヴィズムが、マルクスの思い描いたコムニスムスとは全く似ても似つかぬ党官僚支配体制(スターリニズム)を生み出す大きな要因になったことは、まさしくローザが危惧し、厳しく指弾したとおりである。
あまり長々しい引用や経過を追った詳細な論述はここでは無用だと思うが、ただ「プロレタリア国際主義」の立場を堅持するローザ・ルクセンブルクの激しい批判(憤り)が向かったのは、一つはブレスト=リトフスクでの帝国ドイツとの間の屈辱的な条約締結(1918年)であり、もう一つは、1917年11月に行われた憲法制定議会のボルシェヴィキによる強引な解散にあったことには留目すべきである。
もちろん、ブレスト=リトフスク条約に臨むレーニンやトロツキーらの苦渋は獄中に閉じ込められていたローザにはリアルにはわかり得なかったであろう。また、憲法制定議会封鎖問題(この革命を守るためにやむなくとられたとはいえ、まさしくボルシェヴィキによる「謀略」であった)に対するローザの手厳しい批判は、共産主義革命の理念としては的を射た、原則的なものだったということは言いうるだろう。残念ながら、この点に関してもここではこれ以上立ち入れない。ローザの次の強烈な批判のみ引用して、次に進みたい。
「トロツキーとレーニンの批判から出てくる結論は、彼らが普通選挙によって選出される代議体を原則的に否定し、専らソビエトだけに依拠しようとしているということである。そうだとするといったい何のために普通選挙法が制定されたのかも、われわれにはわからない」
「レーニンとトロツキーは、普通選挙によって選出された代議体の代わりにソビエトを労働者大衆の唯一の真の代表機関であるとした。しかし、全国の政治生活が抑圧されるのに応じて、ソビエトの中の生活力もますます衰えていくに相違ない。普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え凋み偽りの生活になり、官僚制だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。」
「自由とは常に異なった考え方をするものの自由のことである」というローザの基本的な考え方が、ここによく示されていると思う。
だが、ローザが掲げる「プロレタリア革命の理念」だけで現実の革命運動が上手く進んでいくわけではない。やがてローザも、1918年のドイツ革命の最中に、このことを思い知らされることになる。
岩波新書の『日本の社会民主主義』の著者・清水慎三は、ローザ・ルクセンブルクの思想を「社会民主主義の枠をはみ出た社会民主主義」と評価しながらおおよそ次のように述べている。「彼女はカウツキーと思想を異にするが、レーニンとも異なる。彼女をレーニンと区別させる要素の一つとして人間性と大衆の自発性の尊重、革命過程における自由と民主主義の位置付け、がある。『ブルジョア・デモクラシーが形式化されたが故にデモクラシー全般を廃棄するのではなく、真のデモクラシーをプロレタリア階級の事業として建設すること、それがプロレタリア独裁である』という考え方に基づく少数者指導や一党独裁を否認する思想がある。レーニンもまた大衆路線の信奉者に違いないし、『ロシア革命の特殊の条件』を明確に認め、ロシア革命の一般化などを全面的に主張しているわけではない…だが、レーニンの言説には後のスターリン主義を生み出すような他の側面、すなわちロシア革命の経験を通して革命の一般的課題を強調する要素もある。レーニン自身は統一的に理解していたのかもしれないが必ずしも明確とはいえない。」
4.1918年ドイツ革命の敗北とローザ・ルクセンブルク
前に触れたように、ローザが、収監されていたブレスラウの監獄から出所できたのはやっと1918年11月9日のことである。この日、「首都ベルリンは革命の大波に包まれ」ていた。ベルリンだけで、およそ50万人の大衆が街頭にあふれた。議会も軍部もそれを収拾する能力はなく、皇帝は逃亡した。カール・リープクネヒトが王宮の露台から「社会主義共和国」の宣言を、SPDのシャイデマンが国会議事堂から「共和国」の宣言を発した。同じくSPDのエーベルトは「現行憲法の枠内で首相の仕事を引き継ぐ」と声明したが、これは「革命をブルジョア民主主義的改革の枠内にとどめて、旧体制との断絶をなるべく避けようとする」意図からであった(野村修編『ドキュメント ドイツ革命』)。ローザは、その日からドイツでの革命の実践に挺身するが、それから僅か2か月余り後、1919年1月15日にカール・リープクネヒトと共に虐殺される。
ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを殺害したのはだれか?
「(エーベルトら)支配階級に属する者たちとその連累者たちは、彼らの支配権を守る段になれば、この(ブルジョア民主主義的な)意識状態から厳格に布告された法原則には全く頓着なく、噓偽りや殺人さえも平気で行うのである。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの暗殺は、軍服を着た若干の悪人たちの偶然の所産ではなく、典型的な事件であったし、また相対立する党派間の階級闘争の一部分であった。」(『ローザ・ルクセンブルクの暗殺 ある政治犯罪の記録』 p.3)
今や、ローザやカール・リープクネヒト、およびその仲間(「スパルタクス・ブント」)たちが待ち望んでいた労働者大衆の自然発生的な反乱、革命的運動の高揚が出現した。この間の経過を、先の野村『ドキュメント ドイツ革命』に因ってみてみる。
「ドイツの1918年11月革命は、第一次帝国主義世界大戦と、ドイツ帝国主義の崩壊との結果だった。それは革命勢力によって計画的に準備されたものではなく、軍事上の壊滅から、いわば自然発生的に展開されたものだった。しかし社会主義者たちの意識的な作業がそこに作用してもいた。1918年1月28日からのストライキ-ロシア革命とブレスト=リトフスクの講和交渉/食糧事情の悪化、そして1月14日からのオーストリア大衆ストライキに触発され-ベルリンだけで50万人以上の労働者によって戦われ、この中ではじめて労働者評議会(レーテ)が成立した。
この闘争の主勢力は、ベルリン金属労働組合の活動家集団(オプロイテ)=「革命的オプロイテ」であり、そのほとんどはUSPD=独立社会民主党の党員で、その左派の中核をなしていた。スパルタクス・ブントも積極的にかかわっていた。」
また、体制側に属する「自由主義者」で、元外交官のハリー・ケスラーは、『ワイマル日記』に次のように記している。
「(11月9日)皇帝が退位した。ベルリンの革命は勝利を収めた。…(外務省のハッツフェルトが)内々の話として知らせてくれたところだと、われわれが期待していたような休戦協定が結ばれることはないだろうという。それというのも、ここ二、三日の間に、フランスにもドイツに似た革命的状況が出来したのだそうだ。その情報は大本営からのヒンツェの電話によって伝えられたもので、わが軍の前線とフランス軍の前線に兵士評議会が結成され、両者が直接和平交渉を行いつつあり、もしそれが本当なら、わが国にとっては救いであろう、という。」(pp.11-12)
この11月革命の前後の動きでは、まず名高い「キールの水兵反乱」がある。
1918年10月29日~11月4日、キール軍港での水兵の反乱―労働者・兵士レーテ成立。そして12月16日~21日にかけて、ベルリンで第一回の労働者・兵士レーテ全国大会が開かれた。この全国大会こそが、極めて重要な意味を持っていたのだ。まず、「レーテ運動」は自然発生性の領域から抜け出せていなかったため、大会代議員はレーテ内の直接選挙によってではなく、各地域レーテから選出された。つまり、当時のレーテ内部の実勢が反映されないまま、代議員489名のうち、SPDが過半数(291名)を占め、USPは90名(スパルタクス・ブントの10名を含む)、その他の急進左派が10名であった。
その結果、この大会の最大争点であった、「レーテ体制か国民議会選挙か」の票決では、レーテ派が約100票だったのに対し、国民議会賛成派は約350票を集めることになった。
しかも、ローザもカール・リープクネヒトも代議員には選出されなかったのである。
私見では、ここが天王山(勝負の分かれ目)ではなかったかと思う。ローザたちの主張する「理念としての民主主義」政治の実践はここにむなしく潰えた。
かかる激動の最中に求められるのは、(概念や理念による)理性的判断ではなく、その場のとっさの判断(悟性的判断)=決断ではなかっただろうか…。
ドイツ革命の結末については、これ以上縷々述べることはない。
ローザが理念として掲げた「革命の原則」は、今再考しても正当性を持っていると思う。しかし、歴史は、理念と現実(所与としての外的な条件)との間隙に両者の葛藤を通じて形成されるものである。ローザがこの点を見失っていたとすれば、それは彼女の優しさ故か(彼女の『獄中書簡』を読めばわかる)、あるいは長期の拘留生活の中で、理念的な思考にとらわれすぎたためか、そのいずれかではないかと思いたい。あえて注文(疑義)を挟むとすれば、次の点にある。
「革命」はすべからく「政治革命」でなければならない。マルクスが指摘しているように、それは社会的精神(社会の変革)を持たねばならないことは当然としても、それでもその形式は政治革命(政権奪取)にある。
ローザは1906年に『大衆ストライキ、党および労働組合』という論文を書いている。少し長いがそれを引用したい。
「大衆ストライキとは最高委員会の決議に基づいて、慎重な計画のもとに実行される無味乾燥な政治”行為”だという硬直した空疎な図式の代わりに、われわれがみたのは、革命の骨組みから決して切り離しえず、数千の血管によって革命の隅々にまで結びついている血肉を備えた一個の生命体であった。ロシア革命にみられるような 大衆ストライキは、一つの可変的な現象であって、政治革命の全局面、革命の全段階や契機を反映している。その適応性や影響力や成立契機は絶えず変化する。革命が隘路にぶつかったと見えるや、突然大衆ストライキによって、新しい広大な展望が開ける場合があり、また成功間違いなく見られるようなときに、不発に終わる場合もある。ある時は大波のように全土に満ち、ある時は地下深く完全に吸い込まれてしまう。政治ストライキと経済ストライキが、大衆ストライキと部分ストライキが、示威的ストライキと戦闘的ストライキが、個々の産業部門のゼネ・スト(=マッセン・スト)と個々の都市のゼネ・ストが、静かな賃金闘争と市街戦やバリケード戦が―これらすべてが互いに入り乱れ、併行し、交錯し、浸透しあう。それは諸現象の変転極まりない海である。だがこの運動法則は明瞭である。それは大衆ストライキそのものや、その技術的特殊性にあるのではなくして、革命の政治的、社会的力関係にあるのだ。 大衆ストライキは単に革命闘争の形態にすぎず、戦いあう諸勢力の力関係や諸政党の発展や階級の分化や反革命の立場などのあらゆる変化が、直ちに無数の目に見えない、誰にも統率できない道を通ってストライキ行動に影響を及ぼすのである。しかもストライキ行動そのものはほとんど一瞬の休みもなく続けられる。それはただ、その形態や範囲や作用を変化させるだけだ。 大衆ストライキこそは革命の生きた脈拍であり、同時にその最も強力な歯車である。一言で言えば、ロシア革命にみられるような 大衆ストライキは、プロレタリアートの闘争の作用を強めるために抜け目なく考え出された手段ではなく、プロレタリア大衆の運動様式であり、革命の中でのプロレタリアートの闘争の現象形態なのである」
「現実においては、大衆ストライキ(=マッセン・スト)が革命を創り出すのではなく、革命が 大衆ストライキをうみだすのだ」
このローザの論文から推理しうるのは、彼女が、ゼネ・スト(=マッセン・スト)を革命の手段として考えているのではなく、革命運動の高揚の中でプロレタリア大衆が自ら採用する運動様式、闘争形態であるとみなしていることである。確かに、イギリスやフランスの労働者のゼネ・ストをもっての戦いが、そのまま革命へと結びつくことはなかった。しかし、それではローザの言う「革命」とは何を意味するのだろうか?社会的不満の爆発から、現存社会の変革(転覆)要求へと運動が高揚し拡大することではないかと思える。
しかし、それだけではまだ、権力奪取の政治革命にはなりえない。仮に「レーテ体制」ができたとしても、それがブルジョア社会体制のラディカルな変革に結び付くためには、「新たな社会構想を持った政治方針」がどうしても必要になる。スパルタクス・ブントはそういう内容を持った「党」ではなかったのだろうか?彼らの日常活動、あるいは戦いの中での労働者との連帯は、労働者の階級としての自己意識の喚起を媒介することにあるのではなかったのか?実際にローザはこの論文の中で、次のようにも述べている。
「闘争にスローガンと方向を与え、政治闘争の戦術を整えて、プロレタリアートに内在する力や、すでに引き出され活動している力がすべて、闘争のあらゆる局面や時点で発現されるようにすること、また社会民主党の戦術が、決断や鋭さの点で決して現実の力関係を下回らず、むしろこの力関係に先行するようにすることこそ、大衆ストライキの時期における指導の最も重要な任務である。」
ローザは「プロレタリア独裁」を否定してはいない。それどころか、このことを誰よりも強く主張する一人である。『ロシア革命論』の最後の第9章にこう述べている。
「社会主義的民主主義は…社会主義政党の権力獲得と同時に始まるものである。それがプロレタリアートの独裁にほかならぬ。然り、独裁である!だが、この独裁は、民主主義の適用方法のことであって、その廃棄のことではない。」(『ローザ・ルクセンブルク選集』第4巻p.262)
今一度、「ローザ対レーニン」の論争の場面に立ち返りながら、この小論を締めくくりたいと思う。前に触れたように、若いころのローザのボルシェヴィキ党批判に『ロシア社会民主党の組織問題』という論文がある。この中に次の一節がある。
「…社会民主党にとって重要なことは、将来の戦術のための完成した処方箋をあらかじめ見通して、立てておくことではなく、その都度の主要な闘争形態に対する正しい歴史的な評価や、革命的階級闘争の最終目標の立場にたって、目前の闘争段階の総体性と、革命的諸要因の必然的な高揚に対する鋭敏な感覚を、党内に常に保たせておくことである。…」
ローザのこの考え方は「過程としての組織」とよばれて、レーニンに批判された。しかし、実際の運動の場においてレーニンが採用したのは、こういうやり方に他ならなかった。彼は中央委員会からの指令というやり方は決して取らなかったと言われる。
1918年9月の革命的動乱以来、政府に入閣したSPD指導部は、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを名指して、デマゴギーと誹謗中傷を浴びせかけた。リープクネヒトは「反革命の人殺し」であり。ローザはブランキスト、バクーニン主義者、”血のローザ”と呼ばれた。しかし実際には、ローザは、蜂起をもって軍隊に対する正攻法であるとは考えていない。「テロルに頼る政治活動はいつまでも続けられるものではない」ということであるが、むしろ「彼女の考えでは、扇動によって軍隊の内部崩壊を準備し、戦闘そのもののの中でその内部崩壊を完全なものにすることが蜂起の前提条件であり、蜂起の勝利は強力な部隊を革命的人民の側に移行させることにかかっていた。」(P.フレーリヒ:上掲書)
ロシア革命も、実際の武力衝突は、諸外国軍による反革命的干渉以後に大規模に起こっている。
「野良着や軍服のプロレタリアートを、われわれが彼らに与えることのできる武器、つまり彼らの経済的政治的階級利益に関する知識で、武装させねばならない」。個々の暴力行為に熱狂していてはならない。」「…爆弾を投げることは、政府にとっては蚊に刺された程度の危険でしかない…大衆行動による崩壊の方法こそは、政府を危機に陥れる唯一の方法である。何故なら、大衆行動は支配体制を崩壊させるばかりでなく、同時に…新しい秩序を創り出すための政治力をも組織するからである。」(ローザ『次は何か?』)
ローザによって提起され、解決を求められている問題は多々見受けられる。革命運動にとって、大衆運動の「自然発生的な高揚」は、確かに必須の条件の一つである。しかし、それに依拠するばかりでは政権奪取はいつまでもおぼつかない。それどころか、権力の側の絶えざる切り崩し(懐柔策)の前に、いつまでも体制の延命のための犠牲に供せられるのがオチである。理念的なものの現実化の困難さは、われわれに内在するもの(概念)の顕在化(実現)の絶えざる運動として、情勢を認識しつつ、かつそれを変えていく方向で進める以外にはないように思う。
2023.12.6 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1281:231208〕