三つの戦争犯罪

著者: 岩田昌征 いわた・まさゆき : 千葉大学名誉教授
タグ: ,

私は、現在、昭和13年(1938年)に私という赤ん坊が産婆さんによって取り上げられた家の八畳間で生活している。前世紀末・今世紀初に千葉県内の公務員住宅から母の介護のために引越して来て以来そうである。数年して母が亡くなった頃、小田急下北沢駅近くの喫茶店で『ポリティカ』紙(セルビアの有力日刊紙)を読んでいると、私より十歳位年配のモダンな老女が突然前の席にすわって話しかけてきた。英語紙だと早合点していた。これがきっかけで話がはずんだ。戦前・戦後の事情をよく知っている。下北沢駅は空襲にあわなかったが、どう言う訳か、私の家の近くの小駅、世田谷中原(今は世田谷代田と改称)駅は焼かれた。空襲の時、私は、埼玉県の幸手町に疎開していたので、実体験はなかった。しかし、疎開から帰って、我家のすぐ裏までが焼け野原となっていたのに驚いた記憶はまだまだ強く残っていた。

彼女は、戦後米軍の日系二世の将校と結婚して、日本を去り、ハワイで生活していたのだが、夫が亡くなって里帰りして来たのである。そんな彼女が語る下北沢・代田周辺の終戦後の様相は、私の記憶とほぼ重なる。ただ一つ、私が全く知らなかった事実があった。B29が梅ヶ丘駅(中原駅の次の駅)近くに撃墜されて、米軍乗組員が捕虜になった。ところが、梅ヶ丘の住民達は、隣り組組長(?)が先頭に立って、捕虜を殺してしまった、と言う。「えっ! 本当に?」「本当よ。戦争が終わって、その事実を知っていたある日本人が私の夫の米軍日系二世将校に打ち明けたの。夫は、おどろいて、その日本人にかたく口止めした。『それは大変なことだ。重大なことだ。絶対に誰にも言うな!!』と。」米軍に知られたら、死刑になりうる戦争犯罪を日系米軍将校がかくして、祖国の日本人同胞の命を救ったことになる。その情報隠蔽が米軍の白人将校の耳に入ったら、この日系将校は、軍法会議にかけられたはずだ。

そんな会話から十年ほどたった昨年、我家からそう遠くない所にある喫茶店に入ったら、『特攻隊と〈松本〉褶曲山脈』(きむらけん、彩流社、2013年)が目にとまった。パラパラとページをめくると、忘れかけていた「梅ヶ丘B29撃墜」が記されていた。それによると、昭和20年5月24日に Game Cook Charlee という名称のB29が立川辺りで日本軍の高射砲に撃たれ、吉祥寺を経て、代田上空(つまり、我家の上空)で旋回して、赤堤に墜落した。乗組員11人のうち4人生存。多くの人々が現場に集まって、ならべられた遺体を見ている。中には、機体のジュラルミンが高価に売れるので、はさみを持ってかけつけて、ジュラルミン片を切りとるつもりの主婦もいたという。赤堤はまさしく梅ヶ丘の近くだ。彼女が語ってくれた事件は、このことだろう。きむらけん著の書(2013年)には、死んだ人の死因については何も述べられていない。果たして、東京の山手の市街で捕虜虐殺があったのか否か。

私の訳書『ハーグ国際法廷のミステリー 旧ユーゴスラヴィア多民族戦争の戦犯第一号日記』(社会評論社、2013年)を読み通してくれた岡田裕之法政大学教授が本書のある箇所(pp. 51~52)との関連で、青山学院中等部時代(1942~45年)の回想記を送って下さった。ここに重要個所を丸事紹介する。「梅ヶ丘B29撃墜」の二日後の事件だ。

[紹介はじめ]

B29落下米兵尋問事件の顛末

それでも5月26日深夜、千葉県印旛村(故郷)に落下したB29乗員の米兵を尋問し、「殺せ」と興奮する村民をなだめてことを穏やかにおさめ、戦後、戦争犯罪者を出さなかったのは、反戦思想のささやかな成果だったと自負する。私は恐怖にふるえる米兵と、手にした鎌と包丁で米兵を村役場へ引き立ててきたばかりのいきりたつ村民を、まず、落ち着かせねばならなかった。ロバート・F・フィンクと名乗る米兵には急死したルーズベルトの感想から切り出し、「こうして語る私と貴方は個人に過ぎない。戦争をしているのは日米国家同士のことだ、安心しなさい」と言った──敵兵を目の前に「We individuals—」と断言した自分の言葉をいまでも秘かに誇りに思う。村民は英語を話す私の制止に従ったが興奮は収まらず「殴らせろ」とわめく。だが空腹を訴える米兵に蒸かしたてのジャガ芋を与えたところ、口に入れて「サンキュウ」と言った。この一言が米兵を救った。「日本語、喋ったど!」村民がどっと笑った。私は村民の誤解がおかしかったが(村民にはサンキュウとオーライは日本語だ)、この笑いが殺気にみちた密室の緊張をほぐし、私の急場を助けた。そしてこの笑いが村民自らを救ったことになる。

後日談だが、終戦後の10月、米軍憲兵MPがこれを調査に来た時、村役場の役員は知らず存ぜぬで、16歳の私一人の責任に押し付けて全員逃亡。私は我が家にジープで乗り込んだMPに独り立って宣誓し応答した。戦争犯罪を救った私への村民の忘恩と背信、未だにそのままである。村役場の方は忘れても私は絶対に忘れない。だいたい当時の助役小名木某は落下米兵から時計を巻き上げ、無様にも(日本の)憲兵隊に叱責されている。村民は私の行為に感謝するどころか、「柔らかい布団に寝かせて米兵を厚遇した」と非国民扱いの陰口を叩いていた。戦争中は暴行・略奪の反米で、戦後はくるりと占領軍に屈従し、恩人を売り渡す庶民たち。(下線は岩田)

[紹介おわり]

次に私が下線をつけた「本書のある箇所」を引用する。

[引用はじめ]

1993年2月初めドイツ国営テレビのチームがプリェドルにやって来た。ジャーナリストのモニカ・グラスがリーダーだった。セルビア人共和国の最高権力(ラドヴァン・カラジチ等。岩田)がテレビ・チームに収容所訪問を許可していた。モニカがプリェドル刑事部長ドゥシャン・ヤンコヴィチに「誰と話すことを勧めますか」と問うと、彼は「ドゥシコ・タディチだ。最もよく事情を知る人物だ。」と即座に答えた。ドイツ人達は、公式の通訳と、私ドゥシコ・タディチが旧知のガードの警察官二人と共に、居住共同体の職場にやって来た。

「オマルスカについて、何故私と。オマルスカと私にどんな関係があるというのだ。」「あなたは収容所で起った事すべてをご存知だと言われて来ました。」こう問われて、私は警察官の一人に向かってたずねた。「彼らを私の所によこした者は、誰ですか。私はあんたともあんたの同僚とも一緒に働いていた。あんた方二人は、私がオマルスカ収容所の職務に決してついていなかったことはご存知のはずだ。」(56頁)モニカのガードの警察官は、謎めいた笑みを浮かべて、答えた。「知っているさ、でも部長のヤンコヴィチがあんたの所へ案内するように命じたのだ。」私はおこった。「彼等をヤンコヴィチの所へ連れて行け。彼がオマルスカで起ったことを最もよく知っているのだ。」私はインタビューを拒否して外に出た。

[引用おわり]

この事件でも、もしも、岡田少年の制止が成功せず、捕虜が村人達によって殺害されていたとすれば、「私一人の責任に押し付け」られた岡田少年がオマルスカ強制収容所虐殺事件におけるドゥシコ・タディチの運命をたどっていたかも知れない。

平成26年正月11日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
〔opinion4712:140112〕