日本最大の企業集団・三菱グループ(戦前は三菱財閥)だが、三井、住友に比べると、その起源が日本人に明確に認識されているわけではない。創業から日本最大の財閥になる過程では、人に公言できないこともあったと推定される。2010年に放映されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」には、三菱グループの創始者である岩崎弥太郎が重要なわき役として登場するが、その描き方について、三菱グループからNHKにクレーム(要請)があったという。弥太郎には現代のわれわれには公言できないことが多々あったようだ。
三井、住友の創始者が歴史のある旧家の出だとすると、岩崎弥太郎(1835年から1885年)は、はるかに後発である。岩崎弥太郎は、幕末の動乱、後藤象二郎、坂本龍馬、上海と香港に拠点を置くUK資本(ジャーディン・マセソン商会、香港上海銀行=現在のHSBCなど)との出会い、明治維新、西南戦争などの好機をとらえて、日本最大の財閥に成長した。
その過程は、現在のロシアの新興財閥(オリガルヒ)や韓国の三星グループを見る思いである。
岩崎弥太郎は地下浪人という低い身分の子として生まれた。栄達の契機となったのは、土佐藩の上士・後藤象二郎(1838年から1897年)と吉田東洋が主宰する塾・鶴田塾で学友になったことである。
江戸時代は身分制社会だった。福澤諭吉が、「門閥制度は親の仇」と語るように士族の間でも「身分」によって到達できる地位が決まっていた。
岩崎弥太郎は士族と言い切れない低い身分だった。
幕末の開国で、日本は世界経済=国際貿易に組み入れられた。その結果、社会が流動化して、徳川政権は1854年の日米和親条約からわずか13年で崩壊する。
開国により、雄藩は争って商社を設立した。土佐藩もその一つである。
ここから先は、日本経済新聞社の論説委員だった鈴木幸夫氏が書いた「現代日本の権力エリート」(1967年、番町書房)を引用する。
<(岩崎)弥太郎は、後藤象二郎の世話で、土佐藩の殖産貿易事業を扱う「長崎商会」の支配人となり、維新後閉鎖された同商会の多額の資金をふところにし、さらに大阪の土佐藩営の「九十九商会」と藩船11隻を自分のものとし、三菱商会(注 のちの日本郵船)を設立した>
ロシアのオリガルヒと同じように国有財産を乗っ取ることで、「原始蓄積」をしたのだ。
その後「大久保利通にとりいって、おりからの台湾討伐の輸送業務を独占、おまけに官船13隻を無料で下げ渡された」
西南戦争では、三菱商会は輸送業務で巨額の利益を得る。
それから三菱財閥は、造船、商社、金融などに進出する。
現在でも三菱グループの御三家は、三菱重工、三菱商事、三菱東京UFG銀行である。
著者は、岩崎弥太郎を政商としたうえで、「ときの政治権力にたくみに食い入り、あくどいまでの“荒カセギ”を政治から引き出した時代である」と記述する。
三井の起源が越後屋呉服店(現在の三越)、住友の起源が別子銅山であることは良く知られているし、三井も住友もそのことを誇らしく宣伝する。
しかし、筆者の知る範囲では三菱が違う。隠そうとする気配がある。したがって、三菱の起源はぼやけている。
やはり、現在の感覚ではあまり誇らしく語れないことがあったのだろう。
時代は変わって三菱財閥がエスタブリッシュメントになると、三菱財閥は政治と直接的な距離を置いて、大所高所から付き合うことになる。だが、「国策」に沿って日本最大の企業集団に発展したことは周知の通りである。
以下は筆者の蛇足である。
① 東京丸の内に日本郵船の本社がある。日本郵船といっても現在の日本人にははっきりしたイメージが浮かばないが、戦前は日本航空に匹敵する花形企業である。これに対して住友財閥の大阪商船は全日空の位置か。日本郵船の本社にいったことがあるが、戦前の華やかな残り香を感じることができた。一般職のOLに制服を着させず、華麗に私服を着た派手な美人の集まりという印象が残っている。
② 資本主義の原始蓄積の過程は、イングランド、ネーデルランドの「東インド会社」を参照しても政治や世界経済と不可分の関係にある。大塚史学が強調したように、毛織物を扱う自立した商工業者が形成する局地的市場圏とプロテスタンティズムの禁欲(アスケーゼ)が「本当の」(前期的ではない)資本主義の起源となった、というのは史実に沿っているのかなと思う。
③ 明治維新において連合王国とUK資本が果たした役割はもっと認識されるべきだと思う。薩摩、長州だけではなく、坂本龍馬などにも深く関わっていただろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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