三島由紀夫 同世代の知識人による憲法侵犯――信書開封・英訳と安保堅持心性――

著者: 岩田昌征 いわたまさゆき : 千葉大学名誉教授
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 前述したように、アメリカ占領軍の占領行政の要として、CCD・民間検閲局が設置され、昭和20年・1945年9月から昭和24年・1949年10月まで日本各地の主要郵便局を拠点と定め、日本国民の信書(手紙・葉書)・電報を検閲していた。検閲とは、信書を開封し、その英訳をアメリカ占領軍に提出することである。
 信書開封・英訳の実行者は、アメリカ人ではなく、日本人の知的エリートと知的エリート候補生であった。2万人から2万5千人に及ぶ信書検閲実行の日本人指導者は、敗戦前の大学教授、貿易関係者、外交官であって、検閲の現場実践者は、敗戦後の高等教育卒業者と在学生であった。彼等には戦災で苦しむ一般日本常民にとっては夢のような生活安定が保証された。
 ここで、注目すべきは、学制改革である。昭和24年・1949年5月に新制大学が発足し、東京帝国大学は東京大学となり、数多くの地方国立大学や私立大学が生まれた。すなわち、日本常民の信書の開封・英訳の当事者は、すべて旧制の国立・私立の高等教育を受けて来た人達である。
 次いで、旧帝国憲法第26条を見てみよう。「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルコトナシ。」とある。新憲法第21条②は、「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」言うまでもなく、新憲法は昭和21年・1946年11月3日に公布されていた。
 日本国民の信書を検閲し、信書を開封・英訳した旧制高等教育授受者は新旧両憲法の原則を完全に無視していた。アメリカ占領軍が提供する生活安全保障の前には、日本国の最高規範は無意味であったのだ
 信書開封・英訳者の大部分は、三島由紀夫と完全に世代を同じくする。昭和45年・1970年11月25日、三島由紀夫が自決したした時、45歳であった。時に三島由紀夫は日本文学界の頂点にあった。信書開封・英訳者2万人も三島由紀夫ほどではないにせよ、1970年・昭和45年の日本社会の各分野、官界、政界、実業界、教育界、学界、芸術界、ジャーナリズム界、防衛界、地方行政界等において中堅を占めていたはずであろう。
そして、1970年・昭和45年は、昭和35年・1960年の安保改訂反対闘争にもかかわらず成立してしまった新安保条約の中に岸首相世代が後代の日本国民に置き土産とした第十条にある規定の年だ。「この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後一年で終了する。」(強調:岩田)
 私=岩田の妄想であるが、日本エリート社会にこのような意思を成立させなかった強い一因として、1970年・昭和45年の日本社会各界の中堅となった信書開封・英訳者集団に特に強い心性があったのではなかろうか。米軍が提供する安全保障の前に跪く心性の再生産。
 三島由紀夫は、同世代の知識人が犯した大量の同胞信書開封・英訳なる米軍への奉仕を知らなかった?! 

                        令和2年11月30日(月)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10328:201201〕