三木清と西田幾多郎の人間学 (3・完)

十、実在としての薔薇の意識

やすい:西田哲学ではあくまで経験を実在として捉えますから、現象即実在なのです。それは人間の感覚によって構成された事物が実在だということですが、その場合、ノエシスつまり意識の作用面とノエマつまり意識の対象面の統合としての事物が実在なのです。それは人間の意識でしかないという意味では、無の面を持っています。

野口:個々の事物が単なる主観の意識でしかないのでなく、実在でもあるのは、それが一般者の自己限定でもあるからでしょう。

やすい:そうです。個々の意識は自然的・社会的な諸連関の中で成立します。それを各個人は、私の意識としか受け止められないものですが、観念や言語による認識は、生物的な種の体験知を踏まえたものですし、社会システム全体の活動の一環として機能しているのです。ですからこの花を薔薇として意識できるのは、社会的にだれもがこの花をチューリップではなく、薔薇だと意識するからです。それが一般者としての薔薇の自己限定という意味です。ですから私の意識は、同時に社会システムの意識でもありますし、薔薇の意識でもあるわけです。

野口:薔薇が意識するのですか、薔薇に関する意識なんじゃないですか。

やすい:この花が薔薇だという時には、この花は個物ですから、個物としては一般者ではないのです。つまり、一般的に薔薇とは言えないと西田は考えます。でもこの物という個物の意識は、意識している個人に固有であって、一般化できないけれど、一般化しなければ何物でもなくなってしまい、規定できないわけです。

野口:それで個物は個物であることを否定して、一般者として自己を規定するわけですね。その場合の意識は、一般者としての薔薇が意識しているのではなくて、私が一般者としての薔薇を意識しているのではないのですか。

やすい:「私が意識する」という言い方には、西田哲学の立場からは抵抗があります。つまり霊魂が実体としてあって、それが意識主体として意識を生み出しているというデカルト的な捉え方はしません。自我はあくまでも意識自身が自己を統合する働きを指しているにすぎないのです。「この花は薔薇である」という意識は、一般者としての薔薇がこの花として現れたこととして捉えられます。

野口:でもそれは私の意識に現れているのであり、意識しているのは私で、薔薇ではないのでしょう。

やすい:「意識する私」と「意識内容」と「意識対象としての事物」の三者は、意識現象が実在である立場からは、本来、純粋経験や行為的直観としては未分化なのです。薔薇が意識として現れることが意識するということなら、この意識が薔薇が生み出しているとも言えるわけで、一般者としての薔薇の意識とも言えるわけです。

野口:それじゃあ具体的に西田の書いたもので、事物が意識するという表現を抜き出してもらいましょうか。

やすい:『日本文化の問題』で、西田がよく使うフレーズとしては「物と成って考え、、物と成って行う」という言葉ですね。西田の『働くものから見るものへ』への「内部知覚について」の中にこうあります。
 「数理を考へるといふことは、数理自身の内面的発展と考へられなければならぬ如く、色を視るといふことも、色自身の内面的発展でなければならぬ。考へるといふことが、思惟が思惟自身を見るという得るのみならず、見るといふも色が色自身を見ると云ふことができるでもあらう。」
 また『無の自覚的限定』にもこうあります。
 「判断とは物が物自身について語ることでなければならぬ、客観的存在が自己の客観的内容について語ることでなければならぬ。」(全集第6巻15頁)
野口:なるほど、でも例えば「雨が降っている」という判断は、客観的に「雨が降っている」という事実に照応していなければならないことを西田は指摘しているのではないのですか。

やすい:それは違います。意識現象が実在なのですから、事実も意識現象に他ならないわけです。だから「雨が降っている」という判断は、「雨が降っている」という経験を意識として反省したものに他ならないわけです。

野口:それじゃあ、「雨が降っている」のが事実かどうかは問えないじゃないですか。

やすい:「雨が降っている」という判断は、実際に雨の中での体験もあれば、屋内にいて、屋外の天候を推測している場合もあります。言語表現では同一でも、同じ体験に基づくものとは言えません。当然、言語表現が事態を正しく表現しているか問える場合もあり得ます。いずれにしても、「雨が降っている」という判断を下すような、体験があることは共通しているのです。そしてこのような体験を構成しているのが、実在としての事物なのです。

十一、絶対無の場所

野口:ところで世界が意識として捉えられる「無の場所」と「絶対無の場所」はどう違うのですか、「物と成って考え、物と成って行う」というテーマと関連しているようですが。

やすい:「有の場所」では、世界は事物の諸関連だと捉えられていて、それが意識でしかないことは反省されていません。「無の場所」では、逆にすべてが主観の意識に還元されてしまっているのです。それは意識でしかないことによって、実在性が否定されてしまっていると言えます。あるいは意識としての実在でしかないと言えます。

野口:空間や時間も意識なんでしょう。もちろん色彩や音や臭いや、柔らかさも意識なんでしょう。

やすい:だから「窓を開ければ港が見える」というように同じ人の意識に狭い空間も、広い空間も意識されるわけでして、意識が現れる「場所」には空間カテゴリーや時間カテゴリーは適用できないのです。あらゆる有やその否定としての無とも区別されて、絶対無としか言えないのが「絶対無の場所」なんです。それだからこそ全ての存在が現れてくる可能性を持っている場所でもあります。

野口:パスカルに言わせれば「思惟は宇宙を包む」ということですか。でも西田は歴史的・地理的な「場所」の置かれた制約や条件を論じています。「場所」にも時間・空間カテゴリーが適用されているということじゃないのですか。

やすい:歴史的条件として、「開国」の時期、「日清戦争・日露戦争」の時期、大戦間時代それぞれに民族意識が違ってきます。それは場所の置かれている状況の時間・空間的な変化ですが、場所自体がそこに現れる事物のような時間・空間性を持たないという問題とは次元が違います。例えば、デカルトのような、主観・客観図式で考えますと、客観的な事物には時間・空間性があるのですが、主観は対象化できませんから、主観が時間的にどれだけ変化したかとか、主観の空間的な大きさは云々できませんね。

野口:「絶対無の場所」では、「実在としての事物」が現れるのですか。それではその「実在としての事物」は「有の場所」の「単なる事物」とはどう区別されるのですか。

やすい:「有の場所」では、ノエシス面を捨象して、ノエマ面だけを実体化していますから、単なる事物の関係として自然や社会の諸現象が捉えられるわけです。しかし、「絶対無の場所」では事物は人間のノエシス・ノエマの統合としての実在的な事物なのです。

野口:その場合、実在的という意味はどういう意味ですか。

やすい:それは純粋経験としては生の体験としての事物であるということです。あるいは行為的直観としては、生々しい歴史的・社会的現実体験ですね。

野口:客観的な外的事物ではなくて、我々の生きる苦悩や情熱の表現としての、喜怒哀楽のこもった事物ということですか。それではドロドロした自我が出ていて、「絶対無の自覚」からは程遠い気がしますが。

やすい:「わが心深き底あり、喜も憂の波もとどかじと思ふ」と西田は詠んでいます。深い苦悩の末に、自己の運命を達観したような境地に達したのです。そうなれば、もう個々の不幸な出来事や、苦悩の種としての肉親や財産や仕事や人間関係などを突き抜けています。そこにあらゆる有を超越した絶対無を実感したわけです。

野口:場所はどうして絶対無とよばれるのですか。

やすい:経験は様々な事物として現れます。事物的なものは有の世界を構成しているのです。そこには時間空間、質量、色彩、音、臭いその他の様々なカテゴリーで捉えられます。しかしそれが現れる場所それ自体にはそういうカテゴリーは当てはまらないわけです。つまり有や有に対する無、「ハンカチが有るとか、ハンカチが無い」とかから区別された実在が現れる場所としての無なので絶対無なのです。

野口:実在が現れる場所は有るわけでしょ。有るのだったら無ではないでしょう。

やすい:その意味では、絶対無は絶対有でもあります。ただ個々の実在のみならず、実在一般と区別されるという意味で絶対無なのです。

野口:人それぞれに現れる世界が違いますね。それぞれの人生が一つの宇宙だと言えるかもしれません。だけど同じ世界や事物をめぐって対話がなされ、そこで取引や争奪などの駆引きが行われるのですから、世界を共有しているわけでもあるわけてす。

やすい:ええ、個々人に現れる世界が、実在なのですが、それは個性的なものでして、他の人の人生とは全く違うものです。とはいえ、同じ空気を吸い、水を飲んでいて、人類という同じ命の幹から生まれています。世界は宇宙は当然ひとつしかないわけです。その意味では個別的なものは普遍的なものの現れに他ならないことになります。

野口:唯一の存在である個物が、一般者の現われでもあるということは、西田にとっては個物の否定であり、死を意味するわけでしょう。

やすい:西田の場合、真の個物は個人であるというように、個人と個物が混同されていて、個別を特殊や普遍として捉えることは、個物性の否定だとされます。しかし、元々個物は類や種に属しているからこそ、個物として具体的に現れることができるわけです。何の規定もできない個物はいかなる存在でもありえません。それに対して、個人の体験は他人の体験とは取替え不能ですから、個人性の否定というのはある意味で死を意味するというのも大袈裟ではないかもしれません。

野口:西田の場合、主観・客観の合一という立場があり、実在としての個物も個人の生とは切り離せないわけですから、個物を一般者の現れとして捉えることが、個人の個性の否定であり、死であると受け止められたとも考えられますね。

十二、「死して生きる」と自己表現としての事物

やすい:「死して生きる」というのが西田の自己否定による自己実現の論理なんです。一般者としての規定を個物が引き受けるのは、個物が唯一存在であることを否定したことを意味します。その意味で個物としての自己は死に、一般者が個物となって、自己を実現するわけです。一般者も個物でないことが一般者たる所以だとしたら、個物として自己を実現するのは、自己否定です。こうして個物はヘーゲル的には具体的普遍として復活することに、つまり「死して生きる」ことになります。

野口:社会的な諸事物だけでなく、自然的諸事物までも人間の自己表現に含まれるのですか。

やすい:自然的諸事物の分類や規定は、イデアとしての概念体系を当てはめて構成したものです。その意味では自然的諸事物も含めて、その時代、その社会の自然観に基づいた自己表現なのです。

野口:しかし現象がそのまま実在である西田の立場から言えば、人間が与えた規定であっても事物自身の規定でもあることになるのでしょう。

やすい:ですから、「絶対無の場所」における認識は個人的な認識であると同時に、その個人性の否定によって、一般者自身の自己限定でもあるわけです。「この花は薔薇である」という意識は、私の判断であると同時に、薔薇が意識として自己を語っているとも言えるわけです。

野口:それじゃあ、世界は事物自身が互いに連関し、自らを表現していることになり、人間の自己表現であるという人間学的な見方は成り立たなくなりませんか。

やすい:事物は人間の意識として自己を実現しているのですから、それは同時に人間の意識としての自己実現でもあるのです。そして絶対無においては意識は実在としての事物であることを自覚していますから、事物自身が人間の自己実現であることになります。つまり人間と事物の断絶は止揚されているのです。

野口:しかしそれはそうあるべきだという「当為」にすぎないのじやないですか。それが純粋経験論でいう主客合一ということですか。でも人間と事物の断絶も、自らの死によってしか克服できないという意味で絶対矛盾的なものだから、この合一も「絶対矛盾的自己同一」として捉えられざるを得なかったのでしょう。

やすい:ええ、全くその通りです。西田にすれば主体は絶対自由意志だから、それは物ではありえないのです。しかし人間は自己の自由を実現するためには、目の前の物事に取り組み、それを一つ一つかたづけていかなければなりません。そうしているうちに人生の大部分が消え去ってしまいます。目の前の事物に関わっているうちに、自分がやりたかったことは、何も出来ずに人生おしまいじゃないかと思います。そこで事物を自分と認めたくない気持を持つのです。

野口:でも、それらの事物として自分の世界は現れているので、それらが自分の生命であり、実在であるというのでしょう。だから、そこに人間としての自己を見出さなければならないとおっしゃるわけですね、やすいさんは。

やすい:西田もそうですよ。物に自己を見出すためには、自己の特殊性や様々な傾向性に囚われる自己を否定し、自己の底に普遍的な生命の意志と一つにならなければなりません。そうなってはじめて、物に成り切ることができるのです。それが物を創造的世界の創造的要素としてポイエシス(制作)的に捉えることに他ならないのです。現在、世界統合の新世紀は既に始まっているにもかかわらず、閉塞状況に陥っています。これを打破するためにも、時代の課題を明確にし、目標を定めて歴史を導く「ポイエシスの哲学」が求められているのです。
 
十三、「死して生きる」と自己表現としての事物

やすい:「死して生きる」というのが西田の自己否定による自己実現の論理なんです。一般者としての規定を個物が引き受けるのは、個物が唯一存在であることを否定したことを意味します。その意味で個物としての自己は死に、一般者が個物となって、自己を実現するわけです。一般者も個物でないことが一般者たる所以だとしたら、個物として自己を実現するのは、自己否定です。こうして個物はヘーゲル的には具体的普遍として復活することに、つまり「死して生きる」ことになります。

野口:社会的な諸事物だけでなく、自然的諸事物までも人間の自己表現に含まれるのですか。

やすい:自然的諸事物の分類や規定は、イデアとしての概念体系を当てはめて構成したものです。その意味では自然的諸事物も含めて、その時代、その社会の自然観に基づいた自己表現なのです。

野口:しかし現象がそのまま実在である西田の立場から言えば、人間が与えた規定であっても事物自身の規定でもあることになるのでしょう。

やすい:ですから、「絶対無の場所」における認識は個人的な認識であると同時に、その個人性の否定によって、一般者自身の自己限定でもあるわけです。「この花は薔薇である」という意識は、私の判断であると同時に、薔薇が意識として自己を語っているとも言えるわけです。

野口:それじゃあ、世界は事物自身が互いに連関し、自らを表現していることになり、人間の自己表現であるという人間学的な見方は成り立たなくなりませんか。

やすい:事物は人間の意識として自己を実現しているのですから、それは同時に人間の意識としての自己実現でもあるのです。そして絶対無においては意識は実在としての事物であることを自覚していますから、事物自身が人間の自己実現であることになります。つまり人間と事物の断絶は止揚されているのです。

野口:しかしそれはそうあるべきだという「当為」にすぎないのじやないですか。それが純粋経験論でいう主客合一ということですか。でも人間と事物の断絶も、自らの死によってしか克服できないという意味で絶対矛盾的なものだから、この合一も「絶対矛盾的自己同一」として捉えられざるを得なかったのでしょう。

やすい:ええ、全くその通りです。西田にすれば主体は絶対自由意志だから、それは物ではありえないのです。しかし人間は自己の自由を実現するためには、目の前の物事に取り組み、それを一つ一つかたづけていかなければなりません。そうしているうちに人生の大部分が消え去ってしまいます。目の前の事物に関わっているうちに、自分がやりたかったことは、何も出来ずに人生おしまいじゃないかと思います。そこで事物を自分と認めたくない気持を持つのです。

野口:でも、それらの事物として自分の世界は現れているので、それらが自分の生命であり、実在であるというのでしょう。だから、そこに人間としての自己を見出さなければならないとおっしゃるわけですね、やすいさんは。

やすい:西田もそうですよ。物に自己を見出すためには、自己の特殊性や様々な傾向性に囚われる自己を否定し、自己の底に普遍的な生命の意志と一つにならなければなりません。そうなってはじめて、物に成り切ることができるのです。それが物を創造的世界の創造的要素としてポイエシス(制作)的に捉えることに他ならないのです。現在、世界統合の新世紀は既に始まっているにもかかわらず、閉塞状況に陥っています。これを打破するためにも、時代の課題を明確にし、目標を定めて歴史を導く「ポイエシスの哲学」が求められているのです。
終わり

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study516:120621〕