三浦雅士著『考える身体』を読む(前編)

目次
0 はじめに
1 根源的芸術としての舞踊
2 プラトン以降、そして20世紀
3 零度の身体と近代
4 ベジャールとピナ・バウシュ
(以上「前編」)
5 地平線の思考-ベジャール、テラヤマ、ピナ・バウシュ
6 考える身体
7 おわりに

0,はじめに

 『考える身体』(河出文庫、2021年)は、1999年、三浦雅士が、今から二十二年前に書いた『考える身体』(NTT出版)を文庫にしたものである。内容的には『身体の零度 何が近代を成立させたか』に続く身体論であるが、文庫化にあたっては、「人間、この地平線的存在-ベジャール、テラヤマ、ピナ・バウシュ」という書下ろしの論考を収録しており、以前にもまして、この身体論を、舞踊論として読むことを誘っている。
 1970年代、『ユリイカ』、『現代思想』の編集者として活躍した三浦が舞踊に興味を持ったのは、1981年に青土社をやめ、盟友・寺山修司の死の翌年、1984年から一年半ニューヨークに滞在した期間だったという(ちなみに、この時ピナ・バウシュを見て衝撃を受けたという)。以来、舞踊は、三浦の後半生の中核をとらえたようで、以後、多くのすぐれた舞踊批評を書いたばかりでなく、舞踊についての雑誌の編集をし、多くのすぐれたコリオグラファーやダンサーたちと交流をもった。その意味で、ここ何十年かのバレエをはじめとする舞台芸術の生き証人のような存在のひとりだと言える。
 この本は、そうした三浦の活動の一端を知る上で恰好の書物だと思う。実際、三浦は、この本の中で、繰り返し、舞踊の魅力を、歴史を語り、さらに、豊かな鑑賞体験と独自のパースペクティブに基づき、二十世紀後半に出現したベジャール、ピナ・バウシュなどの舞台芸術がいかに特筆すべきものであるかを、熱っぽく語っているのである。
 1990年代といえば、私も、ピナ・バウシュやフォーサイスの舞台を見に、足しげく劇場に通っていた時期だ。東京バレエ団のレパートリーとなったベジャール(『春の祭典』など)も見た。当時彼らの来日公演は、バレエやモダンダンスのコアなファン以外の、たぶんにブキッシュな客層までもつかむような何かがあったのだ。その何かとは、この本を読んだ今、この本のタイトルとなった「考える身体」とでもいうべきものの現出と言えるように思うが、しかし、先を急ぐまい。
 これらの舞台の何が特筆すべきなのか、私なりにいくつかの項目に整理し、三浦の見解をたどることにしよう。

1,根源的芸術としての舞踊
 なぜ、舞踊なのか。舞踊が三浦を引きつけてやまないのはなぜなのか、という問いから始めよう。
それは、端的に言って、「人間の生死を、つまりは人間という存在の条件を、これほど深く感じさせ、考えさせる芸術はほかにないから」だという。「人間は死すべき存在」であるが、「それを引き受けることが生きる」ことであるという「不条理な事実」を、「身体を通して、じかに納得しようとする行為」が舞踊なのだと三浦は言う。
 それは、「能であれバレエであれ、すぐれた舞踊はすべて生と死の境を舞い踊る」ことによく表れているが、それ以上に、舞踊が、「今、ここ」の芸術であることに凝縮して表れているだろう。
 実際、舞踊は、「時々刻々と過ぎ去ってゆく生命の燃焼そのものが作品となる芸術」であり、「初めから消え去ることを条件づけられている芸術」であり、「出来事」として体験されるべき芸術である。ダンサーと同時代に生きていなければ見られないという制約を負うだけではない、同時代に生きていても、舞台が終われば、それは消えてしまう。舞踊は、ダンサーにとっても、観客にとっても、「その日、その場の体験の記憶としてしか残らない」ものなのである。終わってしまえばすべて消えてしまうので、とりわけ高名なコリオグラファーやダンサーが亡くなったときの「もう二度とみられない、残せない」という喪失感は大きい。半永久的に残る他の芸術を嫉妬する瞬間である。だが、そうであるがゆえに、共有したそのかけがえのない時間は濃密であり、その瞬間の感動は全身的で強烈なものとして残る。
 こうした舞踊のあり方、つまり、演ずる側も見る側も、その日その場にいなければならず、「出来事」として濃密に体験されるあり方は、近代芸術の尺度に照らすと制約として映るが、ひとたびこうした経験をしてしまうと、美術にしろ音楽にしろ、むしろこうしたありようのほうが本来的なものだと思わせるものがあり、舞踊は、「永遠の美の殿堂」を「鑑賞する」という西欧近代の芸術観を根本から覆す根源的な芸術だといえるのではないかと三浦は考えているようである。
 このように、舞踊は死すべき身体を基盤にするがゆえに「消え去る」芸術なのであるが、一方で、「身体もまた伝承される」ことに、三浦は注目を促す。幼児をあやすという行為などに着目しながら、身体は、「生まれたのちに共同体のなかで形成されなおす」、「鋳直される」、つまり「身体そのものがひとつの共同性としてあ」り、「自分という意識もまたこの共同性としてある」と書く。身体は、「個人に属す」というより、「共同体の基盤」を形成するものだというのである。
 この共同性を、人間は、模倣をとおして、表情、仕草、身体所作の全体系を習得することで獲得していくが、「この身体所作の全体系のエッセンス」が、舞踊にほかならない、と三浦は説き、「伝承される身体の共同性の根源」に舞踊があるという視座を提供し、その魅力を語る。
 そして通常、文明や文化を論じるとき、言語の重要性だけ指摘されることが多いが、「表情や仕草など身体性を離れた言語は存在しない」とし、文学の表現も、そうした身体の共同性に根ざしており、その根源は舞踊であるとするのである。
 三浦は別のところで、舞踊とは「身体を介して、人間が集団を成していること、共同体を形づくっていることを確認する行為」だと言っているが、それは、こうした、舞踊が「伝承される身体の共同性を体現する」という見方と、深くかかわっているだろう。
 また、文学の根源に舞踊を見るという見方は、三浦の、美術や音楽の根源に舞踊を見る見方とも関係があろう。
 三浦は、「芸術といえば、人は美術、音楽をまず考える」が、視覚芸術や聴覚芸術として「美術も音楽も、広大な舞踊の富のその一部を肥大させたものにすぎない。舞踊の混沌を強引に細分化したものにすぎない」とする。そして、美術も音楽も、そして建築も、「その母胎であった舞踊を忘れ去った」すなわち「身体を失った」芸術なのだと断言する。
 これに関係して、この本と同年に書かれた『バレエ入門』のなかでは、「言葉の兄弟であり姉妹」である舞踊から音楽や美術が分かれて出てきたとし、音楽や美術のない舞踊はなく、「音楽の実行」である舞踊は、昔は「歌も踊りも演奏も入り交じっていて、区別がつかない」ものだっただろうし、人間の身体が「サークルを描いたり、まわりを囲ったり」することは「美術のはじまり」であったろうと書いている。
 証拠立てる資料はなく、異論はあろうが、三浦には、舞踊は、伝承される身体の共同性の根源にあり、諸芸術の母胎を形成するという強固な確信があるのであり、そうした確信は、死すべき人間の条件をこれほど喚起させるものはないという痛切な実感とともに、三浦に、「舞踊ほど根源的な芸術はない」と繰り返し書かせることになるのである。

2,プラトン以降、そして20世紀

 では、このように、舞踊は根源的芸術であると確信する三浦が、舞踊に与えた思想史的パースペクティブは何か、ここで確認しておこう。それは、プラトン以前と以後という視点である。三浦は書いている。

  プラトンがその共和国から詩人を追放したことはよく知られている。だが、同じように舞踊家も追放したことはなぜか論じられることが少ない。西洋の伝統において舞踊が文学のはるか下に置かれていたことのひとつの証左だが、プラトンは、それこそペンテウスよろしく、その共和国からディオニュソスとその一統、バッコスの踊りに類するいっさいのものを追放しようとしたのである。『法律』に明記されている。

 舞踊家は、プラトンによって詩人と同様、共和国から追放されていた、つまり、舞踊は、もともと「人間という不気味なものを、その根源において把握する方法にほかならなかった」つまり、「精神と身体を、そのまったき合一において」、「その区分以前において、掌握する技術にほかならなかった」が、「西洋の伝統、そしてその後につづく近代の伝統」は、精神と身体を「区分」し、「生の技術としての舞踊の力を侮ってきた」、あるいは「諸芸術の母胎ともいうべき舞踊の力を侮ってきた」というのである。
 知られているように、プラトンが、共和国から追放しようとした詩人は、近代以降の詩人とは違って、ホメロスの詩を丸暗記しているような語り部に近い存在だったわけだが、身体性に基づく共同体の思考を体現するという点で舞踊家と共通するものがあり、以下のように、プラトンはどちらも嫌ったというわけである。

  プラトンが嫌ったのは、詩人が体現していた共同体の思考であったと考えることができる。共同体の思考はそのまま声の伝承を意味していた。それに対して新しく登場してきた手段である文字は、個人の思考、主体的かつ主観的な個人の思考を表象するものだった。しかもそれは、口伝えによる永続性とはまったく異なった永続性、いや永遠性をも暗示したのである。文字は永遠に残る。こうして新たに獲得された永遠性こそ、超越論的という次元、ニーチェふうにいえば以後、二千年以上にわたって人類を翻弄することになる新たな虚構を発生させるもととなった。声の文化から文字の文化への移行にこそ、イデア論の秘密が潜んでいるのだ。

 また、三浦は、ソクラテスが、こうした共同体的な思考や語りを中断し、切断するもの、あるいは個人の思考を奪い返すものとして登場したのであるとし、以下のようにも書く。

  …ちなみに、あえて個人の思考のもとへと奪い返すと述べたのは、この段階で個人の思考が発生したなどと考えてはならないからである。個人の思考は人類の発生とともにあったに違いないのであり、むしろその個人の思考の不安を解消するものとして、語りの思考、共同体の思考が発生したとみるべきだと思われるからである。人は共同体に自己の不安を預けたのだ。語りの思考、共同体の思考はむしろ声の文化の爛熟として成立したのであり、ひとつの文明の頂点として成立したと考えたほうがいい。ということは、ソクラテスは、ある文明の始まりの人である以上に最後の人であったということである。

 声の文化から文字の文化への移行については諸議論があるが、ここで重要なことは、この段階で(ソクラテスの段階で)「思考から身体が脱落した、あるいは身体が思考を規定していた文明が終わって、思考が身体を規定する文明がはじまった」ということであり、同じことだが、ソクラテス/プラトン以降の歴史に、「声の文化の爛熟として成立していた」共同体の思考を抑圧する動き、「身体を抑圧し隠蔽しようとする動き」があるということだというのである。
 こうして成立した西洋の思考の伝統を「形而上学」だとしてニーチェが批判したのは19世紀末であるが、20世紀になっても、思考の座を精神に、そして脳に置く考えは依然根強くある。三浦は、いささか極端な例だが、科学史家バナールの「群体頭脳」(夥しい脳が網状に結びつけられて群生しており、人類は死と自我を超える)のビジョンをあげて、唯物論を標榜しながら身体を蔑視した形而上学だとしてこれを批判している。
 脳は身体から切り離され、生存し続け、網状になって、思考し判断することができるとするこのビジョンは、21世紀になってコンピューターのネットワークがもたらしたわれわれの知的環境に近づいているのは事実だが、三浦は、脳は身体から切り離すことが出来ないとし、むしろ身体が思考の座であるような例をあげ、反論している。
 たとえば、三浦自身の体験、『古今和歌集』の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」という和歌について、「二十代の夏のある日、不意にこの歌が口をついて出てきて、胸苦しいほどの感動を覚えたことがある」という体験をしたことを語り、これを、「詩歌は人々の身体を介して網目状につながっている」のであり、「言葉は身体のなかに生きているとも、身体は言葉のなかに生きているとも言え」る例だとしている。
 実際、20世紀に入って、ゲーデルの不完全性定理が形而上学へのとどめの一撃を加えると、「身体が言葉の場において復活」する兆しを見せたと三浦は言う。西洋の思考の伝統において一度は「身体はその場を失ったが、自らの場を言葉のなかに再び見いだした」のであり、「言葉は存在の住処とハイデガーがいうとき、身体はそのうっすらとした影をもっとも美しく言葉のなかに反映させているのである」というのである。そして、「思考の身体、それは言葉である」とする。
 だが、三浦は、言葉は「生きている身体のなかでしか生きられない」のであり、「文字が生き返るのも生きている身体において」だということに注意を向けると、議論を、「言葉の身体」は何かという問いへと移し、ここに、「始原の言語」たる舞踊を喚起し、最終的に、「思考の身体とは舞踊にほかならない」と結論づけている。
 以上、大雑把な要約になってしまったが、ともあれ、重要なことは、20世紀になって、舞踊、とりわけ芸術としてのバレエが目覚ましい展開をみせたことは、こうした身体と思考の歴史と無関係ではないということなのである。
 三浦が、身体を基盤にする芸術である舞踊を、「根源的な芸術」であり「古くて新しい芸術」である、と繰り返すのは、以上のようなパースペクティブをもつからなのだ。

3,身体の零度と近代

 しかし、ここでもうひとつおさえておかなければならないパースペクティブがある。それは「近代化」である。上述の視点では、近代も、プラトンの延長上にあることになるが、三浦は、この本を書く五年前に『身体の零度 何が近代を成立させたか』という著作を上梓し、身体と近代の関係を探っており、終わりのほうで、以下のように書いていた。簡単に見ておこう。

  いま、私は、二十世紀に入ってバレエが爆発的に花開いたその秘密が、わかりかけてきたような気がする。舞踊は長く原初生産性のもとにあった。それは農耕民の舞踊であり、遊牧民の舞踊であった。だが、いまそれは、近代によってもたらされた身体の零度に根ざす総合芸術、いや、芸術以上のものになってきたのである。そのなかに、農耕民の舞踊も遊牧民の舞踊も取り込みながら、それらのすべて、精神と身体のすべてを考える場に変容したのである。

 ここでいう「身体の零度」とは何かというと、古くから人類が、刺青、装身具、纏足など身体加工を行ってきたこと、つまり「身体が過剰な意味の場所で」あったことを喚起しつつ、それに対する形で後世になって出現した、「裸で何も塗らず、形を変えず、飾らない人間の身体」(マンフォード)、あるいは、「自然な」身体(ルソー)のことをさしているという。具体的には、産業革命で生み出された産業民の均質な身体のことをさす。
 先の引用は、われわれがこうした「身体の零度」を獲得し、軍隊に始まり、学校、工場において、体育、体操、スポーツという、規格化された身体に対する新しい視線を生み出した過程で、舞踊が一度は、体育、体操、スポーツにその場を明け渡しつつも、しかしその新しい身体から、舞踊もまた近代化をとげたこと、また、原初生産性のもとにあった農耕民の舞踊や遊牧民の舞踊(生産の基本形態の違いに応じて、前者は摺り足にナンバ、後者は浮き足立つとか跳ね上がるといった身体所作に特徴がある)が、とりわけ遊牧民の舞踊であるバレエが、均質化された「産業民」の舞踊となったこと、そしてそれが「芸」ではなく、身体の零度にもとづく「総合芸術」になったことを論じているのである。
 実際、「身体の零度」が切り開いた道程において、ルイ14世をはじめ王侯貴族が自ら踊りもしていたバレエは、ヴェルサイユ宮殿のシンメトリーに即して閲兵式のように左右対称に整然と並んで踊ることを経て、18世紀から19世紀にかけて、劇場において「見られるもの」として―しかも(産業民たる)男が見るもの、女が見られるものとして―演じられるようになると、やがて額縁舞台の遠近法的な配置の中に、ピラミッド型の美の位階制を体現するものとして吸収され、近代的鑑賞を準備するものとなる。そして20世紀の初頭には、ディアギレフとそのコリオグラファーたちは、舞踊を、「19世紀的な意味での芸術にひきあげ」、「作曲家と美術家と振付家が共同で行なう自由で平等な創造」にしたてあげることになるのである。
 もちろん、この身体の零度は、『考える身体』によれば、「人間の活動とその成果はすべて貨幣価値に換算されるという徹底した経済一元化」とかかわり、その芸術版として、「抽象概念としての美」を生み、「その美を座標軸とした空間に古今東西すべての製作物が配列されていった」、すなわち「ヨーロッパが世界を植民地化していった」という側面ももつのだが、こうした近代化ぬきに20世紀の芸術表現としての舞踊はなかったというのはおさえておくべき重要な視点であろう。
 ちなみに、こうした「身体の零度」を基盤とする舞踊を象徴するものとして、自然が最も美しいとし、世界の共通語としての身体表現をめざしたダンカンからグレアムにいたるモダンダンス、ディアギレフのロシア・バレエ団による全世界的活動、そしてディアギレフの最後のコリオグラファーだった、抽象的バレエの祖、バランシンとそれに続く前衛たちの表現があることを付け加えておこう。
 とりわけ、バランシンのバレエは、「音楽そのものを身体の動きによって視覚化するもの」、「身体を音楽の化身にするもの」であり、「筋も物語もない抽象的バレエ、身体の動きの美しさのみを追求するバレエ」であったが、その抽象的な身体は、その衣装、「裸体の抽象」であるレオタードとともに、近代化を推し進めた「身体の零度」をこれほど具現するものはなかったのだという。
 またそれは、バレエの近代化とともに成立していった、遠近法の空間に基づいたピラミッド型の美の位階制—たとえば舞台の中心に立つのはプリンシパルで、左右に行くほど重要度が薄れる―を引き続き継承するものでもあったことも押さえておきたい。

4,ベジャールとピナ・バウシュ

 さて、ここで、三浦が二十世紀の舞踊を代表すると特筆するベジャールとピナ・バウシュを見ることにしよう。
 三浦は、「二十世紀の舞踊はニジンスキーの『春の祭典』に始まり、ベジャールの、そしてピナ・バウシュの『春の祭典』で閉じようとしている」と書いているが、ここからわかるように、三浦が注目するのは、先に見た、身体の零度に立脚した抽象的バレエを推し進めたバランシンとそれに続く前衛たちではなく、やはりディアギレフの下で、バレエが「儀式」にほかならないことを明らかにしたニジンスキー、ニジンスカ兄妹、そしてその核心部を受け継いだベジャール、ピナ・バウシュへと続く系譜である。
 『春の祭典』は、言うまでもなく、太陽神への礼賛と生贄として選ばれる乙女を描いたストラヴィンスキー作曲のバレエ作品であるが、三浦によれば、ニジンスキー、ニジンスカ兄妹によるバレエの革命において、舞踊は「儀式」、とりわけ「死と再生の儀式」であることが「ほとんど本能的に」明らかにされていたが、それだけではなく「儀式とはつねに性にかかわること、いや、儀式の根源とはじつは性のいとなみにほかならないことが明らかにされて」おり、「春祭も婚礼も死と再生の儀式にほかならず、死と再生の儀式とは魂の次元に移された生のいとなみにほかならないのである」ことが示されていたという。
 これはほとんど、ベジャール―全裸を思わせるレオタード姿の男女数十人の群舞によって、男女の性交を喚起しながら生命の死と再生を描いた―を思わせる記述だが、1959年、『春の祭典』を上演し、ベジャールがベジャールとして誕生するのはニジンスキー、ニジンスカ兄妹の継承・反復においてであったことを三浦は歴史的に押さえつつ、そこで、ベジャールは、「舞台は役柄によって踊られるのではなく、肉体によって踊られるものであることを、高らかに宣言した」のであり、「舞踊の始原へと回帰することによって、瀕死の状態にあった舞踊を再生させた、すなわち、文字通り『春の祭典』を実現した」のだとしている。
 『春の祭典』という作品を上演したというよりもむしろ、自らの舞台において『春の祭典』を「実現した」とする視点はたいへん意味深いものがあるが、実際、三浦によれば、ベジャールの舞台は、当時の先行するバレエと比較してみると、「非現実なほどに軽やかな妖精の舞いのなかに、突然、生々しい裸の男女が乱入してきたように思えるほど」であり、「ダンサーの生身の肉体をそれそのものとして乗せた」その舞台は、「演ずるエロティシズムというよりも、エロティシズムそのものなのだ」と感じさせるものであったという。「演ずるダンサーの性が露呈するそのことの意味深さを、観客に圧倒的な迫力で教える」ベジャールにとって、「舞踊は、近代的な芸術であると同時に古代の祭儀、原始の呪術であるような何か」だったのであり、舞踊を再生させる現代の儀式そのものだったのである。
 そうしたベジャールにとって、近代芸術を約束した額縁舞台もまた、制約として映ったのだろう。舞踊と円環の関係は古く、「人は大昔から輪になって踊ってきた」が、「舞踊が劇場芸術になるにつれて、舞踊は円環を忘れ」、「ダンサーは環になってではなく、左右対称になって踊るようになった」。「ヴェルサイユ宮殿のシンメトリーは、閲兵式のシンメトリーに重なり、コール・ド・バレエのシンメトリーに重な」って、その延長上に遠近法に基づいた額縁舞台があるのだが、『春の祭典』では、円環が復活されており、とりわけ、「結ばれた二人を中心に全員が渦状に密集し、一斉に両手を差し出す最後の場面」に端的に現れているように、『春の祭典』は、「バレエが額縁舞台を抜け出した瞬間だったのだ」と言うことができると三浦は書いている。
 ここで想起されるのは、三浦が「バレエせよモダンダンスにせよ、すぐれた作品は、すべて、古代的様式と近代的表現のあいだで炸裂する火花のようなおもむきを持っています。重要なのは、その輝きは作品のみならず、この現代社会そのものをも鮮やかに照らしだすということです」と書いていることだが、こうして見てくると、まさにベジャールのことを言っているのだということがわかる。
 もっとも、それはベジャールだけを指すわけではない。ピナ・バウシュもまた、ベジャールの十数年後にあたる1975年に『春の祭典』を振付けており、その舞台がベジャールの根源的な儀式性を受け継いだものだったことで、バレエではないものの、その系譜に連なっているとするのである。三浦は、「儀式を失った時代の儀式とでもいうべき舞踊のかたちがくっきりと刻みこまれている」という言い方もしている。
 ただし、差異もある。それは、「ベジャールが男性の肉体、女性の肉体を前面に打ち出すことによって舞踊の始原に迫ったのに対して、バウシュは個人の肉体、肉体としての個人を前面に打ち出すことによって、舞踊の始原の、しかし歓喜ではなくむしろ悲哀を浮き彫りにして見せた」ということだという。
 ベジャールもピナ・バウシュも舞台に生身の身体を置いたのだが、ベジャールが「男なるものと女なるもの」を置いたのに対して、ピナ・バウシュは「ある男であり、ある女」を置いたのだ。これについて三浦は、ピナ・バウシュの舞台『春の祭典』では、「ダンサーそれぞれが個性をもったその個人」であるがゆえに、「犠牲にされるひとりの人間を選ぶときの緊張感が、ベジャールのそれとはまったく違う。あ、あの人が選ばれてしまった、あの人が人身御供になるんだという、そういうものが強烈に伝わってくるのです」(『バレエ入門』)と書いているが、実際、そこで「観客は、その心の動きを全身で感じとるとともに、あたかも自分たちもまたそのゲームに参加して、彼女を血祭りにあげてしまったような罪責感を覚える」(『バレエの現代』)のである。そのため、ピナ・バウシュの『春の祭典』は、儀式を「実現」したベジャールと異なり、「儀式についての儀式」を上演したという側面が強いといえるようにも思われる(実際、ピナ・バウシュはそうした言い方をしたらしい)が、ここでは詳述しない。
 ともあれ、『春の祭典』を離れてみても、ベジャールの舞台では、群舞、とりわけ匿名の男性群舞によってあらわされた理念が際立つのに対して、ピナ・バウシュの舞台では、ダンサーそれぞれの個性が際立つ。ピナ・バウシュのダンサーたちは、その身体の形状も均質化されておらず、「身体の零度という理念によって失われたものすべてが復活されている」(『身体の零度』)ようなのだが、それだけではなく、まるで精神分析のように「それぞれの記憶のなかで、何か結び目のようなものになっているしぐさを、それとなく提出」させられ、「ものすごい個別性のなかに沈潜してゆき、その底で、観客たちの個別性の、その秘密の部分にまで触れるようになってくる」のであり、ピナ・バウシュは「身体の何気ない行為を通して観客の無意識に迫り、そこではほとんど暴力的なまでの治療を施すといっていいほど」なのである。
 そこでダンサーたちは、「これは私たちのエピソードである以上にあなたたちのエピソードでしょ」と言わんばかりに観客に迫ってくるのであり、こうした形でピナ・バウシュもまた、ベジャール同様、額縁舞台を脱出したといってよいだろう。
 とりあえず、まとめよう。
 ベジャールにとっても、ピナ・バウシュにとっても、舞踊は美のイデアの写しを創造し、鑑賞する場ではない。それは、何よりも、「古代的様式と近代的表現のあいだで炸裂」しながら、プラトン以降抑圧されていた共同体の思考、そして精神と身体の区分以前にある「考える身体」とでもいうべきものを具現させる場であった。
もちろん、それは一度限り演者と観客が共有したのち消えてしまうはかない場である。しかし、それゆえにこそ、「死の体験を先どりし」ながら、「現在のただなかにあ」って、「現在を強め」「現在を高める」、そうしたかけがえのない場でもあったのである。

(後編に続く)

初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2021.9.13より許可を得て転載
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〔opinion11303:210918〕