正月5日に上野東照宮に初詣した事は前に記した。
今年の東照宮には、去年まで存在していたある物が姿を消していた。それは、「広島・長崎の火」記念碑である。
「ぼたん苑」を出ると、参道の向こう側に何やら千羽鶴で飾られた石碑が目についた。東照宮に行き出してから数年後の事だった。近付いて説明文を読むと、長崎の原爆被災者の親族が被災者住居の焼け跡の残り火を採火して自宅に保存してきた火を何年か後に広島の火と合体させた火、それが眼前の小さな焔である、と言う。下町の平和を願う人々が東照宮宮司の協力を得て、その石碑を建立した。まことに、珍しい神主さんがおられるものだな、と「広島・長崎の火」に一礼して去っただけで、当の宮司の名前は知らなかった。それから数年、東照宮のおみくじ売り場で売っていたある書物を買い求めてみたところ、なんと『皇国史観と国定教科書』(かもがわ出版、1993年1月15日初版発行)と言う市民主義リベラルによる皇国史観批判を数等上回る激烈な皇国史観批判の書であった。
私=岩田が一読した感じでは、階級闘争論等のマルクス主義的味付けは全くなく、明治維新の敗者である幕臣系の反明治国家心性が基本にあるラディカル・デモクラットによる明治国家論に思われた。著者は、東照宮宮司嵯峨敞全saga hironariである。大正十三年・1924年生れ、学徒出陣世代だ。後表紙の裏に毛筆による署名と東照宮代表役員宮司印がある。
東照宮改修工事以前、私達参拝者は、拝観料を支払えば、社殿の内部を見学できた。本殿の中で家康公の座像に拝礼し、社殿の長押上の三十六歌仙絵図を観ることができた。そこで本当に驚いたことに、内部がきちんと手当てされていなかった。三十六歌仙の画像の中には破れて風にゆれているものもあった。日本国の文化財でもあるのに、この有様は何としたことか。数年たっても、相変わらず、社殿も三十六歌仙画像も修復されない。ある年、おみくじ売り場の中老男性にたずねてみた。「神社に修理や保存のお金がなくても、国の文化財なのだから、国の文化財保護予算から何とか出来るはずでしょう。どうしてこんな荒れたままにしておくのですか。」「その通りですが、宮司と役所の間がうまくないようで・・・。」
要領を得ないまま、年月が経て、ある時、偶然に『皇国史観と国定教科書』を見付けて、本書の著者が東照宮宮司であるなら、役所から冷遇される事、また「広島・長崎の火」記念碑を境内に設置した事、ともに納得できた。
そうこうするうちに、東照宮の唐門と本殿の本格的な改修工事が始まった。同じ頃、「広島・長崎の火」モニュメントの脇に妙な注意書きが掲示され出した。以下に引用する。
「『広島・長崎の火』モニュメントは先代宮司の意向により建立されたものです。現在当宮との関わりは一切ございません。お問い合わせは下記までお願い致します。上野の森に「広島・長崎の火」を永遠に灯す会 Tel.03-3818-6151 Fax.03-3818-6151」
上野東照宮の改修は、平成26年・2014年に完了し、一般拝観が可能となった。とは言うものの、かつてのように、社殿の内部に入り、家康公に身近に御挨拶したり、三十六歌仙の絵姿を見上げる事も出来なくなった。文化財保護のために社殿内部への出入は禁止されている。それから6年たって、「広島・長崎の火」記念碑は、撤去された。東照宮の拝観札を売っていた女性にきいてみると、福島の方のある神社が引き取ったと言う。「広島・長崎の火」がこれからは、東北の地でともり続ける事を祈るのみである。例の注意書きはまだ残されている。
私―岩田の想念によれば、「広島・長崎の火」は、本来、明治神宮の参道の傍辺にともりつづけるべきなのだ。近代日本=明治国家の成功と失敗の偉大な歴史における最終最大悲劇を象徴する火、一日本常民が採火したこの火は、広島や長崎における欧風の、市民主義流の行事とは別に、大やまとの神社のどこかにともりつづけるのがふさわしい。とすれば、明治天皇を祀る明治神宮がもっとも適した地だ。残念ながら、明治神宮の神職達の中に、長崎の一常民がこの火に込めたアメリカ・WASP文明の非道への恨みを、それを超越した世界平和への願いを心に共振させる神鈴を有する者がいなかった。東照宮には嵯峨敞全宮司がおられた。言うなれば、本来、天皇家ゆかりの神宮が行うべき務めを征夷大将軍家ゆかりの東照宮がかわって果たしていたことになる。それなのに、去年のある日、東照宮はこの歴史的名誉を手放してしまった。
上野東照宮の一角に、もう一つ新しい石碑がある。それは、平成7年4月に建立された「松崎鉄之介句碑」である。「富貴には遠し年々牡丹見る 鉄之介」とある。1990年・平成2年建立のモニュメントは消え、平成7年のそれは残る。両碑の運命の差を説明できる本質論はありやなしや。卑小な世俗論はあるかも知れない。「ひだりっぽくみられるの、いやだ。」との空気読み?東照宮は、重を捨て軽を取り、大を放ち小を残した。
令和3年正月13日
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