「学の体系の第一部であった『精神現象学』は、本来、『意識の経験の学』であったこと、そして、第二部として、論理学を考えていたのだとしたなら、現象学と論理学の区分をどの様に構想していたのかと言う事です。」
*『大論理学』の第一版の序文に『精神現象学』との 関連が書かれていますので、ぜひお読みください。因みに、この第一版本の翻訳には『大論理学』(寺沢恒信訳 以文社)があります。岩波版は第二版です。
「エンチクロペディーも大論理学も同じ問題点を年を重ねて円熟していったのみであり、同じ問題意識を見つめていたのであり、論理学も現象学も同じものとして考えていたのかなとか予感しています。」
*問題点が重なるところはあります。特に『エンチクロペディー』の中の「小論理学」と言われている個所は『大論理学』と同じ問題を取り扱っています。しかし、それ以外の「自然哲学」「精神哲学」は内容的には『論理学』と区別されています。『エンチ』はヘーゲルの体系全体(うまくいっているかどうかは別問題ですが)であり、「論理学」はその一部です。
「現象学は、ハイデガーの先生であるフッサールへと受け継がれていき、論理学は、主に、ウィトゲンシュタインの哲学として今日、追及されているのでしょうか? 」
*フッサールの現象学は、ヘーゲルの直接的な継承ではないと思います。その点は、かつて、廣松渉が論じていますのでそちらをお読みください。ハイデガーには、確かにヘーゲルを論じたものがいくつかありますが、同じ系譜だとは思えません。ウィトゲンシュタインでは、ヘーゲルに言及している個所は無かったのではないでしょうか。彼のお師匠さんのバートランド・ラッセルは、一時ヘーゲル哲学をやっていましたが、そこから離別しています。
「ヘーゲルからハイデガーは、思弁哲学としての系列であるとして、先生フッサールにも「理性批判」が足りないとも言われていたとかどこかに書いてありました。
更に、ハイデガー自身への素朴な疑問としては、書き出されなかった『存在と時間』の後半の問題です。
哲学史的問題意識として、近代哲学から古代哲学、アリストテレス、プラトンへと逆にさかのぼって語るように予定されていたハイデガーの現存在分析の着地点としての「体系」があるのだとしたならそれはどの様な完成と「体系」であったのかと言う事と更に、断念したのかです。
現存在分析から開始された『存在と時間』(前半)が、存在への転回の問題が、起こったのは何によるものであるのか?
その全体像についてです。
これは、最初の問いなのか結論としての問いに属するのかと言う事もありそうです。
誰か、答えられている著作があるのでしょうか? 」
*一応、網羅的には廣松渉著作集(岩波書店版、全16巻)が触れています。特に、『世界の共同主観的存在構造』でもお読みください。ここでは、概略的にでもこの問題を論じることは困難ですので、そちらにおあたり下さい。