創刊号は表の面に社説に当たるむのの主張「ダルマさん、足を出せ」と農業時評「農村の景気は下り坂へ」。石坂洋次郎の「東北の人々へ」と題する餞の評論もあった。裏面は、「村長闇討ち事件」という地方記事や秋田県南の青年会の活動レポートなど。むのは主張の中で「(立ち遅れている)東北の暗闇を切り開く松明となって進みたい」と呼びかけた。当初は『たいまつ』は地元では見向きもされず、悲観したむのは発作的に自殺さえ思ったという。が、駅の売店での販売が当たり、県外から注文が増え、じきに経営難から脱却する。半年で発行部数の二千部があらかた売れ、東京や東北一円に読者層が拡大していく。
日本民族は戦争で大きなしくじりをした。その大きな不幸から立ち直る鍵は農業と教育にある、とむのは考えた。『たいまつ』では、農の問題と教育の問題を読者と共に考えていくことを主論とした。むのは講演でこう説いた。
――農地改革が行われたのに、農民は何もしない。小地主になった農民は農協などの組合員にはなったが、ただそれだけで満足。闘う姿勢をなくしてしまった。彼は紙面でも闘う姿勢を鼓舞していく。「たいまつ」を仲介に、多くの文学者、農民運動家、農民が結び付いて、新しい農村が形成されていった。
むのは「三里塚闘争」(成田国際空港反対運動)に共感し、「秋田県三里塚委員会」を組織。三里塚の外から精神的な支援をしていく。『たいまつ』711号(1971年2月20日)はこう綴る。「(農民の闘いの)成り行きを知るにつれ、尊敬を強めた」。むのは現地に出かけ、「地下要塞」を見学し、活動家の青年たちと交流。三里塚通いを重ねた。前記記事は記す。「三里塚農民の魂に固く自分を結合し、真剣に学び合って前へ進みたいと思う」新聞『たいまつ』の題字の横に「炬火」という小欄がある。この小欄の短文から六〇四編を選んだ『詞集たいまつ――人間に関する断章604』が1967年、三省堂新書として刊行される。全五章立てで、「第一章 いきる」は「生きるとは、しょせん答えていくこと。創造とは、主体そのもの。内部から問いかけを抱えていないものは、そこに横たわっているに過ぎない」。そして、「人間は生きていく力を全く失ったら、自殺しない。自殺を考えるのは、生きる力がまだ十分に残っている証拠である。失意は発条(ばね)である」と綴る。三十三歳の折に発作的に鉄道自殺を思ったという彼の心情がリアルにうかがわれる。
『たいまつ』は七八〇号(1978年1月30日号)を以て突然休刊する。むのは心中では表現媒体を新聞『たいまつ』から書籍『詞集たいまつ』に移していた。後年の著述『希望は絶望のど真ん中に』(岩波新書、2011年)は「第三章 学ぶ」に、こう記す。「学ぶことをやめれば、人間であることをやめる。生きることは学ぶこと。学ぶことは育つことである。」「学ぶ営みは一人で始めて、一人へ戻っていく。始めた自分と、戻っていく自分との間に沢山の人が入れば入るほど、学んだものは高くなり深くなる」。なかなか含蓄が深い。
むのは平成三(1989)年度の日本ジャ-ナリスト会議(6月15日、日仏会館)で「ジャーナリストは死んだか」と題する講演をした。この年1月、米欧軍主体の多国籍軍は前年8月にクウェートを侵略したイラクに戦争を仕掛けている。彼は「この戦争に関する報道は政治権力によって完全に管理・統制されていた」と発言。自分たちが日本の軍部から報道を管理されていた先の世界大戦での苦い体験を重ねた。そして現在の日本のマスコミには当時の反省が生きていない。今回の実相報道は、米国と比べ扱いが非常に小さかった、と指摘。聴講しているジャーナリストたちを睨み付けた。
1990(平成2)年7月、イラク軍三万がクウェートの国境に集結。翌年1月に空爆が始まるまでの半年近く、中東に関する洪水のような情報が新聞紙上に氾濫する。が、それらは情報の薄皮に過ぎず、本当の処は3月に入り、『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』などが次々と報道し始める。日本のマスコミは、イラク政府・アメリカ政府によって濾過された情報を自前の取材活動によらず、米国の前記二紙がどう伝えたかと報道しているだけ。二重の意味で大本営発表を受け取っているのと同じ、と彼は批判した。
少なくとも昭和十年代の半ば頃までは「言論機関」と称していたものが、いつのまにか大本営「報道部」というものが出来、新聞社は自分たちを「報道機関」と言い換え始めた。その時に「批判・評論・主張・思想形成」という部分が弱まったのではないか。主張を失ったのではないか。彼は、今こそ、その失ったものを取り戻さねばならないと言う。
そのためには、次の二つが重要だ、と言う。一つは、自己点検、自己反省。即ち、その仕事に携わっている人たちの己の姿を、歴史の節目、節目で立ち止まって点検し、確認を積み重ねることだ。新聞は「部数の神話」に溺れてしまった。読者を増やすためには与党と野党を足して二で割ったような社説しか書けない。
もう一つは、民衆との距離が離れてしまったこと。何百万部も売れているから、大衆に支持されていると勘違いしてはいないか。その例として、昭和62年(1987)の朝日新聞襲撃事件を例に引く。むのは平成24年(2012)3月5日、朝日新聞襲撃事件の現場である神戸支局での朝日新聞入社直後の新人記者研修会の講師として招かれ、こう述べている。
――未だ犯人が捕まらない。もし、民衆が報道に携わっている人々を仲間として温かく抱き留めてくれていたなら、犯人は捕まっていた筈。証拠物件いっぱい残しているのに。
憲法改正が議論されるようになると、出番が増えた。朝日新聞の外岡秀俊編集委員(後に編集局長)は2011(平成23)年春、96歳のむのをインタビューし、こう記した。
――今も現役のジャーナリスト。1940年2月、むのさんは衆議院本会議の記者席で、民政党斎藤隆夫が政府と軍部を糾弾する演説を聞いた。歴史に残る「反軍演説」である。だが衆議院は斎藤を懲罰委員会にかけ、議会から除名した。(中略)「警鐘」だった筈の「反軍演説」は、政党政治への「弔鐘」となった。翌年、日本は太平洋戦争に突入する。
外岡は「最近ようやく、物事の本質が見えてくるようになった」という言辞も伝えた。むのから戦争の時代を直接に聞くことができるならと、他社の記者も殺到するようになる。彼は時代の生き証人として引く手あまたの人気になっていく。「東京新聞」の「こちら報道部」は「戦前・戦中の統制強化の歴史」という特集を組み、「戦争は人をケダモノにする・・・」という彼の証言で記事を構成。特報「秘密保護法案 むのさんに聞く」も掲載している。
むのは戦争時の証言者として脚光を浴び出す。集団的自衛権について、朝日新聞(2014年7月1日付)は彼のインタビュー記事(聞き手・木瀬公二)を掲載。むのは戦争を知らない世代に対し、こう呼びかけた。「戦後まもなく出来た保安隊(自衛隊の前身)は、(戦争放棄の建前上)戦車を「特車」と呼んだ。(その伝で)武器の事を「防衛装備」と言っても実態は変わらない。集団的自衛権だって、<アメリカと一緒に戦争をします>でしょ。戦争を放棄した日本が許される筈がない」
九十代後半で矍鑠とし、体制側に対してはっきり物申す姿は、後期高齢者時代の輝けるモデルと映る。全国各地から講演依頼が続いた。
2016(平成28)年5月3日、憲法記念日に護憲派の市民団体が都内の公園で憲法集会を開催。車椅子で参加したむのは大拍手で迎えられ、こう訴えた。「ここに御出席の七十歳以下の方々は、国内で戦争というものを体験していません。若い皆さんのために、三つの事を申し上げたい。先ず戦地に行けば、正常では居られず、気が狂ってくる。二つ目、戦争は始まったら、終わりません。国に逆らえば、国賊扱い。三つ目、戦後の新憲法のお陰で、七十年一人の戦死者も出さずに済んだ。国連の加盟国でも、戦争をしない九条のような憲法を持った国はない!」。会場の若者や女性たちから、盛んな拍手と歓声が沸いた。
翌日から、テレビの番組打ち合わせが数々あり、忙しかった。6日後、都内の病院での定期健診で即入院の指示。翌月やや元気を取り戻し、7月中旬に次男の家(埼玉)に帰宅する。8月21日、微笑みながら穏やかに息を引き取った。
▽筆者の一言 武野さんは遺著『日本で百年生きてきて』(2015年、朝日新書)に、こう記している。「ドイツは歴史に学ぶ能力を持っていたから、戦争犯罪すべてをドイツ国民みんなの責任として詫びた。日本は戦後処理を誤り、今なお近隣諸国との間に軋轢を続けている」。全く同感だ。本稿(67)(68)の『戦雲』で紹介したように、沖縄南西諸島では中国との不時の衝突に備える「戦時態勢」が着々と進行している。我が国の誇るべき「平和憲法」は一体全体、どうなってしまったのか。世界ではウクライナとガザで、悲惨な戦禍が一向に止む気配がなく、気持ちは晴ればれとはしない。
なお、本シリーズは今回で完結します。長い間ご愛読ありがとうございました。
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1301:240705〕