(1)
フランシス・フクヤマは1989年に「歴史の終わり」を発表して注目された。1989年にはベルリンの壁の崩壊(12月)があった。そしてソ連邦の崩壊(1988年から1991)があった。いわゆる戦後の冷戦構造の崩壊である。この「歴史の終わり」はベルリンの壁の崩壊やソ連邦の崩壊を予測してものでもあったのだが、この冷戦構造の崩壊を自由民主主義のイデオロギー(理念)の勝利として論拠づけた。これは戦後の社会主義と自由民主主義の対立を「歴史」(国家統治のイデオロギー闘争としてとらえる)の終わりとしたのである。マルクス主義的な歴史観では歴史は階級闘争の歴史であり、資本主義の終わりと社会主義への移行が1917年のロシア革命によってはじまったということが主張され、流布されていた。この歴史観はいわゆる階級史観としてあり、ヘーゲルーマルクスの歴史観(弁証法的な歴史観)といわれた。フクヤマはヘーゲルの弁証法を使いながら階級史観ではなく、政治的統治の歴史(国家史、政治史)にこれを適用していた。」世界の動きを政治的統治の歴史とみて。この弁証法的方法を使っていた。
だから、フクヤマには国家体制をめぐる人類史的な闘争論があり、その最終段階として共産主義(社会主義)と自由民主主義のイデオロギー闘争があり、自由民主主義(イデオロギー)の勝利は国家統治をめぐる「歴史」の終わりを意味するとした。つまり、国家統治をめぐる理念(イデオロギ―)闘争ではこれ以降には自由民主主義を超えるものは出てこないだろうから、今後のこの枠内での議論は続くにしても、その枠を超えるものは出てこないとしたのである。これは西欧的な政治観に依拠したものであることはいうまでもないことだが、近代西欧の思想制度を普遍的とする思想に依存していた。その意味で僕は違いを感じてはいたが、冷戦構造の崩壊に対する分析や論評としてはおもしろかった。
フクヤマのいうイデオロギー(理念)は体制の理念であり、体制とは国家統治の形態であり、統治構造のことである。なぜに、共産主義理念は崩壊したのか、あるいは自由民主主義に敗北したのかはいろいろの議論もあったし、フクヤマの議論はこの点では興味深いものだった。僕は共産主義の統治理念(政治理念)に問題があったこと、いわる「プロレタリア独裁による統治」に問題があったとみていた。これはスターリン主義の問題の認識と関わることだったが、マルクス主義がこの問題をきちんと扱えてこなかったことも認識していた。反資本主義的な経済(社会主義的経済)をどのように構築できたかという議論が中心にあり、統治権力(国家権力)の創出-形成―展開において社会主義権力はなんであったかの総括(反省、あるいは反省的対象化)が、新旧のマルクス主義ではなされなかったのである。これは今日のプーチンや習近平への対応(混乱的な対応)と関係している。僕はフクヤマのように近代西欧の思想制度を普遍的なものとみなしていなかったが、その対抗原理としてあった社会主義の自壊というか、敗北を目前にして、その総括をどうしたらいいか、悩んでいたことは確かだった。
冷戦構造崩壊を資本主義の自由民主主義の勝利とするのではなく、社会主義権力の敗北(自壊)として僕らは見ていたし、この敗北を資本主義や自由民主主義を変革していく、対抗原理の創出の課題という面から見ようとしていた。冷戦構造の崩壊の前から社会主義権力(ソ連や中国の権力)を僕は批判する立場に立っていた。だから、それを、本当の社会主義権力の創出の課題と考える基盤はあったし、そうしようと考えてきた。冷戦構造の崩壊とそれに続くソ連邦の崩壊から、すでに30年以上の歳月を経ているのだが、このフクヤマの予言というか、歴史への判断は実現したのだろうか。
2022年の2月にはロシアのウクライナ侵攻があり、想像もしていなかったロシアとアメリカの対立が出現した。また、中国のアメリカに対する対立も出現している。ロシアのプーチンも中国の習近平も西欧的な民主主義体制に対して、社会主義的体制というイデオロギー的な対置をしているわけではないが(彼らはロシア流の民主主義や中国流の民主主義を主張しているが)、フクヤマのいう民主主義体制(西欧的な民主主義体制)に対する挑戦はある。その対立であることは疑いない。これは1980年の後半から1990年代のはじめにフクヤマが見通していた事態とは違う事態の出現である。民主主義体制に対して敗北したはずの独裁的で専制的な体制(権威主義的体制)の復活と挑戦ともいえるからだ。僕はプーチンや習近平はイデオロギーとしては明確化しているとおもわないが、彼らはスターリンや毛沢東の後継者であり、共産主義(国家主義)の継承とみている。フクヤマはこれをどう見ているのか。ウクライナ戦争ではロシアの完敗を予測しているが、中国の動向をどう見ているのだろうか。
フクヤマはロシア(プーチン)や中国(習近平)の言動ということより、アメリカでのトランプ大統領の登場ということにその衝撃を受けたのであろうが、世界の動向の中で、彼の分析し、予測した「自由民主主義」の展開が生き詰まり
予想外の展開にあることをみているのではないのか。その事態に対する分析と解答が本書というわけだが、かつての冷戦とは違った新冷戦が訪れるかもしれない今、このフクヤマの書は非常に面白いし示唆に富む。
民主主義というのは自己統治としての国家統治のことである。自己というのは国民(地域住民や市民)が主体として国家を統治することであり、それが最初に現れたのはギリシャのポリスにおいてだった。それは近代においてヨーロッパで志向されたし、憲法制定権力はその具体的な現れだった。リベラリズムは
民主主義の理念にというか、背後の思想である。民主主義はプーチンも習近平も使うが、僕らがそれにある種の違和を感じるとすれば、民主主義の根底にある自由(リベラル)の欠如をそこに感じるからだ。かつてならブルジョワ民主主義とプロレタリア民主主義があるような議論もあったけれど、民主主義にブルジョワ民主主義とプロレタリア民主主義があるわけではない。民主主義は自己統治の概念であり、国家の構成員による自己統治としての国家統治という考えである。国家統治の歴史的な考えであり、それを人間の存在に関わる思想から根拠づけているものがここでいうリベラリズムである。
近代西欧で発生した民主主義(人類最初の民主主義は古代ギリシャの民主主義)は法の支配とか、支配権力の抑制(憲法理念)としてあるが、それを支えているのが、リベラリズムであり、近代市民思想といわれるものだ。フクヤマは古典的リベラリズムの再確認と擁護という形でこの本の展開をしているが、誰もが民主主義のことを口にするが、突き詰めていくと曖昧になってしまう状況のなかでは一つの考えだと思う。民主主義論としてネグリが構成的権力論としてそれを検討しているが、曖昧さを克服しえていない、と思う。
(2)
この本は10章にわたる編成でなっているが、その最初の章は「古典的リベラリズム」とは何かであり、その確認である。彼はそれをアメリカでの中道左派政治の思想(一般にリベラル派とよばれるもの)、あるいはリバタリアニズム(自由至上主義)、欧州で使われる意味でのリベラリズムではないが、それらを含む大きな傘のようなものが古典的リベラリズムだという。そして、平等な個人の権利、法、自由が大事だと考える点では一致していると語っている。ただ、近年、右派のポピュリスト(アメリカのトランプなど)だけでなく、左派(アメリカも民主党のサンダースなど)の挑戦も受けている、という。リベラリズムが社会主義(共産主義)の対抗概念であった時代には見えなかったリベラリズムの多様性が、社会主義の後退後には露呈しているのが現在ということだろうと思う。僕は
冷戦構造の崩壊をフクヤマのいうように自由民主体制の勝利というようには分析しなかった。社会主義の体制が崩壊したのは自由民主体制との対抗で敗れたというよりは、自壊したのである。、だから、今後は自由民主体制の理念が現実との間の関係を試されるだろうと思った。自由民主体制がその理連と現実の関係が問われるのである。その関係、関係的な矛盾が共産主義との対抗関係中で隠されていた矛盾が表面化するというように。自由民主主義という体制、統治形態の中で、国家権力と構成員の関係、個人の権利と制度との関係などが問われるのである、と見ていた。フクヤマがこの本で扱っているのは自由民主体制が対抗関係を失ったときに直面する理念と現実の矛盾であり、統治体制と個人の関係の矛盾などであり、それは興味深いが、彼には自由や民主主義が体制的にあるときに、現実と理念の矛盾があることには着目していなかったようにも思う。自由や民主主義をブルジョワ民主主義として批判するものとはべつに、体制的理念としての自由や民主主義を現実と理念に関係から批判する動きもあったし、そこはフクヤマにはなかったのだが、そこから出てくる矛盾にフクヤマが目を向けざるをえなくなっているのはこの本の特徴だし、そこは当然のことといえる・
一つとして新自由主義の問題がある。新自由主義は経済過程への国家の介入を小さくするということであり、小さな政府ということであるが、これは経済的自由主義であり、現実には格差拡大と新たな貧窮を生みだした。これは社会的福祉の削減をして、保護ネットの必要性を不可避にしているが、この背後で僕は新自由主義が経済過程への国家介入を避け、そこでは小さな政府が強調されながら、国家の軍事面では国家強化が図られるということだったこともみている。軍事面でこそ小さな政府が望ましいのだが、そこは逆だった。この新自由主義は国家関係において、自由と民主主義の統治形態の押しつけということもあり、国家関係が力と支配の関係から少しも開放されていない面がみえた。ブッシュ大統領のイラク戦争はおけるふるまいはそれを示していた。アメリカの民主主義と戦争の関係をあらためて問うことを僕らに強いたといえるのだろうか。これは今回のウクライナ戦争でアメリカに対する人々の疑惑を生んでいる理由でもある。
自由民主主義体制を超えるものとしてあったのが社会主義という体制だった。これは資本主義批判と結びついていた。つまり反資本主義ということと、反自由民主主義ということは結びついていたのである。この社会主義体制というのは「プロレタリア独裁による統治」ということであったが、その統治形態や実態は明確にならなかった。スターリン主義という独裁的・専制的政治形態のことが明瞭になるだけだった。独裁的な政治体制ということは権威主義的な体制ということであるが、それならば自由民主主義体制とはなにか。
「リベラリズムは。しばしば<民主主義>という言葉に包含されるが、厳密に言えば、リベラリズムと民主主義は異なる原則と制度に結びついている。民主主義とは、国民による統治を意味し、今日では、普通選挙権を付与した上での定期的な自由で公正な複数政党の選挙として制度化されている。私が用いている意味でのリベラリズムとは、法の支配を意味する。法の支配とは、行政府の権力
を制限する公式なルールによる制度である、たとえ、行政府が選挙を通して民主的に正当化されたとしてもそれは制限される」。
これがフクヤマのいう「リベラルな民主主義である」が、僕はこれだけでは何かが不足しているように思える。僕は民主主義とは「権威による統治」ではなく「討議による統治」であると考えている。「討議による統治、のために議会があり、そのために選挙があり、政党政治がある。「討議による統治」とは国家の意思決定が構成員による「討議」で決められることであり、権威による統治とは権威(例えば天皇)の意思による決定である。天皇の統治(権)とはこういうことだった。多分、僕らは日本で民主主義があるか、どうかに考えるとき、討議による統治の不足を考える。不足というよりはそのような形の民主主義は不在というべきだ。選挙や政党政治が民主主義の制度であるというが、討議のよる統治
(討議を通しての国家意思の決定)が不在なら民主主義は空洞的なものであり、不在というほかない。国会(議会)は形態や制度として民主主義いわれるが、その根本には「討議による統治」があって制度として機能するのであって、それが不在なら民主主義の制度と言っても意味をなさないのだ。僕らが、今、政党政治や選挙に空洞性を感ずるとすれば、討議による統治ということ、それによって国家意思の決定の不透明さも含めた不在を見ている。討議に統治(国家意思はの決定)はどのような政治形態で実現するのかも含めて根本的な政治のあり方のビジョンを持たなければ、民主主義の議路は空しい。僕はフクヤマの提言にもそれを感じる。統治による統治の対極にあるのは政治的支配者や組織(官僚)の独裁的。独善的な国家意思(政策など)の決定である。例えば閣議決定という国家意思の決定には国民の意思は何処にも存在しているようにみえない。現在の政治制度では民主的な行為とみなされている。形式的な制度よりも、国民の意思が参画しているようには見えない。国民的意思が討議となって存在している様相が何処にも見えない。国民の意思の参加ということは、どのような形態であれ、討議という形が不可欠であり、結びついているのだ。国民の意思から隔絶された機関(官僚的機関や政党)の意思が国家意思として現れることは国民の討議の不在であり、それは機関の意思行使に討議が不在であることと結びついている。自由(リベラル)ということは国家の意思決定に参画でききる自由がることだが、それは討議する自由があり、それが根幹にあるのだ。誰が何処でどのように討議
して決定したのか見えない国家意思の決定という政治を対極にみればいい。
(3)
この本の中で強調されているのは個人の自律性と保護である。個人の尊厳と言ってもいい。ただ。左右のリベラリズムによってこの基本原理が極端に進められ原理自体が損なわれる事態をうみだしているという批判というか、フクヤマにはある。リベラリズムへの不満である。右派によって進められたネオリベラリズム(新自由主義)がその一つだとすれば、左派では自律とはアイデンティティの政治であり、これを進めると寛容というリベラリズの前提を損なわれるとする。このあたりの指摘は面白い。例えば、現在の動向の中で情報や科学(科学的合理性)の問題がでてくる。コロナ問題はその一つだった。そこで権威主義的な権力は情報や科学を無視するか、政治的に操作する。僕らはここであらためて、自由の重要さに気が付く。科学が合理的なものとして僕らに届き、合理的なものとして機能するとすれば、自由がなければならない。政治(権力)が介入すればそれは歪められるのである、情報についても同じである。この本の中ではリベラリズムに対する左右の批判を扱っている。左派(多くはマルクス主義から転向したリベラル派)の批判はそのアイデンティティを急進的に追求すると、自由の寛容さが損なわれるというのがフクヤマの見解だが、ここは面白いいがフクヤマのリベラリズムが体制的なものに陥っていると思える。僕は自由民主主義に対する対抗イデオロギーであった共産主義(社会主義)のイデオロギーが失墜したあと、民主主義のことに興味を持ったし、そこに注目してきた。それは主にフクヤマが左派の批判理論として指摘しているものだ。僕は彼が批判している左のリベラル派(批判理論)に注目してきたが、そこに共感も持ってきた。彼の分類によればフーコーやポスト・モダン派はこちらに入る。フクヤマは中道リベラル派とでもいうべき存在なのであるが、自由や民主主義を統治論として理解する視点さえあれば、多くのことが読み取れると思う。ただ、フクヤマには民主主義を統治論(統治権力論)として理解しているのかという点では疑問はあるのだが。
それは彼のリベラリズム論が体制論であることと関連している。
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