昨年2月に著書『資本主義の限界とオルタナティブ』(岩波書店)を公刊した。ここ10年ほどのあいだに執筆した論稿を集成して、5章と終章に構成している。ここではそれに加えた序章「資本主義の限界とオルタナティブ」を中心に、この著書をつうずる問題関心をまとめて述べておこう。
現代の世界と日本には、いくつかの社会経済的危機がおり重なって深化し、構造的に連鎖して、これからの社会の進路に重大な閉塞感をもたらしている。その根源になにがあるのか。とくに1980年代以降新自由主義が先進諸国の経済政策の基調とされて以来、ほぼ40年近くが経過するなかで、期待されていた合理的で効率的成長は実現されず、むしろ、人間と自然の再生産に困難を増し、社会の冨と所得の格差を拡大し、雇用と経済生活の不安定性を高め、新たな貧困問題を生じて、大多数の人びとに将来不安を与えつつ、長期不況的停滞を容易に脱しえないで推移している。
それらの多重危機の多くは、人間の労働能力を商品化して、それを資本が購入使用して産出する商品生産物と同様に市場でとりあつかう、資本主義の基本前提自身に内在する無理ないし矛盾に深く関連して生じているのではないか。その意味では、多重危機の根底には、自由、平等、人権を理念として発足した近代資本主義に内在する限界があらためて、現代的様相をともなって問い直されているところがある。
それゆえ、ここでとりあつかう新自由主義とそのもとで深化している社会経済危機のいくつかの側面、たとえば少子高齢社会化、サブプライム世界恐慌、格差再拡大とそれらをのりこえるベーシックインカムの構想や地域通貨の試みなどのオルタナティブの可能性についても、資本主義そのものの作動原理に内在する歴史性やその矛盾に深くかかわるところとして、解読されなければならないのではないか。
1 現代世界の多重危機
そうした観点から現代資本主義の危機を構成しているいくつかの側面を再考してみよう。
あらゆる歴史社会をつうじ、その構成員としての人びとの世代をこえた再生産を継続的に保持してゆくことは、経済生活の原則的基盤といえる。近代以降の資本主義の発展は、中世までの身分制支配のもとでの農村共同体に束縛された経済生活から、大多数の人びとを市場経済社会における人格的に自由で平等な働き手として解放していった。その過程で、近代的な自然科学、それにともなう衛生、医療の発達もうながされ、中世までの共同体的規制のもとに抑制されていた人口規模の増加が、加速され、人口増加が実現され継続する。
そのことが、20世紀末にいたるまで、労働生産性の上昇とあわせて、資本が利用可能な賃金動労者の「自然増」をもたらして、実質経済規模の成長を支え続けてきた。ところが、20世紀末以降、世界の多くの先進諸国でその流れが変わり、少子高齢化がすすみ人口減少が始まっている。日本ではその傾向がとくに顕著で、晩婚化やシングルスの増加から女性の生涯特殊出生率が1975年以降2以下に低下し、2005年までに1.26に大きく低落し、その後やや回復したものの2014年にも1.42にとどまっている。そのため、国連の基準でも超少子化国とみなされ、21世紀には人口規模の減少がすすんでいる。このままその傾向が継続すれば、日本の人口は22世紀末には江戸時代初期に逆戻りしかねない。
この人口減少は、中世までにときおり生じた疫病や戦争などの経済外的要因による人口減少と性質が異なる。資本主義のもとでの経済生活の自律的運動の内部に生じた変化であり、しかも経済生活の原則的基盤を自己破壊する意味をもっていないか。同時にそれは長期停滞を容易に脱しえない要因のひとつともなっている。それはまた共同体社会を解体し、個人主義的生活様式に分解することで成長してきた資本主義の成功がもたらした自己破綻ともいえるのではないか(上掲著書第1章)。
他方、2007年にはじまり2008年のリーマン・ショックで世界化したサブプライム恐慌は、まさに証券市場をつうずる金融のグローバル化を推進してきたアメリカを震源地として、100年に一度といわれる大津波を世界経済にひきおこした。それは1980年代以降の新自由主義のもとで、市場原理主義が主張し続けてきた効率的で合理的経済秩序が、いかに達成されがたいものかをあらためて実感させている。それは資本主義に内在する自己破壊的な不安定性を現代的様相のもとに世界的規模で露呈するもうひとつの重大な危機の事例をなしている。そこには、労働力の商品化の無理が、住宅ローンなどの形態での労働力の金融化の進展を介し、現代的に露呈されている(同第2章)。サブプライム世界恐慌は、ユーロ圏の政治経済的危機を連鎖的にひきおこし、高成長を続けてきた中国にも不動産バブルのゆきづまりと成長の鈍化が目立つ。1990年代以降の日本の失われた20年にはじまる長期停滞はいまや先進諸国全体におよびつつあるようにみえる。
新自由主義のもとでの資本主義はまた、1980年代以降、富と所得の社会的格差を顕著に再拡大してきた。20世紀の資本主義は、2度の世界大戦とその間の大恐慌を経て、富としての資産を大きく毀損し、その後の高度成長期には労資協調的な社会民主主義的福祉政策による再配分効果もあって、資本主義の長い歴史のなかで、例外的に資産による不労所得の比率をひきさげて、経済格差を縮小する時代を経験していた。T・ピケティ(2014)は、主要諸国の長期的な富と所得の統計を集成して、その例外的な時代が反転し、1980年代以降に富と所得の富裕層への集中にともなう経済格差再拡大へのU字型カーブが検出されることを示し、世界に大きな衝撃を与えた。
そのさい、ピケティは社会の中層部から上層部への資産としての富の集中がすすんでいることに注意をあつめている。しかし、新自由主義のもとでの経済格差の再拡大は、情報通信技術の高度化にともなう労働生産性の上昇にもかかわらず、高度成長期と異なり、その成果が労働者の実質賃金の向上に還元されず、くりかえされる経済危機と再編の過程をつうじ、資本主義企業の収益確保のために労賃コストを削減する「合理化」が競争的に追求され、不安的なとくに女性の非正規雇用を増大させて、実質賃金を抑制し、切り下げる作用をともなって進展していることが、見落とされてはならないであろう(同第5章)。
経済の長期停滞のもとでの就職や再就職の困難と、くりかえされるバブル崩壊の不安定性の増大のなかで、日本では非正規雇用が女性労働者の過半をこえ、全労働者中でも4割に近付いている。そこから、ワーキングプア、片親世帯の子供の貧困、非正規での所得確保のための過労死や過労自殺など一連の新たな貧困問題が増加し続けている。豊かになったはずの日本で、経済生活は平等化される傾向にない。かつでは格差の少なかった日本で、貧困層の比率が、1985年の12%から2012年までに16.1%に上昇し、世界4位の貧困率の高さとなり、ほぼ2000万人の人びとが貧困線以下での生活を余儀なくされている。
貧困率の増大がこれほど顕著でない他の先進諸国でも、非正規の増大をともなう働く人びとの所得の抑圧、停滞が、この新自由主義の時代の共通の特徴をなしていきた。その結果、消費需要の低迷が先進諸国の経済成長の回復を困難とし、産業的投資に吸収・利用されにくい過剰資金が、不安定な内外の投機的資産バブルに振り向けられやすく、しばしば経済回復は、内外のバブル膨張に依存しがちとなり、バブルの崩壊がまた経済危機をくりかえし深化させる不安定な悪循環が形成されている。
現代資本主義のこうしたおり重なった多重危機の連鎖のなかで、市民革命以降の近代社会が理念としてめざした、自由、平等、人権の経済生活における実現の方向からはあきらかに大きくそれて、人間社会の原則的基礎をなす内的自然としての人間の再生産自体をも困難とするとともに、外的自然を荒廃させ損なうエコロジカルな危機をも深化させている。その顕著な一例は地球温暖化をもたらす温室効果ガス削減をめぐる国際協力の難航に示されている。
2011年3月の東日本大震災の過程で生じた東京電力福島第1原子力発電所の過酷事故は、世界に衝撃を与え、これを機にドイツ、イタリア、スウェーデン、ベルギー、オーストリア、オーストラリアなどの諸国では、国民投票なども経て民衆の要望に応え、脱原発路線を決定している。しかし、その震源地の日本では、多くの民衆の脱原発への願いや社会的連帯運動が国政に活かされず、とくに2012年12月の総選挙で政権に復帰した自民党の安倍内閣の下で、原子力発電所のプラント輸出、国内原発再稼動が推進されている。その背後には、アベノミクスの金融、財政、産業政策の各分野にわたる3本の矢の経済効果に内外からの疑問が高まるなかで、平和憲法を改訂して軍事産業、兵器輸出に期待をかけ、原発技術もそれに転用する潜在的可能性を重視しているところはないか。脱原発に進路をとった諸国にくらべ、日本ではあきらかに地産地消型の風力、太陽光、水力などによるソフトエネルギー開発の進展に大幅な遅れをとっている。そのことは、地域社会の再活性化にもマイナスの影響が大きい。
こうした資本主義世界の中枢部に生じている経済生活の多重危機の深刻さは、その総体を根本からのりこえるオルタナティブとしての代替戦略を切実に要請するところとなっている。ところが20世紀に資本主義にたいする明確な代替路線を形成しつつあるかにみえたソ連型社会主義が、東欧革命(1989)とソ連解体(1991)により崩壊し、1978年以降の中国も改革開放政策を推進して資本主義のグローバリゼーションに障害とならなくなって、社会主義を資本主義にかわる選択可能な理念や社会経済の体制とは、容易にみなしがたくなっている。それにともない、資本主義に対峙していた社会主義の思想と運動にも信認の危機が深い。現代世界の歴史の閉塞感は、資本主義の多重危機が社会主義の好機に転化されえずに、むしろ資本主義と社会主義とにわたる双対的危機が深まっていることにも起因するところが大きい。資本主義世界の多重危機をのりこえる歴史の進路をめぐるオルタナティブの再構想は可能か否かが問い直されている。
2 新自由主義と資本主義の限界
1980年代以降の資本主義主要諸国の政策基調は、新自由主義に転換した。その原因はなにか。D・コッツやD・ハーヴェイは、ケインズ主義からの政策思想の変化を重視しがちである。しかし、むしろ高度成長期の資本蓄積がもたらした1970年代初頭のインフレ恐慌の打撃とその後の資本主義の再生過程におけるIT合理化の過程が、新自由主義的な規制緩和、民営化、雇用形態の多様化を基軸とする政策転換を、経済的土台の側から促進し、支えてきたことが軽視されてはならないのではないか。
実際、1973-5年に生じたインフレの悪性化をともなう経済危機は、ケインズ主義的財政・金融政策の不適切な誤用にのみ帰せられてよいとはいえない。むしろ中枢資本主義諸国における戦後の高度成長の継続を可能としていた世界市場での一次産品と先進諸国内での労働力の供給余力が、持続的高成長をつうじてかなり使いつくされて、過剰な資本蓄積にともなう労賃の上昇と一次産品価格の上昇をまねき、利潤を圧縮した危機がその根本に生じていた。そのため、ブレトンウッズ国際通貨体制の崩壊過程での通貨・信用の膨張が、この時期にはインフレの高進を容易に促進し、ことに一次産品や半製品の投機的在庫形成も促して、経済活動に破壊的打撃をおよぼしていった。そこには資本が生産して供給しえない労働力を商品化して、成立し発展する資本主義の基本前提に内在する矛盾の現代的発現がみられた。
その結果、その経済危機にたいする資本主義的再建の試みの基本線は、IT合理化をつうじて、安価で弾力的調整の容易な各種の非正規雇用を増加しつつ、グローバルな資本の移転を容易として、安価なアジア諸国など途上諸国の労働力を大規模に利用する方向を強め、国内的にも国際的にも利用可能な産業予備軍の再形成をすすめ、労働者への所得分配のシェアを圧縮する傾向を、強力に推進してきた。そのために、ワーキングプアなどの新たな貧困問題が拡大されつつ、格差も再拡大され、少子化も促されるとともに、資本の蓄積にとっても消費需要の停滞と投機的資産バブルに景気回復を依存する不安定で不況基調を脱しがたい困難をもたらすことにもなっている。それは需給の調整の容易でない労働力商品化の無理の不況局面での作用を現代的様相のもとに示すところでもある。
それにともない、高度成長期を特徴づけていた高生産性―高賃金の労資協調的なフォード的蓄積体制は解体されて、富と所得の格差が再拡大されてきた。その傾向は、国家の新自由主義的な民営化の推進、教育、医療の自己負担増をともなう経済政策によっても助長されている。たとえば、卒業までに大学に納付すべき授業料などの負担は、2015年の日本の平均で私学の理系で495万円、医歯系で2141万円余にのぼり、教育の機会均等は実質上大きく阻害されている。ハーヴァード大学の学生の両親の平均所得はアメリカのトップ2%の富裕層にかたよっている(ピケティ、2014、邦訳505ページ)。競争的で自由な市場の原理を尊重する新自由主義が、教育の分野で適用されると、特別の教育・技能・資格を求められる医師やその他の社会のトップエリートを、むしろ世襲的に家族的に再生産する非流動的社会のしくみに転嫁しつつある逆説を示すところである。
日本では、1985年には42.3%であった法人税の基本税率が2016年にかけて23.4%に8度にわたり引き下げられている。累進所得税の最高税率も、1983年までの75%から、1999年以降の37%へ4度にわたり大幅に軽減されている。その後2015年にかけて、その最高税率は45%にややひきもどされたが、その水準はまだ83年までには遠くおよばない。2007年の所得税負担率は、所得1-2億円の納税者がピーク(26.5%)で、それを超える富裕層の負担率は逆に低下し、所得100億円以上では14.2%にとどめられている。相続税の最高税率も2003年に、70%から50%に引き下げられている。これと対極的に、日本では大衆課税として貧困層ほど負担率が高い消費税が1989年に3%で導入され、1997年に5%へ、2014年に8%へと引き上げられ、さらに10%への増税が企図されている。
しかも日本でもアメリカでも、巨大バブル崩壊にともなう金融危機にさいしては、労働力の金融化にともない所得に比して大規模な住宅金融を売り込まれて、住宅市場の崩落から大幅な損失をこうむり、支払い不能や元利払いの困難をみている大衆には市場での自由な取引の自己責任を強調して、救済措置をあまり講ずることなく、それとは逆に、金融機関や金融資産には、巨額の救済資金を国家と中央銀行とが協力して投入し、あるいは融資する救済措置を実施している。それは、ブレントンウッズ国際通貨体制の金本位に近い対外支払い準備の制約から、解放された変動相場制のもとでの中央銀行の通貨・金融供給の弾力化を、ケインズが想定していたような雇用政策に活用する政策方針とは異なっている。むしろ巨大金融資本、それに深い利害関係を有する資本主義企業、富裕層のために、弾力化された通貨・金融システムを救済資金の供与のために動員する施策となっている。
こうした経済政策の現実的内容は、新自由主義の理念としてきた、競争的で自由な市場に経済生活の秩序をゆだね、政府の公的再配分や調整機能は、不効率で非合理的で極力排除すべきであるとする主張とあきらかに首尾一貫していない、不平等で社会的公正性を疑われる政策をなし、「われわれは99%だ」という、社会運動をアメリカから世界に誘発してゆく結果も生じている。
3 21世紀型オルタナティブの模索
新自由主義のもとで生じている資本主義の多重危機は、社会的規制から解放された資本主義の本来的な矛盾の現代的発現であり、資本主義市場経済の内的限界が総括的に問われているとみてよいのではなかろうか。とくに、従来、資本主義の世界史的発展を推進してきた先進諸国に、こうした閉塞感が深まっている。
それを反映し、非マルクス学派のなかからも水野和夫(2014)や中谷巌(2012)のように、資本主義の終焉とその後の経済社会への転換を求める提唱がおこなわれ、注目を集めるようになっている。水野によれば、超低金利で金利ゼロが続いているのはフロンティアを失った資本主義の利潤率がゼロとなっていることであり、成長がとまれば資本主義は終焉するはずである。しかし、その分析は利子率と利潤率は同等であるはずであり、成長しない資本主義は存立しえないという理論的発想に依拠しすぎていないか。古典派経済学からマルクス経済学にいたる理論構成では利子率と利潤率とは決定原理がことなり、両者は一致するとは限らない。単純再生産でも剰余価値を利潤とする資本主義も想定できる。現に、長引く超低金利の時期に、現実に日本の資本主義企業はむしろそれを一助として利潤を回復し、配当を続け300兆円を超す内部留保も積み重ねている。そのことが定常状態に近い実質国民所得のなかで、いかに働く多くの人びとへの犠牲と搾取の強化をともなうことになっているかを検討し、それをいかに変革してゆけるかが問われなければならない。
中谷の重視するように、里山の荒廃や孤独死する下流老人の増大をもたらす資本主義のしくみにたしかに転換が問われているのであるが、それはたんに過剰な交換の思想から、日本社会に伝統的に存在していた「贈与」の精神へ、文明の転換を求めるのでは十分ではない。ポラニー的にいえば、互酬や再配分のしくみを、市場交換の統御や代替的計画とくみあわせて、中谷も高く評価している北欧型社会民主主義の構想をめざすのか、さらに広い視野で資本主義をこえるオルタナティブを構想するのか。文明の転換を可能とする社会経済秩序の変革路線が示されなければならならない。
これにたいし、最近訳書があいついで出版されたD・ハーヴェイ『資本主義の終焉』(2014)やE・ホブスボーム『いかに世界を変革するか』(2010)は、昨年のロシア革命100周年と『資本論』150周年、今年のマルクス生誕200年にあたり、あらためてマルクスにたちもどり、資本主義の閉塞状況とそれをこえる社会への変革路線を学問的に考えるうえで、はるかに参照に値する貢献を示している。ハーヴェイの指摘する資本の運動のもたらす17の諸矛盾は、多くのものが労働力の商品化の矛盾に深く関わって、現代的に深刻な諸問題を生じ続けていると読み直すことも可能であろう。そこから生ずる世界的な反資本主義の革命的人間主義にもとづく諸運動の成長と連帯に期待する論調にも共感できる。他方、ホブスボームも、資本主義がその墓堀人を生みだすことはマルクスにより示されているが、墓は人間が掘らなければならないとし、マルクス没後100年の1983年ころから新自由主義のもとで、とくに先進諸国の労働運動とマルクス主義の運動が「後退期」に入ったことを憂えつつ、2008年の経済危機を契機にそれが反転することに期待している。これらの両者も、私の著書も、水野、中谷の論調とくらべると、むしろ資本主義の終焉が実は容易でない課題であり、それを実現するには社会諸運動の成長と連帯が不可欠であるとみている。
そのためにも、資本主義の限界をこえる20世紀型のオルタナティブを最も強力に提示していた、マルクスの理論と思想にもとづき実現されたはずのソ連型計画経済としての社会主義のモデルの批判的再考がさらに求められなければならないのではないか。
ソ連型社会では、資本主義の基本前提をなしている土地やその他の主要生産手段の私的所有を廃止し、国有化して、無政府的商品経済の支配を脱し、全面的な計画経済により生産、分配、消費を社会主義的に組織し、無階級社会を実現し、建設を進める試みがおこなわれていた。1930年代に資本主義世界が大恐慌のなかで大量失業の社会的危機を経験しているなかでも、ソ連社会は順調に5か年計画を達成し、工業建設に雇用を拡大し続けて、解雇・失業の脅威を取り除き、公的サービスを子育て、教育、医療、年金、住宅、交通などの分野に拡充し、女性の社会参加を促進し、平等で安心感のある労働者国家を建設しつつあるようにみえた。実際そのような社会主義的内実がその後もソ連型社会にはある程度充実してゆき、その威信と影響を資本主義世界にも広げていった。第2次大戦の終結過程で、ソ連軍が進駐した東欧諸国、北朝鮮などにもその体制は移入され、戦後の民族独立運動の高揚を経て、中国その他の途上諸国にも社会主義圏に加わる諸国が増し、その規模は世界人口のほぼ35%にまで達していた。
しかし、冷戦構造のもとで資本主義圏と対抗する社会主義圏の先進モデルとみなされていたソ連型社会では、マルクスとエンゲルスが社会主義への革命後、国家は階級支配の権力機構としての役割を終えて、死滅してゆくものと想定していた理念に反して、むしろ逆に強大化していった。すなわち、帝政ロシアの過酷な弾圧に耐えて前衛党としてレーニンの指導していたボルシェヴィキ党の民主集中制による鉄の規律が、ソ連共産党に継承され続け、その軍事組織に似た党の規律が、現実に革命後の内乱や資本主義諸国からの派兵による軍事的干渉への対応、さらにはスターリン体制のもとでの過酷な粛清や個人崇拝の強化、ナチスドイツとのきびしい第2次大戦での大祖国防衛戦争、あるいは戦後の冷戦下における核戦略をふくむ強大な反共軍事同盟への対峙の必要などにともなって、党と国家の官僚層と政治指導部に強大な権限を集中し続けることとなっていた。それとともに、全面的な集権的計画経済のしくみにも、大規模な国有諸企業や公的諸サービスの管理にも、膨大な党と国家の官僚層が、強大な権限をもつ国家機構として維持される必要があって、その民主化は不可能ではないにせよ、現実には容易でない状況にあった。
そのような党と国家の官僚層や政治・軍事的支配層を形成するエリート集団は、特権的職務分担(ノーメンクラツーラ)についているソ連共産党員の4%にあたる75万人とその家族約300万人(総人口2億6000万人中の1.2%弱)が、「赤い貴族」といわれるノーメンクラツーラ階級を形成しているとみなされ、特権的な教育、就職、昇任のしくみにしたがい、しだいに家族的にその集団が固定的に再生産されるようになっていった。そこで、ソ連型社会にも、マルクスの唯物史観での想定に反して、新たな階級社会が成立しているのではないか、とスウィージー(1980)は批判的に論評していた。
その理論的当否はおくとしても、ソ連型社会も、労働者が社会の真の主人公となって、社会生活の運営や歴史の進路を決定しうるような無階級の自由、平等の実現を十分実現していたとはいえない側面があったことはあきらかであった。働く大多数の人びとからみれば、ソ連型社会でも「われわれは99%だ」ともいえる、疎外され、非民主的に管理される立場をなお脱しえていなかったわけである。労働者の多くにそのような疎外関係をおよぼすソ連型社会は、国家主義的工業化の過程でまた、バイカル湖の深刻な汚染やチェルノブイリ原発事故に示されるように、自然資源や自然環境にも社会的配慮を十分におよぼしえない重大な欠陥を内包していた。
こうした問題点を内包しつつ、ソ連型集権的計画経済が機能し続けるためには、無政府的な資本主義経済の場合とは異なり、各国有企業の管理者、中間管理者、労働者たちが、中央当局の国家主義的計画にもとづくそれぞれの職場の作業の達成目標(ノルマ)実現に協力することが欠かせない。そのモチベーションの維持は、異端派を排除する政治警察組織の圧力のみならず、資本主義をこえる新たな社会主義国家建設、その祖国大防衛戦争、さらにはその後の生活水準の向上への国家的理念とそれらへの期待にも支えられていた。
そこに示されていた20世紀型社会主義を代表するソ連型モデルは、マルクスやエンゲルスが想定していた進路とは異なるものの、あきらかに強固な国家主義により、それなりに労働者の雇用の安定と生活の向上、平等主義的な教育、医療、年金のしくみの公的拡充を実現してゆこうとする計画経済のしくみをめざし、あるていどそれに成功しつつあるように思われていた。そのことは、社会主義圏に対峙し対抗していた資本主義世界にも強い影響を与えていた。アメリカの大恐慌以降のニューディール型のケインズ主義に裏付けられた雇用政策、ソ連に近接する北欧から広がった福祉国家への歩みは、戦後の高度成長期に支配的となった20世紀型社会民主主義の労資協調的モデルを示すところとなっていた。そこでも、社会主義と対抗しつつ、社会主義のめざす労働者の雇用と福祉の安定と向上への理念をいわば折衷的に取り込んだ、資本による私的利潤の追求運動への社会的統御と社会的剰余の再配分機能に国家が責任をもって取り組むことが強く期待されていた。
ところが、すでにみたように高度成長期の先進諸国における資本主義の自律的発展が、その内部に内在する労働力の商品化の無理を露呈しつつ、1970年代初頭に深刻な危機と再編にむかうなかで、ケインズ主義の威信が失われ、1980年代に新自由主義が支配的政策基調になる時期に、ソ連型社会主義もそれまでの工業化に動員可能であった労働力と自然資源の余裕を失い、(その意味で1970年代初頭に資本主義先進諸国に生じた経済危機と双対的困難をいくらか遅れて、異なる様相で露呈しつつ)成長の「摩滅」を生じ、それにともない計画経済の破綻をコルナイ(1984)のいう「不足の経済」の形で多層的に深化してゆきづまり、その結果、労働者によるその体制への支持も失われてゆき、1989年の東欧革命と1991年のソ連解体とが生じたのであった。その経緯のなかで、資本主義世界には、自由で競争的な市場原理に信頼をよせる新自由主義の発想が、いっそう強化される。
そこには、20世紀の社会主義と社会民主主義とに共有されていた強固な国家主義、それに付随する国家官僚への強い権限の集中にたいする民衆の反発も味方とする発想もふくまれていた。情報技術の高度化にともないグローバルな活力を増した金融と産業にわたる多国籍企業化の流れも、国家による資本の活動の制御を緩和し弱める傾向を強力にうながしていた。
そこから、新自由主義的資本主義とそこに露呈している資本主義そのものの内在的限界とをのりこえてゆくべき、21世紀型のオルタナティブが、すくなくともつぎのような三重の次元とその相互関連において問われつつある。
第1に、ハートとネグリ(2000)が指摘しているように、グローバル化された現代資本主義の「帝国」内の、周辺的貧困な地域や社会層から、流動的なマルチテュード(群衆)の反グローバリズム、反資本主義の反乱とそれへの連帯運動も後を絶たない。アメリカを中心とする国際軍事秩序により、武力でテロ対策としてこれを鎮圧しようとする現代の帝国主義的方針は、その根本解決となりえていない。むしろ世界的規模での新たな経済格差、貧困問題にいかに取り組むべきかが重要な基本問題をなしているといえよう。新自由主義はここでもあきらかに有効な回答とはなりえないであろう。
第2に、新自由主義のもとで主要諸国をつうじ、資産と所得にわたる経済格差が顕著に再拡大し、その是正が求められている。それを長期統計によって明示したピケティ(2014)の与えた衝撃に応えるかのように、2015年以降、ギリシャでのA・ツィプラスのひきいる急進左派連合、イギリスでの労働党の従来の中道路線に決別して党首に就任したJ・コービン、スペインのP・イグレシアスの指導する新党ポデモス(われわれはできるという意味)、アメリカ民主党大統領候補B・サンダースらが、若者世代をはじめ多くの支持を集めて、ともに新自由主義に反対し、社会民主主義的な雇用政策や公的サービス再拡充の政策をうちだし、世界の注目を集めている。コービンはピケティを顧問としてむかえており、サンダースは、みずからのめざす「政治革命」を(広義の)社会主義とも公然と認めている。実際、ソ連解体のショックも記憶から薄れ、もともと生まれる前の過去のことになっているミレニアム世代にとっては、社会主義はさしてマイナスイメージでないらしい。オバマ大統領が社会主義者とよばれ非難されたことも、逆に社会主義の魅力を増しているともいわれる。たとえば、コッツ(2015)のあげているピュー・センターの世論調査では、2010年5月のアメリカで、「社会主義」に肯定的に応えた比率が29%、女性では33%、18歳から29歳の若者世代では43%に達し、翌11年12月の調査では、この若者層の社会主義支持率は46%にのぼっている。それがサンダース「政治革命」旋風やコービン登場の重要な背景をなしているとみてよい。
こうした広義の社会主義ないし社会民主主義的の国家的レベルでの再生への戦略路線には、すでに2009年の米日民主党政権によって試みられていたような、グリーン・リカバリー戦略やこども手当のような(所得調査なしの)ベーシックインカム構想の端緒ともみなせる発想が、21世紀型の社会主義にも継承されてゆくべきオルタナティブとして組み込まれる公算は高い。それとともにニュー・ニューディールといわれたオバマ政権にむしろ欠落していた、ニューディール期の労働組合の組織拡大への政策的配慮が、あらためて望まれるところとなろう。
第3に、国家主義的であった20世紀型の社会主義や社会民主主義では、あまりその可能性が注目されていたとはいえない、分権的な地域社会の相互扶助的連帯経済のしくみの助成や促進が、21世紀型の広義の社会主義では重要な意義と役割を果たすこととなろう。それは国家に中央集中的に集められていた社会経済生活上のさまざまな決定権や実際上の行政的権限を弱め、広範な社会のグラスルーツの経済民主主義を強化してゆくうえでも、いまや家族にも国家にも完全には頼れなくなっている、子育てや高齢者のケアのしくみを社会的に整え再形成してゆくうえでも、必要なところである。たとえば、各地域社会内の相互扶助活動を促進し媒介する地域通貨のしくみの拡大、促進、労働者協同組合事業などの地域社会に根ざした社会的連帯経済への取り組みと、地方自治体のその促進への取り組みは、脱原発によるソフトエネルギーの地産地消的循環構造やそれを一環とする地域の自然環境の維持と相互利用のためにも役立つにちがいない(本書第4章)。
たとえば社会構成員全員につき8万円のベーシックインカムを無条件で保証するといったしくみは、たんに欠陥の多い現在の社会保障を補整するものとしてのみではなく、こうした多様な地域社会の相互扶助的社会的連帯経済を容易としてゆく基盤としても魅力を増している。それは、子育て、教育、医療、年金などの公的サービスの再拡充とあわせ、21世紀モデルでの社会民主主義とそれをステップとする社会主義へのオルタナティブの興味ある可能性のひとつといえるのではなかろうか(本書第3章)。
現代資本主義の直面する多重危機の連鎖をのりこえてゆく道も、こうした構想をふくめ21世紀型の社会民主主義と社会主義の新たな可能性の模索をつうじて、理論的にも現実的にもきりひらかれてゆくものと期待している。そのさい、『ゴータ綱領批判』(1875)で、マルクスが述べていた共産主義の第1段階としての狭義の社会主義では「労働に応じた分配」がおこなわれ、協同的富の源泉が豊かになった共産主義の高次段階で「各人は能力に応じて働き、必要に応じた分配」をうけるとしていた区分は、二重に再考を要する。①ベーシックインカムをふくめ必要に応じた配分は、社会民主主義でも社会主義でもいまや部分的には認められ、拡大される余地があるのではないか。②複雑労働もその教育・訓練費用を社会化するなら、1時間で単純労働の何倍かの強められた労働をおこなうとみなす必要はない。単純労働と同等な人間労働の異なる有用形態での支出として評価すべきであり、それによって経済民主主義の根本が社会的に確認されることになるのではないか。なお、この2点は鶴田満彦(2017)に適切で共感できる貢献と評されている。
文献:
伊藤誠(1990)『逆流する資本主義』東洋経済新報社。(『伊藤誠著作集』社会評論社、第4巻、2010年)。
伊藤誠(2017)『資本主義の限界とオルタナティブ』岩波書店。
ソウル宣言の会編(2015)『「社会的経済」って何?』社会評論社。
鶴田満彦(2017)「書評・伊藤誠著『資本主義の限界とオルタナティブ』」『政経研究』109.
中谷巌(2012)『資本主義以後の世界』徳間書店。
西部忠(2011)『資本主義はどこへ向かうのか』NHK出版。
古沢広祐(2016)「エコロジー危機と現代社会」唯物論研究協会編『文化が紡ぐ抵抗/抵抗が鍛える文化』大月書店。
水野和夫(2014)『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社新書。
Hardt, M. and Negri, A.(2000), Empire, Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, and London. 水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳『帝国』以文社、2003年。
Harvey, D. (2014), Seventeen Contradictions and the End of Capitalism, 大屋定晴・中村好孝・新井田智幸・色摩泰匡訳『資本主義の終焉』作品社、2017年。
Hobsbawm, E. (2010) How to Change the World, 水田洋監訳・伊藤誠・太田仁樹・中村勝巳・千葉伸明訳『いかに世界を変革するか』作品社、2017年。
Howord, M. C. and King, J. E.(2008), The Rise of Neoliberalism in Advanced Capitalist Economies, Palgrave Macmillan, Houndmills, Basingstoke and New York.
Kimber, C.(2015), After the Earthquake; Jeremy Corbyn, Labour and the Fight for Socialism. Socialist Workers Party, London.
Kotz, D. M.(2015), The Rise and Fall of Neoliberal Capitalism, Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, and London.
Marx, K. (1867,85,94), Das Kapital,,Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ, in:Mark-Engels Werke, Bd.23, 24, 25. Dietz Verlag, 1962, 63, 64. 岡崎次郎訳『資本論』(1)-(9),国民文庫,1972年。
Piketty, T.[2014], Capital in the Twenty-First Century, translated by A. Goldhammer, Harvard University Press, Cambridge, Massachusetts, and London.山形浩生・守岡桜・森本正史訳『21世紀の資本』みすず書房、2014年。
Sweezy, P. M.(1980), Post-Revolutionary Society, 伊藤誠訳『革命後の社会』社会評論社、1990年。
Voslensky, M. S.(1980), Nomenklatura, 佐久間穆・船戸満之訳『ノーメンクラツーラ』中央公論社、1981年。
*********************************
2018年1月27日(土) 世界資本主義フォーラムのご案内
- 主催 世界資本主義フォーラム
- 日時 2018年1月27日(土) 午後2時~5時30分
- 会場 立正大学品川(大崎)キャンパス 9号館951教室
〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16 TEL:03-3492-2681
大崎駅または五反田駅から徒歩7分
大崎警察署の脇の坂道を上がり、立正大学正門を通り過ぎると
9号館入り口があります。エレベーターで5階へ。
会場案内図http://www.ris.ac.jp/access/shinagawa/index.html
http://www.ris.ac.jp/introduction/outline_of_university/introduction/shinagawa_campus.html
- テーマ 資本主義の限界とオルタナティブ
――資本主義終焉論にふれて――
2008金融恐慌以降「資本主義の終焉」論が,マルクス経済学だけではなく、さまざまな立場から提起されています。例えば水野和夫氏(『資本主義の終焉と歴史の危機』 (集英社新書))、中谷厳氏(『資本主義以後の世界』)や最近ではハーベイ『資本主義の終焉――資本の17 の矛盾とグローバル経済の未来』、ホブスボーム「『いかに世界を変革するか』(2017作品社)。
伊藤誠先生の論考も、『資本主義の限界とオルタナティブ』(岩波書店2017.2 5,800円)として刊行されました。
「資本主義の限界」論は、古くはマルクスの「窮乏化法則」、レーニンの「帝国主義戦争の必然性」、ケインズの「失業(有効需要政策)」…、と資本主義の世界史的発展とともに移ってきましたが、今日の世界の「資本主義の限界」とは何か、どのような政治的経済的社会的矛盾となって発現するのか、マルクス経済学のこの問題についての貢献を軸に、論議したいと思います。
*報告要旨が「ちきゅう座」https://chikyuza.net/ に掲載されます。
- 報告 伊藤誠(東京大学名誉教授、マルクス経済学)
- コメンテーター 岩田昌征(千葉大学名誉教授、社会主義経済)
- 資料代 500円 どなたでも参加できます。
- 問合せ・連絡先
矢沢 yazawa@msg.biglobe.ne.jp 携帯090-6035-4686
***********************************
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study930:180107〕