はじめに
<今年は被爆六六年ですが、今は本当に平和とは言えません。「原発がいつか爆発するのでは……」と私はずっと心配してきました。においも形もないが、残留放射能がどんなにおそろしいものかしっかり知ってほしいと思います!
核兵器廃絶は口先だけの軽い運動ではありません。命にかかわること、いついかなるときに起こるかわからないことを自覚してほしいと思います。被爆国である日本だからこそ、「核施設のような原発はいらない!」と声をあげていくべきではないでしょうか>(「被爆66周年 8・6ヒロシマのつどい」への呼びかけより)
被爆六六年の二〇一一年の日本は、東京電力福島原発事故が起き、いまだに事故は収まらず、放射能を出し続ける中で、ヒロシマ・ナガサキの日を迎えた。
冒頭に記したのは、松葉杖で一本の足を支え、ヒロシマを語り続けた被爆者の沼田鈴子さんが、広島原爆の日に「今こそ脱原発を」と訴えるつもりで書いた、集会への参加を呼びかけるメッセージだ。しかし、原発事故のショックからか力尽きたかのように、直前に亡くなられた。享年八七歳。いわば、遺言のようなメッセージを私たちに残された。その意味を私たちは改めて問わなければならないだろう。被爆国である日本だからこそ「核の平和利用を」と原子力発電にまい進し、地震列島日本に五四基もの原発を林立させ、沼田さんが恐れていたように、ついに爆発事故を起こしてしまったこの事態を。沼田さんが指摘したように「被爆国である日本だからこそ原発はいらない」と言う被爆者の声がなぜ無視されてきて、倒立した論理の「被爆国だからこそ原発を」と言う推進の論理になってしまったことをいま改めて問うべきではないか。
沼田さんは福島原発事故でメルトダウン(炉心溶融)が起きたことを示すようなプルトニウムが敷地内の土壌から検出されたと報じられると、ショックのあまり眠れなくなり、入院し、そのまま帰らぬ人となってしまった。プルトニウムは長崎原爆の材料でもある(毎日新聞2011年8月3日)。
被爆国日本がなぜ原発を?
私は、福島第一原発が爆発した三月一二日、東京都内のエコな旅館で合宿をしていた。テレビもない旅館で、白煙をあげる原発の写真を載せた翌日の新聞を見たとき、そのきのこ雲はまるで原爆のように見えた。爆発でどれほどの放射能が出たのか、想像もつかなかった。そして、水素爆発がいかに威力のあるものかも思い知った。原子炉のある建物の屋根を吹き飛ばしてしまっているからだ。いわれているように、メルトダウンであれば、当然、燃料は溶けて、吹き飛ばされた屋根から外へ、つまり環境へとその放射性物質は出ている。未だに、放射能漏れは続いており、ウランに換算すると広島原爆の二〇発分の放射性物質が放出されていると言う(東京大学アイソトープ総合センター長児玉龍彦教授の試算による)。なお、福島第一原発のなかには広島型原爆の千発分以上の放射能がたまっているともいわれる。また、再爆発でも起きようものなら、いったいどれだけの放射能が撒き散らされるか、東京はおろか、日本中が放射能で汚染される事態になりうる、と外国に逃げた人も多くいる。私たちでさえ、ああ、ついに原発は爆発してしまった、放射能の量から言えば、広島や長崎で落とされた原爆よりもはるかに多い、という以前から警告されていた原発事故の恐ろしさに改めて気づかされる。
合宿からの帰り道、まだ福島原発では1号機に続いて、3号機が空焚き状態になっていたのだが、私は事故のショックのあまり、隅田川のほとりでぼーっとしていた。ここにも放射能は流れてくるんだなあと。福島から東京まで、200キロ強、放射能が到達するのは時間の問題だ、と思いつつ。日曜日のためか浅草には多くの観光客が楽しそうに行き交っていた。まるで原発が爆発したなんて、関係がないように見えた。しかし、そのころから、多くの子連れが東京駅から新幹線で西へと脱出していたのだった。
そのとき私は思った。被爆者はどんな思いで、あの、爆発の白い雲を見たのだろうか、と。そのショックはいかほどのものか、と。ヒロシマ、ナガサキからフクシマへ、ついに日本は3番目の核爆発を経験したのだもの。
福島原発の爆発のニュース映像は世界を駆け巡った。アメリカ、フランス、ドイツなど欧米諸国だけでなく各国政府は本国から在日の人々に避難の命令や勧告が出され、帰国を命じた政府にもあったほどだ。
そして世界の人々は問うた。なぜ、被爆国である日本で、世界3位の原発大国に?
広島・長崎の被爆体験の教訓はどのように、生かされてきたのか、被爆者の核廃絶の訴えは、原発廃絶につながらなかったのか。こうした疑問は世界だけでなく、日本でも改めて、問われている問題でもある。
「原爆の被害に遭った日本が、なぜあれほど原発を持っているのか」
今年三月一五日、イタリア・ナポリの大学でNGO「ピースボート」の船で寄港した広島・長崎の被爆者たちが被爆体験を証言し終えると記者たちに聞かれた。しかし、被爆者たちは言葉に詰まり満足にこたえることはできなかった。そして多くの被爆者も同じであった(朝日新聞2011年7月22日)。
朝日新聞は、二〇一一年七月一七日から、原子力が日本に導入された政治的経緯「原発・ 国家」と題する連載記事を掲載した。それは、一九五五年、政府による初の原子力調査団の報告書から始まり、日本の原子力の導入に力のあった、中曽根康弘元首相の果たした役割を調査している。それによると、一九五三年末、米大統領アイゼンハワーが国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(平和のための核つまり原子力の平和利用)を宣言した。ソ連が水爆実験に成功し、米国の核独占は崩れた。と言うわけで、旧西ドイツや日本をターゲットに、核の平和利用である原子力発電を売り込み、米国の「核の傘」を西側に広げる核戦略であった。米国の核戦略はソ連との対決を強め、核増強を図るものであり、決して核縮小に向かうものではなかった。米国の核独占を補強するために、核兵器の副産物である、核燃料を商売に使おうとしたのが「アトムズ・フォー・ピース」戦略なのである。当時から核・原子力への関心を表明していた、中曽根はアメリカから招かれている。一九五四年三月に提出された日本発の原子力予算も彼の主導によるものとされている。しかし、このとき、米国のビキニ環礁での水爆実験で、日本の第五福竜丸など多くの船や人々が被爆していたのであった。日本で初の原子力予算が通ったときでもあった。皮肉なものである。中曽根は国会で提出した調査費二億三五〇〇万円の根拠を「濃縮ウランはウラン235だから」と答えている。中曽根は米CIAのエージェントであったと言われる読売新聞の社主正力松太郎と二人三脚で原子力の導入に力をあわせる。中曽根は、国民の核アレルギーを押さえ込もうと正力とともに、原子力委員会の委員にノーベル賞を日本人で初めて受賞した湯川秀樹博士を入れようと奔走する。
しかし、日本の原子力開発で見逃せないのは、核武装とのかかわりである。
日本は核燃料サイクルを持っている。つまり、核燃料からそれを燃やした後の使用済み燃料から、また核燃料の元となる、そして核爆弾の材料ともなるプルトニウムを生産しているのである。
中曽根は、一九七〇年防衛庁長官だったとき、ひそかに日本の核武装能力について調査研究させている。そして、日本はいつでも核武装する能力は持つことができる、潜在的核大国を目指すことにしたのである。もう亡くなっているが、私の知人であった広島原爆の元となったウラン濃縮技術の研究者は、日本はいつでも核武装できる、一日でウラン原爆ができると断言していた。それは東海村の再処理工場で可能だと言うのであった。ちょうど、チェルノブイリ原発事故の起きた直後のことであった。じっさい、日本の原子力開発は核武装のためではないかという疑念は、国の内外を問わず絶えず出されている。
じつは、日本には現在、三〇㌧、核兵器三七五〇発分に相当するプルトニウムがたまっている。いうまでもなくプルトニウムは長崎原爆の材料であったが、現在の核兵器の主流材料である。また、それは地獄の王プルトーンにちなんで名づけられたほど、猛毒で知られる元素で、人間の肺につけば確実に肺がんを引き起こすと言われるものだ。このように大量のプルトニウムがあること自体がアジアや世界の国々から、日本は核武装を狙っているのではないか、と思われる原因にもなっている。
ビキニ水爆実験と原水爆禁止署名
ここに丸浜江里子著『原水禁署名運動の誕生—東京・杉並の住民パワーと水脈』(凱風社、二〇一一年)という労作がある。同著は、一九五四年三月一日に太平洋のビキニ環礁で行われたメガトン級の水爆実験により被ばくした第五福竜丸の悲劇をきっかけに起きた、東京都杉並区の女性を中心とした原水爆禁止署名運動を当時の資料や関係者の聞き取りから丁寧に掘り起こし、その経緯と歴史的な意義を記したものである。年配の人は水爆で汚染されたマグロが次々とガイガーカウンターで計測されて捨てられ、雨が降ると放射能で頭が「はげる」と大慌てで、傘を差し、雨にあたらないようにしていた、とその恐怖を鮮明に覚えているかもしれない。
杉並の主婦を中心とした原水爆禁止署名運動は、たちまち全国に広がり、三二〇〇万筆もの署名を集めたのであった。そのなかで、人々は広島・長崎そしてビキニと核の脅威に改めて恐怖したといってよい。
著者の丸山さんは次のようにその意義をまとめている(同著三四四頁)。
① 平和運動のイメージを変えた働き。杉並の主婦の署名運動における活躍はマスコミで大きく取り上げられ、平和運動はいわゆる左翼による運動から、主婦や普通の人々が参加する運動へと、日本の政治のファッションを変えた。
② 原水爆禁止世界大会を実現し、被爆者の救済に目を向けるきっかけを作った働き。原水爆禁止署名運動が広島・長崎の被爆者運動、原爆反対運動と結びつき、広島での原水爆禁止世界大会を実現し、広島での被爆者との出会いが、原水爆禁止署名運動と被爆者救済を結びつけた。この時から日本の平和運動の主軸に被爆者救済と原水爆禁止運動が据えられていった。
③ 米国の対日政策に影響を与えた働き。原水爆禁止署名運動の広がりが米国の対日戦略=極東戦略を変更させたとして、戦後民衆運動の意義を強調している。
原爆と原発
最後の点に関していえば、近年米国公文書が公開されていろいろな事実が明らかになっている。原水禁署名運動が高揚している時期、危機感を強めた当時のアイゼンハワー大統領が日本の西側からの離反を憂慮、日本人の反核・嫌米感情を封じ込めようと、原子力技術協力を加速させた経緯が共同通信の収集した米公文書により七月二三日明らかにされた。それによると、核に「無知」な日本人への科学技術協力が「最善の治療法」になるとして、原子力協力の枠組みや日本人科学者の米施設への受け入れを打ち出す過程を明記。大統領は五四年五月にダレス国務長官に覚書を送り、被ばく事件後の「日本の状況を懸念している」と表明し、「日本での米国の利益」を増進する方策を提示するよう求めた。これを受け、国務省極東局は大統領宛極秘覚書で「日本人は病的なまでに核兵器に敏感で、自分たちが選ばれた犠牲者だと思っている」と分析し、打開策として①被ばく乗組員への賠償②米側からの「放射能に関する情報提供」などをあげ、「放射能」に関する日米交流が「日本人の(核への)感情や無知に対する最善の治療法」になると指摘した。
ここに原子力の平和利用をテコにビキニ事件で盛り上がった日本の反核世論の懐柔をはかり、被爆国が原発導入を進めるにいたった源流があると言える。
このような米国の動きと連動するかのように日本でも、被爆者自身が平和利用へと傾いていく。朝日新聞の連載「原爆と原発」では次のように書かれている(7月22日)。
「調節しながら破裂させたら、原子力が汽船も貴社も飛行機も走らすことができる。(中略)人間はどれだけ幸福になるか」
長崎で被ばくした放射線医師永井隆はベストセラー「長崎の鐘」(一九四九年)で原子力の夢を語っている。また、広島で被ばくした子どもたちの手記を集めた「原爆の子」でも原子力への期待が書かれているし、編者の長田新は書く。
「広島こそ平和的条件における原子力時代の誕生地でなくてはならない」
もちろん、原爆の放射能による被ばくはこの間どんどん進行していたが、それが公になることはなく、むしろ隠され続けたのであった。
先にも記したように、ビキニ水爆で被ばくした第五福竜丸の事件で日本に空前の原水爆禁止運動がおきた。そして米国はそれに対して、様々な対策を練る。その一環がアメリカ主導の原子力の平和博覧会を通じた宣伝活動であった。米側は、被爆の実相を伝える広島平和記念資料館をあえて会場に選んだ。そこでの平和博覧会を実際に見た人はいう。資料館の一番奥の部屋は開けると、パーっと目もくらむような明るさだった。原子力の明るい未来を象徴したのだろう、と。
多くの被爆者が原子力の平和利用に希望を持った。女性史研究者の加納美紀代さんはこの間の経緯を詳しく調べている(「インパクション」6月号)。そして日本人は原爆の唯一の被害者だから、平和な原子力を研究する権利を最も持つ、と言う物理学者故・武谷三男氏の言説に被爆者「だからこそ」という理屈を見出すのであった。
このような工作を経て、米国の対日原子力・核戦略は日本人の核アレルギーを拭い去り、被爆者をも巻き込んで日本を原子力大国への道に導いたように見える。
放射能の被害
しかし、広島や長崎で原爆の放射線による被害は様々な形で進行していた。
原爆投下直後、日本政府は国際法で禁じられていた毒ガス以上の残虐兵器だと米国に抗議している。また被爆地に入った外国人記者たちも人々が次々と亡くなっている様子を欧米の新聞に報告していた。
このような事態に、原爆開発計画に携わった米軍のファーレル准将は、東京のホテルで外国人記者らに対して、次のように言い放った。
「広島、長崎で死ぬべき者はみな死んだ。現在、放射能で苦しんでいる者は皆無だ」
これが米国の公式見解になっていく。
また、被爆者たちも残留放射能の実態を知らぬまま、原子力の夢を語っている。一九五六年に結成された、被爆者の団体日本原爆被害者団体競技会(被団協)は、大会宣言で、「原子力を決定的に人類の幸福と繁栄との方向に向かわせることこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」とうたっている。この文章は今年福島の事故を受けて取り消されたが。
木村朗/ピーター・カズニック著『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点―』(法律文化社、2010年)によると、日本への二発目の長崎原爆投下は、核戦争のための人体実験であったと言う衝撃的事実を米公文書などから明らかにした力作である。
木村さんはまず、日本人に「原爆神話」からの脱却をとく。
「原爆投下こそが日本の降伏と戦争の早期終結をもたらしたのであり、その結果、本土決戦の場合にでたであろう五〇万人から一〇〇万人に上る米兵の犠牲者だけでなくそれ以上の日本人やアジア人の生命をも同時に救うことになった」と言うのが「原爆神話」。俗に早期終戦・人命救済説などといわれるが、これは真っ赤な捏造であり、占領軍と日本政府の合作であると論証した上で、長崎への原爆投下が人体実験ではないか、と木村さんは問い、「原爆投下は新型兵器の威力を試し、その効果を確認するための実験であり、とりわけ人体への影響の測定という実験を重視したものではなかったか」という解釈を提起している。
これまでは、長崎に二発目の原爆を投下した目的のひとつは、広島への原爆投下の悲惨な結果を確認した上で、その直後に行われたソ連参戦の影響を最小限にし、日本の降伏はあくまで原爆投下のためであったとするためであったと考えられていた。
しかし、おもに長崎からは、別の視点が出されている。すなわち、長崎原爆は広島に投下されたウラン型とは違うプルトニウム型であった。それは初の原爆実験であったアラモゴールドで爆発されたものと同型であるが、広島原爆と同じように、実戦での使用でその威力と効果を試すためではなかったのか、という解釈である。つまり、米国政府は都市の物理的破壊だけではなく、都市住民の皆殺しを狙って新型兵器の実践使用を行なった、人体実験の性格が濃厚であった、という主張である。もしこれが事実であるとすれば、原爆投下は人道上の罪に当たる、明確な戦争犯罪である。
このような長崎からの視点による主張を裏付けるものとして、先のファーレル准将発言や原爆被爆者に対する米国の綿密な調査活動である。
原爆放射線の人体への影響は、一九四六年に設置された米国原爆障害調査委員会(ABCC)が調査を始め、七五年からは日米両政府で管理運営する放射線影響研究所が引き継いだ。その研究成果は、国際放射線防護委員会(ICRP)が放射線防護基準を定める上でも重視され、同委員会の勧告を受ける形で日本政府が定める放射線の被ばく上限値にも反映されている。しかし、この勧告について「内部被ばくを過小評価している」との批判がたえない。
作家の大江健三郎さんは自らも被ばくされ、内部被ばくの治療研究を九〇歳を超えたいまでも続けている肥田舜太郎医師について以下のように述べている(朝日新聞8・17)。
肥田先生は、今現在の福島県の子どもたちを憂えられるのですが、本来《アメリカと日本政府が意図的に隠してきた放射線による「内部被曝」の被害こそが、人類の未来にとって最大の脅威であることを学び、訴え続けて》こられた専門家です。
広島・長崎の原爆被害についてのアメリカ側の秘匿については高橋博子著『封印されたヒロシマ・ナガサキ 米核実験と民間防衛計画』(凱風社、2008年)などに詳しい。
おわりに
なぜ私たちがつらい目にあうの? わたしはふつうの子供を産めますか? 何さいまで生きられますか?
八月、フクシマの子どもたちが政府の役人に訴えていた。俳優山本太郎さんも駆けつけた。子どもたちの前に並んだ政府の官僚はどんな想いでその訴えを聞いただろうか。
広島の語り部沼田鈴子さんは、「核と人類は共存できない」と生涯をかけて訴えた。彼女は二二歳のときに被ばくしたが、その直後に生理でもないのに出血が続いた。七九年には子宮と卵巣の摘出手術を受けたのだった。原爆の後傷害に長年苦しんだことを、ソ連のチェルノブイリ事故後に初めて明かした。若い女性はことさら生理異常について話しづらいと思うので、気をつけてほしいと、チェルノブイリの調査に当たった医師に託した。医師は彼の地でも同じような症状が見られたと報告してくれたと言う。彼女は内部被ばくの怖さを身にしみて体験しているから生殖機能に対する影響について気にかけたのだ。
フクシマはなお、進行中である。放射能被害の広がりはわたしたちの想像をはるかに超えている。原発は止めるしかないが、事故が起きたら、その影響はほぼ、永遠に続くのである。統制できない核エネルギーを平和のためにと言うレトリックで推進してきたツケはあまりにも大きすぎる! (おわり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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