⒉.『蝉丸』―父醍醐天皇に捨てられた姉逆髪と弟蝉丸
聖なるか我が子を捨てて道端の乞丐ならしむ大御心は
世阿弥の子観世元雅の作に『弱法師(よろぼし)』という子捨ての話がある、ワキ高安通俊は息子であるシテ俊徳丸を讒言で勘当する。父に捨てられた悲しみから泣き続けたあまりに俊徳丸は盲してしまう。それで盲目の乞丐(かたい)となって放浪する。父は勘当したものの息子の安否が気になり、四天王寺に息子の安穏を祈願して一七日施行に出かける。息子は盲目のために転んで怪我をしたせいか、足取りもよろよろしてそれで「弱法師」と呼ばれている。俊徳丸が四天王寺で物乞いをしているところに父通俊がやってきて、我が子と気付き、人目のつかない夜になって俊徳丸を連れて帰ったという話である。
まだ『弱法師』には救いがある。父が子を讒言されたからといって捨てるのは酷い話だが、そのせいで盲目になり、盲目になったせいで四天王寺で再会できたわけである。盲目になったことで親子の絆が本物になったという話だ。盲目でよろよろ歩くということも悲惨なようで大切な再会への一こまなのである。
なんと哀れななんと残酷なと思われることが普通の家庭でも起こってしまう。高安通俊は情のある普通の父だが、親を蔑ろにしたようなことを言ったという讒言だったろう、「あさましや前世に誰をか厭ひけん。今又人の讒言により。不孝の罪に沈む故」とある。前世での罪が仇となったということは、身に覚えが無いということである。「不孝の罪」だから親不孝にあたる言動があったと讒言されたということである。
父は息子のいいわけより、他人の讒言の方を信じた、このことが息子にとって辛かっただろう。そういう残酷なことがどの家庭でも起こり得るのである。その場合に、父の浅はかな行為を道徳的に責めるだけでは救われない。そういう不幸も親子が真の絆を取り戻すための苦しみであり、幸せへのプロセスなのである。それが分かれば煩悩の中に救いが、覚りがあるという煩悩即菩提なのである。
ところが世阿弥の『蝉丸』となると子捨ての話に救いが無くなる。延喜帝とあるが、延喜の治を行った醍醐天皇のことだと思われる。蝉丸は第四の皇子である。彼は何の因果か盲いている、それで父帝から捨てられるのである。
迷の雲も立ちのぼる逢坂山に。着きにけり逢坂山に着きにけり。
ツレ詞「いかに清貫。」
ワキ詞「御前に候。」
ツレ「さて我をば此山に捨て置くべきか。」
ワキ「さん候宣旨にて候程に。これまでは御供申して候へども。何くに捨て置き申すべきやらん。さるにても我が君は。堯舜より此方。国を治め民を憐れむ御事なるに。かやうの叡慮は何と申したる御事やらん。かゝる思もよらぬことは候はじ。」
ツレ詞「あら愚の清貫が言ひ事やな。本より盲目の身と生るゝ事。前世の戒行拙き故なり。されば父帝も。山野に捨てさせ給ふ事。御情なきには似たれども。此世にて過去の業障を果し。後の世を助けんとの御謀。これこそ誠の親の慈悲よ。あら歎くまじの勅諚やな。」
皇子の中には寺の僧になって門跡を継いだりする者もいた。蝉丸の場合は盲目なので引き取る寺がないということか。それにしても盲目ならば余計に捨てるようなことはしない筈である。それを敢て捨てるということは、やはり前世の罪滅ぼしをさせるということなのかもしれない。しかし盲目の乞丐となれば、早晩野垂れ死にかもしれない。残酷な話である。
しかも第三の皇子(皇女)逆髪は常に髪が逆立っている。そして狂っていて放浪癖があり、宮から出たらどんどん歩いて、帰ってこれなくなってしまう。これも捨て子ということだろう。結局乞丐となってしまう。この二人が大津の近くの逢坂山で偶然出会う。「撥気高き琵琶の音(ね)聞ゆ」つまり蝉丸は天才的な琵琶奏者だったのである。それでひょっとしてということで出会えたのだ。そして慈しみあうが共に暮らせるわけもないので、悲しい別れとなってしまう。
このように無慈悲なものとして帝や皇室を描くということは不敬だとして戦時中に『蝉丸』を上演しなかったことがあるらしい。臣下の清貫の台詞からも「思いもよらぬこと」と一般には受け止められるような無慈悲な仕打ちだったと思われる。それを謡曲にして能として上演することに対して、皇室や将軍からの世阿弥への反発はなかっただろうか。世阿弥が晩年佐渡に流されるには世阿弥の作品が朝廷の尊厳を傷つけるものだという権力側の憂慮があったかもしれない。
しかし信仰の対象になる聖なるものは、俗なるものから常に隔絶し、ただ超越的なものとして崇められているだけでは、庶民は聖なるものを身近に感じることができず、強い信仰にはならない。祭りのときなどに時に聖なるものを破壊したり、池に投げ込んだり、ぶつけ合ったりする。そういう聖なるものを冒涜し、俗なるものに引きずり降ろして、破壊したり、笑い者にすることで、かえって日常に戻ったときに信仰がリフレッシュするのである。
また世阿弥たちは河原者という賤民的な存在で、一般庶民から蔑まれていたのである。だから逆に彼らは自らを蔑む庶民を蔑むために聖なるものと結びつく必要があった。つまり河原者は聖なる者が身を落として、放浪し、庶民を芸能で慰め、宗教的な芸能で救済して身を立てた者だという伝承が必要だったのである。
聖なる者が賤なる者に身を貶める、既成の順序がひっくり返る、この順逆こそこっけいの起源であり、庶民に笑いを与え、救いを与えるのである。それが実は芸能の原点である。逆髪の次の台詞からそれは容易に読み取れる。
詞「いかにあれなる童どもは何を笑ふぞ。何我が髪の逆さまなるがをかしいとや。実に/\逆さまなる事はをかしいよな。さては我が髪よりも。汝等が身にて我を笑ふこそ逆さまなれ。
詞「面白し/\。是等は皆人間目前の境界なり。夫れ花の種は地に埋もつて千林の梢に上り。月の影は天にかゝつて万水の底に沈む。是等をば皆何れが順と見逆なりと言はん。我は皇子なれども。庶民に下り。髪は身上より生ひ上つて星霜を戴く。これ皆順逆の二つなり。面白や。
河原者は賤民であり、乞丐として慈悲を乞い物を貰って命をつなぐ、そのために念仏を唱え、念仏踊りを見せ、舞を聖なるものに奉納する。こうして賤民は選民に上昇し、聖なる者に昇華していく。その際、元々聖なる者が身を貶したから聖なる世界を生み出せるのだという意識が必要であり、それが『蝉丸』という作品が生まれる背景にあると思われる。
聖なる者が、俗なる者と超越しているだけではだれも救えない、自らの権威の座を降りて、俗なる者の中に、降り賤民として蔑まれてこそ本当の聖なる舞が舞えるのである。権力によって富み栄えている朝廷や幕府からは人民を救う芸能は生じない。河原者の集団からこそ生まれるのである。それは蝉丸や逆髪の血を引くからなのである。逢坂山には三つの蝉丸神社がある。蝉丸は歌舞音曲の神として信仰を集めてきたのである。
仏教思想としては、賤の中に貴があり、子捨てという無慈悲な行為に罪滅ぼしをさせるという慈悲があるという正反対なものがかえって同一という「即非の論理」がある。これは煩悩即菩提に連なっている。帝の子捨ては自分の分身である貴なる者を庶民のために喜捨することであり、捨身の一種なのである。だから世阿弥の主観的意図としては帝を無慈悲な人間として非難しているのではなく、庶民のために捨身までする聖なる者として崇めて、能芸術に形象しているつもりだったのである。
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