「中国5千年」という虚構、「中華民族の偉大な復興」という虚構
習近平は、2021年7月1日の中国共産党創立100周年祝賀大会で、冒頭次のように演説しました。
「・・・・ きょうは中国共産党の歴史、中華民族の歴史において・・・・中国共産党の100年の奮闘の輝かしい歩みを回顧し、中華民族の偉大な復興の明るい未来を展望するために、ここで盛大な集会を開いた。・・・・中華民族は世界の偉大な民族で、5千年余りの長い文明の歴史を持っており、人類文明の進歩に不滅の貢献をした。1840年のアヘン戦争後、中国は・・・・国家が辱められ、人民が苦しめられ、文明が失われて、中華民族は未曽有の災難に見舞われた・・・・中国は救国運動を導く新しい思想を緊急に必要とし、・・・・中国人民と中華民族の偉大な覚醒の中、マルクス・レーニン主義と中国の労働運動の結合の中で、中国共産党が誕生した。・・・・この100年間、中国共産党が中国人民を団結させ引っ張って行った一切の奮闘、一切の犠牲、一切の創造のテーマは、まとめれば、中華民族の偉大な復興ということになる。・・・・」
(中華人民共和国駐日本国大使館HP 2021/07/02)
以上が現在の中国共産党・政府の公式の歴史観、根本中の根本の歴史観です。前国家主席・胡錦涛もほとんど同じ歴史観を述べています。例えば2005年の講話で次のように述べています。
「・・・・1840年以後、中国はくりかえし帝国主義列強の侵略と蹂躙に遭って、国家主権と領土完整は絶えず侵されて、中華民族の災難は日々ますます深まった・・・・」
しかし、このような歴史観は全くの誤りであり、デマゴギーです。史実に照らしても誤りであり、また近代ナショナリズムの倒錯に陥っており、しかもそれはアジア的専制のイデオロギー・儒教を継承するものになっています。
アヘン戦争以降、清朝が浸食され「くりかえし帝国主義列強の侵略と蹂躙に遭って」というのは事実です。そして欧米列強、ロシアおよび日本の瓜分による反植民地状態から、中国共産党が「救国運動を導く新しい思想、マルクス・レーニン主義」を掲げて闘い、独立を達成したことも事実であり、多くの犠牲の上に独立を成し遂げたことは輝かしい勝利というべきです。しかし、その他のキーワードから成る習近平や胡錦涛の全体的・基本的歴史観はデマゴギーです。
なお、以下に述べることは別に目新しいことは何もなく、中国関連の多くの著作で述べられているものです。ただの常識です。ですが、中国共産党の主張をデマゴギーとして理解するうえで再度常識を確認することが重要です。
「中華民族」は100年ほど前に創られたもの
習近平や胡錦涛の歴史観を示すキーワードとしては、次のものを挙げれば十分でしょう。
「中華民族の偉大な復興」、「中華民族は・・・・5000年余りの長い文明の歴史を持っており」、「1840年のアヘン戦争後、中国は・・・・国家が辱められ、人民が苦しめられ、」、「国家主権と領土完整は絶えず侵されて」、「中華民族は未曽有の災難に見舞われた」
まず取り上げるべきは、「中華民族」と「5000年余りの長い文明」、「中華民族の偉大な復興」です。
習近平や胡錦涛の演説や講話は、「現在の中華民族は歴代王朝から連続する悠久の歴史のから成る」という史観からなりたっています。
またここでいう「中華民族」は、現在の「中国という主権国家を形成する国民」であり、そのような中華民族・国民が5000年余りの長い歴史、文明を持っているというわけです。
しかし、これは史実として誤りであり、俗世間的なデマゴギーです。
そもそも「中華民族」という概念は、清朝末期の改革派・梁啓超がはじめて提起したものです。梁啓超は「自分たちには王朝の名はあるが、国の名をもっていない」と慨嘆し、ここから梁啓超をはじめとする改革派、革命派の近代国民国家形成にむけた苦闘が始まりました。彼らは列強による版図分割への危機感から、それまでの王朝にかわる近代国家をつくるべく必死に苦闘したわけです。その苦闘から「中華民族=国民=中国人」、「国民」が支え形成する「国民国家」としての「中国」が創造されました。
従って、それ以前には「国民国家中国」という国家も「中華民族・中国人」という「国民」も存在しませんでした。言い換えれば、国民国家の「主権」も「領土」も存在しなかったのです。
というわけで、それらは20世紀の初期に誕生したわけですから、中国4千年の歴史とか5千年の歴史とか、中国共産党が大見得をきって主張する言説は全くの誤りです(これは夏や殷や周などの王朝が4千年前から存在したとする考古学とは関係のない話です。夏や殷や周も「中華民族・中国人」から成る「中国」ではありません)。
ちなみにもともとの「中国」の意味は「真ん中の都市」というものでした。その後は陝西省の渭河から黄河の中・下流の都市化した地帯を指すものでした。孟子は戦国時代に華北・華中の「方3千里(約1200キロ四方)を中国と呼び、ほかにも戦国の書に「方3千里」の記述がみられ「中国」と呼ばれていました。しかし、そのころの「中国」は同じ「中国」と記述されていても、現在の「中国」とはその内容、意味するものは全く異なるものです。同じ文字・言語が連続性を保証すると考えるのは誤りです。
ネーション像の模索と苦闘
ところで、梁啓超が初めて提起した時の「中華民族」・新たな「国民国家」は、清朝が抱える諸族のうち、どこまでを包含するのか排除するのか、諸族全てを包含するのか曖昧なものでした。ですが、その後、孫文や章炳麟らの模索と相まって、これら「諸族合一のネーション像」としての「中華民族」」が形成されていきました(孫文は最初「排満興漢」を唱え、満州族を排除し漢族による国家形成を考えていました)。
ところが歴史的には、「諸族合一の中華民族というネーション」に合致する政体・共同体は一回も存在したことがありませんでした(いまでもそうですが)。過去の歴史では、諸族は融合・交流を繰り返す一方で、長期にわたり闘った時代が数多くありました。従って、このような歴史においては、諸族合一のネーション像をつくることはできなかったのです。
また、文化についても、言語・文字、価値・倫理、宗教、風俗習慣等において共通なものを見出そうとしても例外が存在し、またこれら文化的要素においては大きな相違があったために共通のものさしとすることはできず、むしろあいまいな「帰属意識」のほうが適切と考えられました。 結局、文化要素は曖昧で不確実であるために、ネーション像の客観的なものさしとはなりませんでした。
なおネーション像の浸透に向けた運動・活動という面からすると、歴史的記憶なり文化にしても、それらを共有するためには知識層だけでなく、庶民の読み書き能力がそれなりに向上し普及して一定の民度に達していることが欠かせません。ですが、その条件は清朝末期においてはいまだ存在しませんでした。(文化については後述)
列強の圧力が「中華民族」を創らせた
それでは諸族合一のネーション像の創造に最も影響を与えたのは何だったのか?
それは外部からの列強の圧力=清の版図分割=爪分でした。列強による清朝の華夷秩序の破壊、版図分割の圧力増大により、まずは版図の保全、一体性確保が第一の急務となりました。そのためには「均質で一体」となったネーション像の構築が必要不可欠でした。しかし、そのネーション像は前述のように、諸族共通の歴史や文化とは直接的に合致しない曖昧なものでした。とはいえ、曖昧ではあってもそれは緊急に必要なものであったわけです。そのため版図を構成していた諸族(満、漢、蒙(モンゴル)、回(ウイグル)、蔵(チベット))合一のネーション像、すなわち「均質で一体」の「中華民族」が打ち出されたのです。
「中国5千年」のからくり、おなじみ「ナショナリズムのからくり」
従って近代国民国家形成への模索は、まず喫緊に版図を保全する必要から「中華民族」というネーション像が創造されました。それが一定の定着をみると、同時にといいますか次にといいますか、必要とされたのがネーションの歴史でした。ですが、それは王朝の歴史を見直して、ネーション像の枠の中に「中国史」として再編するものでした。
そして、その再編はといえば、創造されたネーション像を「過去の王朝の歴史へ投影」するというものでした。おなじみのナショナリズム誕生のからくりです。そこでどうなったか?
太古の昔から「中国」という国家が何か大きな存在として連綿として存続し、その内部で多くの王朝が興亡を繰り返したという観念がうまれたのです。そして、それを補強するものとして、王朝の正統史観がありました。通史としては司馬遷の史記がありましたが、それ以降は各王朝一代だけを描く「断代史」があるのみでした。しかし断代史は先に述べた正統史観にもとづいていましたから、古来から連続してきた中国の通史=歴史に転換しやすかったのです。(注を参照)
このように王朝の歴史は、「国民国家中国」の歴史=中国史として再編されました。そこから「中国、五(四)千年の歴史」や「中華民族の五千年の歴史」という言説が創られていきました。しかし、事実は東ユーラシア(地理的意味での中国大陸)において、単に様々な質的に異なる王朝がいくつか併存したり、あるいは融合したり、大一統とみなされる大きな王朝が形成されたりした、それだけのことです。
これを、ひとしなみに「中国の秦・漢」、「中国の隋・唐」、「中國の宗」、「中国の大元」、「中国の明」、「中国の清」等々と述べたり多くの著書で叙述するから、錯誤がうまれる。この場合何をもって「中国の」とするのか?その説明はほとんどありませんが、自明のことではありません。
この問題は中国に限らず、日本はもちろん多くの国民国家のナショナリズムのからくりですから、追ってもう少し述べたいと思います。
(注:創造されたネーション像を「過去の王朝の歴史へ投影」するうえでは、便利なものがありました。正統史観・易姓革命の観念です。この正統史観・易姓革命が「連綿として続き、受け継がれ存続してきた「中華民族」の「中国通史」」に貢献しました。皇帝=王朝は民意喪失で天命を失って滅び、新たに民意を得て天命を受けた王朝が正当性を得て誕生する。これが易姓革命ですが、天命は革命なり禅譲なりによって次々と正統性を得た王朝に継承される。この正統史観が深く浸透していたため、多くの王朝が交代し実際は断絶しているにもかかわらず、連続しているかのようにみなされました。そして、連続した王朝は国民国家中国にも接続しているとされたのです)
歴代帝王は風雅に劣る 本当の風流人は毛沢東
国民国家中国に接続された「連綿と続いた王朝」は、マルクス主義を標榜した中国共産党創設時の主要メンバーにも浸透していました。
その一例として毛沢東を見ると、1945年、蒋介石の国民党との決戦前夜、毛は後に有名になった詞・「沁園春 雪」を発表しました(毛は優れた文学的センスを持つ傑出した文人でした。この詞は長征をやり遂げ延安に到達して間もない時期の作品ですが、1945年11月、転写されたものが発表されました)。このなかで毛は「秦の始皇帝、漢の武帝」、「唐の太宗李世民、宋の太祖趙匡胤」から「ジンギスカン」まで、歴史上の英雄を挙げつつ、結びにこう書いています。
「ともに往けり。風流人物を数えるには、なお今朝を見よ」。
歴代の帝王たちはその時代の豪傑にすぎず、風雅に劣る。本当の風流人物、つまり教えを伝える聖賢と豪傑を一身に集めた者は「今朝」を見よ、つまり自分=毛であるというわけです。(「毛沢東と中国 上」 銭理群 青土社 2012年)
詞として優れていると云われるこの作品の評価はともかくとして(小生は詞と詩の違いなど全く分かりませんので)、毛も、秦以降の各王朝を「連続した中国」としてつなぎあわせ、あたかも「中国という国家」が太古の昔から存在したかのような中国史観を全く疑っていません。それがよくわかります。毛は、抗日戦争・国共内戦での勝利を通じて、過去の王朝から続いた「封建制」を打倒し、「新中国」を創ったと喧伝しました。しかし、そのメッキをはがすと過去の多くの光栄ある王朝(アジア的専制)が脳裏に去来して、それが毛の思想の底流として大きな影響を与えていたことがわかります。
存在しなかった「中華民族」を復興させる? どうやって?
ここで確認すべきは、あくまで王朝の歴史は皇帝の正統の歴史でしかないということです。というのは、皇帝の時代には国民国家「中国」という観念も存在しないし、「中華民族」・「中国人」という観念もありません。かっての皇帝も官僚も、支配されてきた庶民も、自分たちを「中華民族」とか「中国人」とか考えたことはありません。また雲の上の士大夫によってつくられる史書など、通史であろうが断代史であろうが、庶民にとっては何らあずかり知らないものでした。
近代国民国家が存在しない時代を、近代国民国家の観念と視点によって論じることで、近代国民国家の観念を近代以前の王朝にあてはめ、同じ国家として同一視する。同一視すれば王朝の歴史は国民国家の歴史に転化します。これは大きな錯誤でしかありません。先に述べた孟子や戦国時代の書にある「中国」にも同じことが云えます。
しかし、この錯誤から中国ナショナリズムが生まれていきました。
ですから、習近平に問いただすべきは「そもそも清朝末期まで存在しなかった「中華民族」をどうやって復興させるのか?」 です。
存在しなかったものは復興などできません!
いま現在でも新彊やチベット、内モンゴルでは紛争が続いています。「中華民族」は存在していません。(続く)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion11654:220111〕