中国ウルトラ・ナショナリズムを批判する(四)

著者: 柏木 勉 かしわぎ つとむ : ちきゅう座会員
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「天命をうけた皇帝」と「人民を代表する共産党」は同じもの
 前回紹介した王岐山、スターリン、ピャタコフの一党独裁論は、三つとも、法の上に立ち何ら制約がない無制限の権力を行使する「人治」という点で共通しています。また、中国大陸の皇帝の統治を見ると、その統治は儒家によって皇帝が天命をうけ民意を得ることで正当化されました。すると、「天命をうけ民意を得た皇帝」と「人民を代表する共産党」は理屈上といいますか形式上といいますか、ぴったり対応します。両者は本質的に共通しているわけです。ですから現在の中国共産党は破綻したスターリン主義といまだ同じしろものであり、アジア的専制そのものであることがわかります。
 例えば、文化大革命中に毛沢東は次のように述べました。
 「我々の権力は誰からあたえられたのか。労働者階級から与えられ、貧下中農から与えられ、人口の90%以上を占める労働者大衆から与えられたのだ。我々はプロレタリア階級を代表し、人民を代表し、人民の敵を打倒した。それゆえ人民は我々を擁護するのである」(「毛沢東と中国 上」 銭理群 青土社 2012年)

 ここでは、権力は人民に与えられるのではなく、「天」=「人民大衆、労働者、農民」=「民意」が、権力を皇帝・毛沢東と共産党に与えるわけです。それは「天命」を課すことです。銭理群は概要次のように述べています。
「天命」をうけたものは「天」にかわって「道」をおこなう。「道」は毛沢東流の「共産主義」である。「プロレタリア階級を代表し、人民を代表し」てその「道」をおこなって、その過程で毛は「百代の王」となる。これが、「天命」と「天命」を受けた皇帝・毛沢東の論理と理想であった。
 
 さて、このように見てくると、先に中国共産党の一党独裁は公理になっていると述べましたが、おわかりのように、これは儒教というアジア的専制のイデオロギーそのものであり、しかもそれは代行主義に他なりません。「プロレタリア階級を代表し、人民を代表し」てその「道」をおこな」うわけですから、まさに代行主義そのものというべきです。これは毛以来全く変わらずに継承されています。
「一つの強固な指導的核心があるべきで、この指導的核心を取って代えることはできず、これこそ執政の中国共産党なのだ!」
取って代えることのできない核心が指導・代行するというわけです。

文革でもパリ・コミューンの直接選挙に触れたとたん、一転して大弾圧へ
 毛沢東に触れましたので、ついでにアジア的専制に関連して、文化大革命につき若干述べさせていただきます(文革では多くの悲劇・惨劇・愚行が繰り広げられましたが、ここでは小生の問題意識にそった点のみ触れます)。

 毛沢東が発動した文化大革命では大衆を大量動員し、特権階層をなす党・政府官僚体制を走資派として攻撃して破壊しようとしました。それは大動乱の中で、一見すると党・政府官僚体制を中心とする天下二分を打破するように見えました。
 ところが大動乱のなか、造反による奪権闘争が毛が号令したパリ・コミューンの原則実現にむけて先鋭化していき、実際にパリ・コミューンの原則にそった上海コミューンが設立された直後、毛は一転してその弾圧に転じました。なぜなら毛の文革発動は、その大前提に何よりも共産党独裁体制の維持と皇帝・毛沢東の絶対的権威の維持があったからです。毛はマルクス張りに「全てを疑え」などと檄を飛ばしましたが、毛自身を疑うことは許さなかった。また頭のなかではパリ・コミューンの原則による人民民主主権を描き、大時報や党機関紙等々で造反派を煽りましたが、実際にそれが上海コミューンで可能となる寸前に、特にパリ・コミューンの「直接選挙」の原則が共産党独裁体制を突き崩す危険性と毛自身が革命の対象となることを察知した時、毛は解放軍を動員し弾圧にのりだしました。学生等青年知識層の下放も始まりました。
 大弾圧は造反の波を分裂させ内部抗争を激化させ、軍への武装決起も図られたものの各派間の分裂は苛烈な武闘に発展しました。更にはいまだ巣食っていたアジア的専制の「野蛮」も露呈して、大量殺戮と多くの食人が発生するなど悲惨な結末をたどっていきました。

文革はアジア的専制の枠内の嵐
 ですが、文革発動以降の経緯はともかくとして、紅衛兵をはじめとする「人民」・「大衆」の動員は、個人崇拝の頂点にたつ皇帝・毛沢東の発声で行われました。その後の展開の大勢も、毛沢東の支持を得ようと躍起になり、毛沢東の操作によってその動向は決定されました。そもそもこのこと自体が、「大民主」とか「プロレタリア専政」とは全く矛盾していました。皇帝・毛沢東が頂点に君臨し、動員された大衆の圧倒的多数が毛を崇め、毛の意向が運動の方向を決定していたわけですから、畢竟、文革はアジア的専制の枠内の嵐でしかなかったわけです。この点では文革以前の大躍進・人民公社運動も基本的に同じです。
そして、その後は改革開放・社会主義的市場経済のもと、前述のとおり天下二分の体制が一層固まって行ったわけです。

アジア的専制の遺制が残っているほど「社会主義革命」は実現しやすい
 以上、アジア的専制についてのべてきましたが、ここでアジア的専制のイメージをよりクリアにしておくため、吉本隆明の論考を引用して小括とします。
吉本はすでに1980年時点でアジア的専制といわゆる「社会主義革命」について、以下のように明確な像を提示していました。
  「世界史の概念としての<アジア的>というものの特徴はすぐにいくつか挙げられます。それは、きわめて貧困で非政治的な大多数の民衆と、権力を握ったごく少数の文化的な支配層・政治層の二つから成り立っています。そして富や権力あるいは文化は少数の専制的な政治層に集中しています。しかし、こと分配に関しては、わりあいに公正なところがあって、これがまた<アジア的>的専制というものの大きな特徴だと思います。
 ですから<アジア的>専制の構造―民衆構造、経済構造、文化構造、その他ことごとくの構造を残したまま、政治理念を<マルクス主義>に代えることで、<マルクス主義>国家、社会主義国家となりうるのです。しかも<アジア的>遺制が残っている国ほど政治革命はなしやすい。なぜならばごく少数の政治グループだけが政治や制度に関心を持ち、その時代における世界の最も先進的な理念を受け入れられる一種の開明性をもっています。一方大多数の民衆は平等に貧しく、政治に無関心で、平穏で、情緒深い。従って政治エリートの先進的な理念をストレートに受け入れ、個人の生命を無にして蜂起し得る。だから社会主義革命は後進国で実現してしまったのです」
  「・・・・ナショナリズム、民族国家の枠というものを、社会主義国家の政治権力が、少なくとも理念的にはこわしていこう、骨格を変えてみようとしたことが、ただの一度もない・・・・いまインドシナ問題で出てきているのはまさにそのことだと思います。中国もヴェトナムも、いずれも民族主義国家として国際的に行動しているんで、社会主義国家として振舞っているのではありません・・・・」(吉本隆明 「世界認識の方法」 中央公論社 1980年)

 ヴェトナム戦争終結の後、ほどなくして中国とヴェトナムの戦争がはじまりました。1980年時点では「社会主義国家」同士が戦火を交えたことに困惑が広がっていました。そのなかで吉本は、両国は民族国家(国民国家―筆者)にすぎないこと、また「<アジア的>遺制が残っている国ほど政治革命はなしやすい」ことを明瞭に認識していました。
(続く)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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