主体は《国家》なのか、《市民社会》なのか

最近、『流砂 第12号』(発行 批評社、2016年11月)を読んだ。そこに非常に重要な発言を含む対談がある。三上治と宮崎学の「《対談》依りかかるものなき時代の中で」である。

そのなかにある、私の関心を引いた発言について、若干コメントしてみたい。

[1 さあ、東京五輪だ] 宮崎学は、大正デモクラシーから昭和のファッシズムが完成していくスピードは非常に速かった、と指摘する。

そういえば、大正生まれの恩師も、若い頃(昭和前期)の世の中の変化、場面転換が速く、一年ごとの社会の有様が全く違っていたと回顧したことがある。安保法が法案だったとき、筆者は或る研究集会で、その法案が強行採決されたあとは、「安保法案」はすっかり忘れさられ、「東京オリンピック」で世の中はもちきりになるだろうという発言を聴いた。

いま、まったくその予見どおりになっている。東京五輪へのウォーミング・アップがもう始まっている。話題はスポーツで充満している。冬になっても水泳大会が開催される。或るスポーツ評論家が「冬くらいは水泳選手を休ませないといけない」と苦言を呈した。

連日テレビはスポーツ番組で満杯である。『東京新聞』もスポーツ欄は他の新聞と変わらない。《安保法案から東京五輪へ》、この《いきほひ》(丸山眞男)は予想を超えている。東京五輪は《アスリート・ファーストである》という。予算をけちるなという。影で喜ぶのは関係業界である。関係業界は日本だけでない。世界に広がっているだろう。

東京五輪費用を縮減しようとする小池都政は、「たかり資本主義」を「節度ある資本主義」に転換しようとする「右からの合理化」であろう。小池都政には191万人の都民の支持がある。この事実を軽視できない。日本の保守が「たかり派」と「合理化派」に割れ始めているのである。「たかり資本主義」は、1991年までのバブルとバブル崩壊が生んだものであり、カジノ資本主義に延命を求めている。「右からの革命=維新(保守革命)」に日本人は寛容であり、それに期待する。神輿祭りは小池都政もヨイショする。時代の深部を流れるものとして、かつての蓮舫の「事業仕分け」は小池百合子の「都予算査定」に継承されている。

[2 国家への祀(まつ)ろい] 東京五輪へひた走る《いきほひ》を、深部で方向づけているのはなんであろうか。

三上治は、「福島の女性たちが国家にまつろい[祀い]たくない」と話しているという。「国家が生活者というか、地域住民をまつろわせようとする。支配と服従を様々な形をとって降りてくる。福島では原発事故の処理過程において、沖縄では基地建設として」。まつろわない生活とはどのような生き方か。それは何処にあるのか、と三上は問う。

その生き方は、ゴーギャンのタヒチの離島のような《最深部に退行すること》であろうか。タヒチはフランス国家が長い触手を伸ばす植民地である。国家の手が伸びない所など、この地上のどこにもない。国家にまつろわせようとする力と対峙するところにしか、まつろわない生活への道は存在しないのではなかろうか。いま、全国各地の神社と自治会は、国民をまつろわせる装置になっているのではなかろうか。

[3 戦争する社会主義国家] 宮崎は、現存した(現存している)社会主義国家について、「平和と社会主義だと言ったとしても、それは嘘じゃないか。その当時は多くの旧社会主義国があったわけですけど、我々がそちら側にいる[ついていた]。・・・資本主義体制と社会主義体制のどちらが好戦的かといったら、社会主義国のほうが好戦的だった」とふりかえる。

戦後の戦争は、アメリカのしかけたベトナム戦争だけではない。ハンガリー事件、チェコへのワルシャワ軍の侵攻、中国軍のベトナムへの侵攻などの社会主義国が仕掛けた戦争は忘却できない。すでにハンガリー事件(1956年)で雪山(ゆきやま)慶(・よし)正(まさ)(1912-1974)が苦悩していた。その経験がいま思い起こされる(『悲劇の思想家 雪山慶正』、小島亮『ハンガリー事件と日本』、真継伸彦『光る声』を参照)。

[4 世界市場装置としての五輪・万博]  1968年10月21日、いわゆる国際反戦デーで、日本共産党系の全学連に属していた宮崎は2万人くらいの座り込みを経験する。そのときの高揚感で、「このまま行ったら、これはひょっとしたらこの国をひっくり返せるかもしれないというような錯覚」を経験したと回顧する。

ところが、2年後の1970年に大阪万博が開催される。当時の日本人口の(リピーターを含めて) 約75%が大阪万博を見にいった。彼らは岡本太郎の制作した「太陽の塔」を見上げ、宮崎とは別の高揚感を味わったのではなかろうか。2020年の後に二度目の大阪万博を開催したいという。カジノ資本主義の本格化である。原発を隠してカジノで貨幣(カネ)をかき集める。カジノの裏にはタックスヘイブンができる。

国民的騒乱のあとに、万博が開催される。これは実践的な世界市場図式である。日本の1968年の「国際反戦デー」から1970年の「大阪万博」への流れは、中国では1989年の「天安門」から2010年の「上海万博」で反復される。グローバリゼーションへの民衆の直観的反撥を万博が押しのけてゆく。この動輪は19世紀中葉から始まる。かつてのイギリスの1840年代までの産業革命のなかの労働者の反抗は1848-49年革命に高揚する。革命家がその高揚感にひたっているとき、1851年に開催される世界最初の万博「水晶宮のロンドン万博」が着々と準備されていた。マルクスはその準備過程に『新ライン新聞』で注目している。

[5 自由・民主主義の永続性と専制国家《社会主義》] 三上は、マルクス主義の組織・運動における「自由と民主主義」を問う。「マルクス主義自体がその内部の構成権力としては、むしろ専制的な国家権力と非常に似ている。・・・たとえば戦前の共産党が天皇制と似ていた。・・・僕が問題にしてきたのは、そのマルクス主義が自由や民主主義を歴史段階としてはブルジョア(市民)的段階として否定する、社会主義段階の前の段階であると否定的にみていたことなのです。・・・それ[自由と民主主義]は、もっと永続的なものじゃないか」と指摘する(ボールド体引用者)。

自由と民主主義の発展形態としての社会主義を追求するグラムシ的な路線は日本にも存在したし存在しているが、なぜか三上はその路線には言及しない。

三上は、主語としてのヘーゲル国家ではなく、ヘーゲルの『法=権利の哲学』を批判したマルクスの「国法論ノート」を高く評価する。三上は、マルクスがそのノートで「ヘーゲルの国家論、法哲学をひっくり返そうとして市民のいろいろ運動から国民のなかに現われるさまざまな反抗、そこにある自由や民主主義が主語であるということで転倒しようとしている」と評価する。

このように跡づけてくると、マルクスその人の思想と、いわゆる伝統的な「マルクス主義」とは別であることが分かる。この区分は戦後「マルクス主義」史と対抗して、戦後日本のマルクス研究史のなかに、三上の同時代史のなかに、存在してきたのではなかろうか。

市民社会の成員を「主体」にするマルクスではなく、国家を「主体」にする『法=権利の哲学』は、現在の中国の哲学研究のなかで、マルクス研究を凌ぐ勢いで研究されている。現代の中国の統治形態を正当化するためである。「現存したマルクス主義が専制国家的であった」という三上の見解は、現代中国の基本性格を判断する際に参考になるのではなかろうか。

三木清は早くも十五年戦中に、アンドレ・ジッドが『ソヴィエト紀行』(1937年)でソヴィエト社会の画一性を批判したことへの評価や、トゥハチェフスキー将軍処刑の事件(1937年)をきっかけにして、スターリン体制下のソヴィエト社会主義を批判している。敗戦直後獄死した三木清をその死後も陰湿に批判する者がいる。その者には、問題直視を回避してきた自己の知的卑劣さに身もだえする苦悩が赤裸々にしめされている。

先駆的な三木清を別としても、「ロシア革命」を歴史段階的画期とする思想と理論は、早くは1956年のハンガリー事件、遅くとも1989年の「ベルリンの壁の崩壊」で、根本的に再検討を迫られてきた。その再検討を回避するいかなる思想・理論も歴史の試練に耐え得ないであろう。歴史的理性の判断基準・取捨選択は冷厳ではなかろうか。(以上、2016年12月26日)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study806:161227〕