二であることの意味:『最後のひと』について

 

私だけがここから抜け出す術を知っている、とダイダロスは心のなかで言った。それがいま思い出せない。―タブッキ、『夢のなかの夢』、和田忠彦訳

 

 

 僕が恋愛小説について何かを書くなんて奇跡的なことだ。何故なら、このジャンルの小説は僕にとって語るのがとてつもなく困難なものだからだ。「恋愛」という問題に興味がない訳でも、このジャンルの作品を嫌悪している訳でもない。ただ、語るべき言葉を探し出すことが上手くできないのだ。そんな僕が、『最後のひと」という恋愛小説について書くのは極めてナンセンスなことなのかもしれない。でも、一度は恋愛小説というジャンルの作品と向き合って何かを書きたいという思いを僕が常に持っていたのは確かなことだ。

 『最後のひと』という作品を知ったのは偶然だった。作者の松井久子氏から彼女の二冊目の小説が出版されるということを聞いたのは一月ほど前。その時は机に仕事が積み上げられていて、この作品を読むことがまったくできなかった。だが幸運なことに、頼まれていた仕事の期限が延期され、このテクストと向き合う時間ができた。しかし、この小説は単なる恋愛小説じゃあない。75歳と86歳のカップルの恋愛小説。このテクストと向き合って、何かを書こうと思っても、普段、僕が考えている問題とはあまりにも違い過ぎる生活風景が、この物語の中で展開されている。

 困ったぞ。アプローチの仕方が判らない。僕はしばらく『最後のひと』の表紙をぼんやりと眺めていた。考えても判らない時は、いつもの最終手段を使うしかない。パリにいた時にフランソワ先生に習った言語学的アプローチをモデルとしてテクストに向かうのだ。その手しか僕にはなかった。

 こうして書かれたものが、この書評のような形を取りながらも、実際にはテクスト間の連続性と展開とを探求したクリティック。こんな面倒な言葉を使って言う必要なんかないかもしれない。つまりは、一つの感想が書かれたものさ。僕の悪い癖で余計なことを長々と書いてしまったけども、もう本題に入らなければならない時間だ。でも、もう一言だけ言い足さなければならない。このテクストでは、ちょっと難しい言葉を使うのを許して欲しい。そうしないと、僕は、最後まで書き上げるためのリズムが掴めそうにないから。

 

三つのアプローチ視点

 『最後のひと』という松井久子氏の小説を読み終わった私は、三つの問題を考えるべきであると思った。一つ目は双数 (nombre double) の問題、二つ目は特異性 (particularité) の問題、三つ目は援助行為 (étayage) の問題である。この小説は難解なテクストではないゆえに、こうした視点からアプローチを行うことは小説の美的価値をいたずらに乱す行為であるのかもしれない。だが、これらの視点を取ることによって見つめられる地平もあるように私には思われたのである。解釈空間の開示にとって絶対的に正しい方法がある訳ではない。解釈とは何かを見出すことであり、見出すためにはテクストと何らかのテーマについての対話関係を築かなければならない。そのためのアプローチに私が選んだものが上記した三つの視点なのだ。こうしたアプローチ方法に大きな意義を見出すという側面を強調する点で、私はバフチン主義者であったフレデリック・フランソワの弟子である。すなわち、バフチンの対話理論の継承者であると述べ得る。

 それぞれの視点からの解釈的アプローチを行う前に、何故この三つの視点を重視すべきであると考えたかという事柄を簡単に説明する必要があるだろう。第一の視点はジャック・ラカンが『エクリ』の中で語っていた「幸福な数」としての「二」という意味に対する問題を考察するための視点である。「二であること」は恋愛における最小単位であるだけではなく、対話における最小単位でもある。それゆえ、この問題について最初に検討しなければならないと考えたのである。第二の視点はこの恋愛小説が75歳の女性と86歳の男性との物語である点と関連する。恋愛小説というジャンルの中で、今迄に世界中で、何百万、何千万以上の物語が語られてきたが、高齢者の恋愛、高齢者の性を問題にした作品はあまりにも少ない。高齢者の恋愛や性はタブーであるとさえ言えるものだからである。そのタブーにこの小説は果敢に挑戦しているだけではなく、恋愛の新たな形態に対する示唆を与えている。この特異性に関して語る必要性を私は感じたのだ。第三の視点である「援助行為」はジェローム・ブルーナーが言語習得における他者の重要性について語った理論において提唱した概念であり、フランソワがその間主観的 (intersubjective) 意味を更に発展させた側面に基づくアプローチである。つまりは、誰かを「助ける」という行為に対する考察であり、それはこの小説の中心テーマの一つだからである

 これら三つの視点はそれぞれ独立した解釈的アプローチではない。それぞれが密接に結びつき、これから語ろうとするテクストの中核を構成している。それゆえ、私はこの三つの視点を導き糸として選んだのである。しかし、これ以上説明の必要性はないであろう。テクストへの実際のアプローチを開始しよう。

 

双数について:二であること

 『最後のひと』は二人の物語である。主人公の脚本家の唐沢燿子と彼女と恋に落ちるフランス現代思想研究家の仙崎理一郎との。彼女が75歳で、彼が86歳であるという年齢以外には劇的な恋愛が彼らの間にあると言うことはできない。しかし、この年齢は恋愛というものに対するわれわれが持つ一般的イメージの範囲を大きく超えている。この点は『最後のひと』の物語構造の中心にある特異性である。だが、特異性の問題は次のセクションで詳しく語ることとして、先ずは第一の視点としての「双数性」について考えていきたい、

 どれ程自由に振舞おうとも、燿子は老いゆく自分を抱えながら実際の他者が作り上げる、あるいは、自らの中の他者が作り上げる「世の中」や「世間」というもの (ラカンなら「大文字の他者」と述べるだろう同調圧力を強いるシステム) に抑圧されながら生きている。こうした燿子の心情は「後期高齢者になると、医療費の自己負担が一割になったり、市営バスの無料パスが貰えるようになるなど、いくつかの恩恵あるものの、昨日までよりもさらに世の中から外れた存在になったという感覚は否めない」という言葉で表現されている。理一郎もやはり同じである。「(…)〈老いの憂鬱〉と〈死の恐怖〉から逃れる術が、唯一、毎日の生活を規律正しく送ることなのだった」という彼の規律の重視は、自らの存在性の確認だけではなく、大文字の他者への服従でもある。この二人の生活状況は、中心部である「我」とその外部である他者によって世界が構成されているという明確に二分化された構造を持つものである。中心部には核となる「我」があるが、中心部も世界に内在しているために、「我」は完全に外部にある他者の抑圧に孤立して晒されている。それゆえ、世界の核である「我」は常に一人で世界と対峙しなければならない。そうした世界の構図の中に燿子と理一郎は投げ込まれている。

 しかし、核を構成するものが孤立した一としての「我」である絶対的な必然性は存在しない。世界の中心部を「我」のみとしているのは固定化されたエゴを世界内で維持し続けようとする心的防衛行為であると述べ得るが、そうした思考も一種の幻想であるのだ。世界を内部と外部の二重構造として捉え、世界が内部と外部との対立によって動くものと規定した時、共同体は我と他者との対立図式が統合されたものとなる。そこには「二であること」の幸福は存在しない。だが、「二であること」のエクスターズを伴う幸福な共同体の形成は突然やって来る。燿子と理一郎は心情的にも、肉体的にも「個であること」から「二であること」へと導かれていく。

 二人は一人であることを当然として、如何に一人で生きるかという老年期を送っていた。それが大きくチェンジしたのだ。「ついこの間まで「孤独をいかに受け入れるか」についてばかりを考えていた」理一郎が、「いまは「孤独」を考えるよりも、「一致」の安堵感について、考えている」という言葉を燿子にメールで送る。この言葉は個が個のままで生き続けるのではなく、二が一に向かうことの幸福な結合の喜びを示している。ペアとしての双数は一に向かう二である。燿子の「先生。人は老いても、毎日を幸せに生きる権利があると思います」という考え。その考えを実現した燿子と理一郎。二人は世界が私に対立するものではなく、私と共にあるものであることを、二人が一つとなることによって実践していく。

 

特異性:理性主義の向こうへ

 年齢は社会学や心理学において注目すべき問題となるケースが多々ある指標の一つである。かつて、私は言語習得問題に関する修士論文を書いたことがあるが、その時にもインフォーマントの年齢が問題となった。16歳のインフォーマントによる言語習得の研究は困難であるからだ。しかし12歳ならばよいのか、13歳ではどうなのか。各人は各人に特有の言語習得の過程がある以上、年齢を限定することには大きな問題がある。だが、アヴェロンの野生児をはじめとする実例が、ある年齢を過ぎると言語の習得が難しいという事実を証明している以上、やはり年齢を無視することはできない。われわれにはある年齢特有の問題が数多く存在しているのだ。

 老年期は身体的にも、精神的にも人生の絶頂期を過ぎた時期であると一般的は信じられている。美しい恋愛物語は人生の終わり間近には存在しないと思われている。だが、燿子が理一郎に話したように、「人は老いても、毎日を幸せに生きる権利がある」。人間は死ぬまで不幸であることを望まず、常に幸福であることを求める。それは、心理学上の快楽原則としてのメカニズムであるとも言い得るものであるが、この小説の物語展開において問題となる点は以下の事柄である。前のセクションでも書いたように、辛い状況や惨めな状況に陥らないようにするために、病気や危険な状況を予防したり、精神的にも、身体的にも自らを防衛しながら生きていくという後ろ向きの (ネガティブな) 側面を優先した生き方がある。それは燿子と出会う以前の理一郎の日常的な生活姿勢である。それに対して、たとえ自分がどんなに特異性を有していようとも、積極的に幸福を求めるというポジティブな生き方も存在する。理一郎に会う前にも燿子はそうした生き方があることを知っていたが、一人でそうした生き方を行うことは困難であった。理一郎はそんな生き方があることを考えたことすらなかった。その二人が出会い、二人はネガティブな生き方からポジティブな生き方へと方向転換するハンドルを切る。

 意識的にしろ、無意識的にしろ、燿子と理一郎は老いという特異性を当然のものと認め、いわば世間の考えに従って老人として生きていくことを自らに課していた。その生活は不活発で、静態的で、理性的なものである。だが、自らが特異な存在であることを認識しても、その特異性を肯定的に捉え、生きることは不可能ではない。J. M. G.ル・クレジオは『悪魔祓い』 (高山鉄男訳) の中で、「美とは活動であり、運動であり、欲望だ」と述べているが、恋愛によって再生した燿子と理一郎は恋愛関係を押し進めることによって、ポジティブに生きようとする強い意志を持つようになる。それが老いという特異性の上に築かれた恋愛であるゆえに、その色はローズではなく、高貴さを帯びたパープルの色彩の輝きを放っているが。

 特異性を持った二であることの肯定。それは今まで得ることができなかった世界の開示を可能とするものでもある。それは死に怯える日常と幸福への投企を諦めて理性的に日々を生きることからの脱却であるが、特異性を有することによって初めて獲得できる世界チェンジである。ジャン=リュック・ナンシーは『無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考』(西谷修、安原伸一朗訳) の中で、「特異存在は、諸存在の混沌とした同一性という基底、諸存在の一方向的な受任という基底、あるいは生成という基底、あるいはまた一個の意志という基底からとりあげられるものでも、そこから生い立つものでもない。それは有限性そのものとして出現するのだ-――最後に (あるいは最初に) その同じ特異性の境界で、他の一つの特異性と膚を (あるいは心を) 触れ合うことによって」と語っているが、それは理性主義を超える特異性が持つ冒険の実践の様相を示している。

 

援助行為:存在自身が助ける

 松井氏の最初の小説、『疼くひと』においては高齢の女性の性愛が色濃く語られていた。自立した女の自由な恋愛、常識に囚われないフェミニズム的自立性、年齢に関係しない肉体的な行為の力強い肯定。こうした抵抗する女性として生きる70歳の主人公にはない心情を75歳の燿子は抱いている。それは「誰かの力になりたい」という思いである。

 援助行為は上記したように、他者を助けようとする行為全体を指すが、ブルーナー理論を展開させたフランソワはこの行為を二つに分けている。一つは総合的援助行為であり、もう一つは特定的援助行為である。前者は、その存在自身が他者を助けることに貢献するもので、後者は他者の言い間違いや上手くできなかったことを部分的に助ける行為である。ここで問題にしたいものは、もちろん、前者の援助行為である。「子供は他者の協力を得た時に、一人で行う以上の能力を発揮する」と語ったのは、ブルーナーに大きな影響を与えたロシアの発達心理学者レフ・ヴィゴツキーであるが、一人では不可能でも、二人で協力し合えば可能となる事象がわれわれ間には数多く存在する。

 しかし、年齢によって、所属する社会階層によって、生活環境によって、その他の問題によって負の意識を抱き続け、多くの可能性が閉ざされていく。それを打ち破れるようにするもの、それが共同して何かを行うことの中で発揮される援助行為である。そうした援助行為の中でも、恋愛を通した援助行為は様々な方向へと広がり得るものである。だが、恋愛における援助行為が何故大きな可能性を開くのか。それはまさに、その存在自身が誰かを助けるだけでなく、自分が助ける他者の存在が自分も助けてくれるという総体的援助行為の相互作用が展開されるからである。

 間主観性のレベルは多様なものがある。『最後のひと』を読んでいくと間主観性のある形に気付かされる。それは日常生活の中にある二人で行う行為が「我」の主体性を強くしていくだけではなく、「あなた」の主体性も強くしていくということである。すべてにおいて一人で後ろ向きの、ペシミスティックな人生を送ることしかできなかった理一郎は燿子と出会うことで人生を一変させた。彼の「この、ペシミスティックな老人に新しい生き方を示せる人は、燿子、あなただけだ。『最後のひと』と生きる世界へと、僕の目を開かせてくれたあなたに、心から感謝しているよ。二人で、いままでとは違う明日を、生きよう」という言葉は間主観性の持つ奇跡の力を明確に表している。

 老年期を生きる人間はこれから進むだろう人生の歩みが、これまで歩んできた歩数よりも遥かに少ないことを熟知している。それゆえ、その生活は後ろ向きで、新鮮さがなく、ルーティンの繰り返しだけのものとなることが多い。それはまさに人生をすでに決定済みのものと見做す考え方である。だが、二であることが、ヴィゴツキーが言うように「一人で行う以上の多くのことを可能にする」のであるならば、生きる方向が転回し、新たな道が開けていくのではないだろうか。ル・クレジオは『悪魔祓い』の中で、「すべてのものに知性がある」と述べているが、もしそうであるならば、世界の中をじっと見つめれば、世界は常に変わり得るものとなるはずである。それも一人で見つめただけでは気付かないものでも、二人が協力し合って見つめたならば、世界の中で新たな可能性が大きく開いていく。その扉を開く鍵を燿子と理一郎は手に入れたのである。

 

 『最後のひと』を読むと、恋愛という問題とは別に、常識や世間や一般モラルといった抑圧するシステムに対する反抗という問題が語られていることに気付く。それは闘争的な激しい反抗なのではない。動かし難いと思われていた事象への固定観念を溶解させる柔らかな抵抗の歌であり、再生への賛歌である。その歌には二人の声が響き渡っている。

 タブッキの『夢の中の夢』で、ダイダロスが思い出せなかった閉じ込められたここという場所からの脱出方法が思い出される。世界はここにだけあるものではなく、開かれているのだ。月に恋するけものの男を助けることで、ダイダロスは迷宮を抜け出す方法を思い出し、この男に翼を与えた。『最後のひと』でも、幸福へ至る道を知っている燿子は理一郎に翼を与えた。翼を与えただけではなく、自らも翼を得て、二人で手を携えて飛翔して行く術を得た。

 世界には一人だけではどうにもならない難問がいくつも存在している。だが、二人であれば、二人が助け合えば、開かれる扉も数多く存在している。この意味で、『最後のひと』は柔らかな安らぎの光を放つテクストでもあるのだ。

 

 僕はこの話をもうすぐ終えようと思う。僕は取るに足らない、余計な話ばかりを行ったかもしれない。小説それ自身を語らずに、何度も横道に逸れた話をしたかもしれない。それだけではなく、詰まらない事柄を長々と語ったかもしれない。詰まらなかったと思ったら、僕の言葉など、すぐに忘れてくれ。批評などを読むよりも、作品それ自身と向き合うことの方がはるかに重要なことだから。

 ただ、もう一言だけ、言い足すことを許して欲しい。『最後のひと』という小説を読み終わった時、僕は何故だが清岡卓行の詩、「氷った焔」のあるフレーズを思い出した。このフレーズが『最後のひと』と深く関わるとは必ずしも言えないものであるのだけれども。その言葉はこうだ。

どこから世界を覗こうと

見るとはかすかに愛することであり

病患とは美しい肉体のより肉体的な劇であり

絶望とは生活のあたまであってしっぽではない

 僕の恣意的な想像は、燿子と理一郎の氷った世界に火が灯ったイメージを思い浮かべていた。それがどんなに弱く、か細い炎でも、二人であることによってその火は消えることはない。その光がどんなに小さなものであっても、いつまで灯り続けるか判らないものであっても、希望がある限り、その灯は消えることがないものである。二人であることのマジックが、そこには記されているのだから。

 

 

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

宇波彰現代哲学研究所 二であることの意味:『最後のひと』について (fc2.com)

記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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