公開講座のようなかたちで自由について考えるという講義があるのを見つけた。巷のバタバタの中で生きてきただけで哲学のように高尚な話はお伺いする機会もなかった。文系の素養もないし基礎教育すら怪しい、講義をお聞きしても何も分からないのではないかと心配しながらでかけた。
ヨーロッパの哲学史上を飾る哲学者が自由をどのように考え定義してきたかのお話だが、聞いたことのない固有名詞-多くが人名や学術用語-が容赦なくでてきた。講義が始まってすぐ、とてもついてゆけないと半分以上諦めた。それでも折角来たのだし、分かる範囲でお聞きできればいいじゃないか、分からないながらも次に考えるヒントくらいは拾って帰りたいと思って傾聴させて頂いた。
初めて聞く固有名詞は音からだけでは正しく聞き取れない。メモをとることすらままならないまま、十分、二十分、分からないままなんとか話について行こうとした。お聞きしているうちに話にあるパターンがあったことと馴染みのある人名や著書のいくつかが話の中核に位置していることが幸いした。誰それがこう考え、こう説明したというくだりを何回かお聞きしているうちに、全体像のなかのどの部分に関しての話なのか、話の骨格全体がぼんやり見えてきた。
若い時に必要最低限と思った哲学書を手にして概念の構築とその骨格をかたちづくる用語の定義に四苦八苦するとともに、説明しがたい快感を味わったことがある。その四苦八苦と快感の経験を呼び覚まされたが、巷の社会経験で擦れてしまったのだろう。当時のように、大げさに言えば陶酔とでもいうのからは程遠かった。寂しさとともに自分の歳とその歳に至った社会経験が多少なりとも嬉しかった。
哲学とはかくも面倒なのかと思いながら、実は哲学を勉強するという姿勢がその面倒さを生み出し、それを強めているような気がした。歴史上に燦然と輝く哲学者の偉大な足跡から多くことを学ばなければならない。しかし、これは哲学に限ったことでもなし、自然科学でも人文科学でも、さらにいえば学問体系に整理されていようがいまいが人として営々と続けてきたことであたり前のことに過ぎない。ただ、このあたり前のことを厳密性が必須の学問の領域に持ち込むと、収拾のつけようのない状況が生まれる可能性というのか、問題がでてくる。
多くの哲学者が自由とはいったいなんなのかを説明してきた。それぞれの哲学者が先人から学び、学んだものの上に自らの境地を築き上げる、あるいは先人が気がつかなかった領域を切り開き、新しい視点に立った境地を創りあげる。多くがなんらかの類似点とともに何らかの相違点がある。誰の主張が正しくて、誰の主張が至らないという話でもない。これこれの視点でみればこうと言える、こっちの視点では、あっちの視点ではという視点の違いによる相違がある。それぞれの哲学者が活躍した時代背景もあれば、その時代にどのような立場で社会に向き合ったかに、何を基軸に思考を展開したかによって必然的に違う考えが整理されてでてくる。
この多くの類似点に少しずつ違う点を一覧表のようにまとめて、それぞれの哲学者の学説を評価すれば、はたして自由とはなにかの説明がつくのか?自由ではなく、民主主義でもいいし、平等でもいい、常識でもいい。どのようなことでも、考える対象と、それを考え、分析し、整合性のあるなんらかの説明を試みる人がいる。試みる人が複数いれば、またその複数が時間的に歴史や文化、。。。さまざまな違いのあるところの複数の人たちであれば、たとえまったく同じことを見て考えても、その結果としての説明は人の数だけの違うものがでてくる。さらに同じ人でもその人がいる社会が変われば、またその人の見る視点が違えば違う説明があるだろう。
全ての人が、自分の日常生活をおくるために見て、考えて、整理して、少なくとも自分に対して納得のゆく説明をくりかえてしている。説明は多くの人たちにとって日常生活と、そこからちょっと手を伸ばせば届く範囲のことの実生活に基づいた納得のゆくものでなければならない。たとえ知識で強制的に納得させ得たとしても、日常生活には無縁な、説明される人にとってどうでもいい領域のことであれば、納得する、しない以前に興味の範囲から外れる。
日が出て働き、日が沈んで終わる生活しかない人にとっては、太陽が地球の回りを回っているのが生活の事実で、太陽の周りを地球が回っているのは知識としての事実でしかない。温度が高い、低いは原子や分子の運動エネルギが熱エネルギに変換されたものを人間が実生活に使いやすい温度という測定方法(単位)で測定しているに過ぎないと言われても、天ぷらを揚げる温度は何度にすべきか、パン生地の発酵温度は。。。の世界で生きている人には温度計で測った温度が事実であって、原子だの分子だのといった話は、それこそ知っていても得も損もないただの雑学の類の知識としての事実でしかない。
こうして考えてくると、事実は、少なくとも人が事実と認識するものは、唯一無二のものではなく、人それぞれの事実があるということになる。人それぞれの社会で人それぞれの納得のゆく事実が、人それぞれにとって生きてゆく上での事実であって、たとえそれがその小社会における事実に過ぎず、それを超えた社会では事実でないとしても、小社会における事実以外は、よくてもかたちながらの知識としての事実としか受け入れられない。
巷の日常生活の事実と学術上の事実、どちらが本来の事実か?問うまでもない。ただ、学問体系に裏付けられた事実を持ったとしても、日常生活か、そこから一歩出たにすぎない小社会で自分(たち)の事実を事実として生きている人たちと、何らかの事実を共有することでしか社会が成り立たない。それぞれの小社会の事実で生きている社会の多数派の一般大衆と呼ばれる人たちが、間違いなくこちらが事実のはずという事実を持っている人たち(しばし学者や先生方)の社会における存在意義を高めもし低めもする。
学問として厳密に事実を突き詰める作業なくしては社会もなにもあり得ないのだが、突き詰めれば突き詰めるほど、巷の数ある日常生活の事実との折り合いをつけるのが難しくなる一方のような気がする。折り合いなど、つける必要なしと言い切るわけにもゆかない。さりとて日常生活の事実で十分であろうはずもない。先生方の事実と数ある日常生活の事実の折り合いというのか渡りをつける努力をし続けるしかないのだが、誰ができるのか?どう考えてもそれは事実を突き詰めてゆかれる先生方以外にはあり得ない。ところが先生方は先生方で、どうも先生方同士のなかに閉じこもりがちで、どこまで折り合いなり渡りをつけようとされていらっしゃるのか。いらっしゃれば、もっといらっしゃれば、あるいはその成果が十分上がっているのであれば、先生方がもっと活きて頂ける社会になっているはずだと思うのだが、どうだろう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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