旋盤を据付に一泊二日の予定でデトロイトに行った。空港から地図を見ながら客の住所の建物にはたどり着いたが、その先が分からない。機械加工工場としてはそこそこの大きさの建屋なのだが、受付もなければなにもない。こんなところから入っていいのかなと思いながら小さなドアを開けたら、細長い建屋の中央に通路が走っていた。通路の両側にいろいろな機械が並んでいる。通路を歩き始めて、並んでいる機械が何か奇妙で落ち着かない。生産ラインを見慣れた者の目には、機械の並び方が異様に見える。それは支離滅裂と言っていい。工場では加工する物を工程順に出来るだけスムースに機械から機械に搬送したい。おおまかにしても、搬送が機械や装置の場所を決める。そのせいで、余程のことでもなければ、どこも見慣れた配置や並びになる。その見慣れた配置が、始めて訪問する客であっても、なんらかの親しみを感じさせてくれるのだが、それが全くなかった。
左右を見ながら通路を歩いていったが、旋盤が見つからない。親切そうなオヤジさんに客の担当者の名前を言って、どこにいるのか教えてもらった。真っ直ぐ歩いていって、反対側の入り口の近くで旋盤を見つけた。四十前後の社長と三十をちょっとでたパートナーの二人が待っていた。二人とも最新鋭のNC旋盤を購入して興奮していた。一時間でも早く使いたい。一日でも早く稼動して投資した資金を回収したい。オーナー社長には随分会ったが、この二人ほど熱意のある(切羽詰った?)人たちはいなかった。
ちょっとしたことを頼んでも、脇目も振らずという感じで動きだすから、頼んだ方が引きずられる。熱意に押されて仕事も速くなる。その日のうちに据付作業を終えてしまった。翌日、旋盤の基本機能と加工プログラムの基礎を説明して、サンプルの加工プログラムを一緒に作成した。サンプルをいくつか加工して作業を終了した。
車で二時間やそこらのコネチカット辺りの客であれば日帰りで終わる作業なのだが、デトロイトでは一泊二日の出張になってしまう。作業そのものは一日もあれば十分だから、なにかハプニングでも起きない限り、客と世間話をする時間の余裕がある。
社長とパートナーの二人で始めたばかりの会社だった。社長はユーゴスラビアから仕事を求めてアメリカに渡ってきたセルビア人で根っからの職工さんだった。自動車部品加工の工場で働いて貯めた金に、パートナーの支援を得て会社を設立した。
自動車部品の賃加工ビジネスの話から始まって、ユーゴスラビアの労働者による自主管理社会やチトー大統領の話にとんだ。チトーは本物の共産主義者だ。みんながみんなチトーのように本物じゃないから上手くゆかない。上手くゆかないところでやってるより、いっそのことアメリカに行ってしまえばという感じで出稼ぎに来た。ユーゴスラビアは問題だらけだが、アメリカはそれ以上に問題だらけで、好きになれない。でも、金を稼ぐにはアメリカの方がいい。ただそれだけの理由でアメリカにいる。
話を聞いていて気がついたのだが、そこそこの大きさの機械工場に見えたのは、今でいうインキュベータに相当するものだった。購入した旋盤と賃加工で入ってくる加工物を置くスペースを借りていた。周りは彼の会社とは関係にない別の会社で、色々な人たちが床スペースを借りて、機械や装置を置いてそれぞれの仕事をしていた。お互いに助け合ったり、競合したりの関係で会社間に加工プロセスの流れがない。
いくつかの部品を加工して、機械の機能にも性能にも満足していた。三人で世間話をしているうちに、彼らの夢を聞かされた。二人の強みは、二人しかいないことにある。二人の生活費をまかなえるぎりぎりのところまで賃加工代を抑えられる。会社の体をなしていれば間接費がかかる。二人にはそれがない。いざとなれば価格戦争をしてでも仕事をもぎ取ってこれる。そこは、痛んだとはいえ、まだまだ力のあったビッグスリーのお膝元、自動車部品の賃加工の仕事はいくらでもある。二人で一所懸命やれば、五年かそこらで億万長者だと夢を描いていた。
数ヵ月後に機械をぶつけた。ぶつけたときの破損を最小限に抑える部品が壊れただけで、部品を交換して精度出しすれば終わりだ。部品を交換して精度を確認したら、衝突のショックでズレていた。ズレをなくすには二百キロをくらいの刃物台を取り外さなければならない。スパナやレンチはあるし、ちょっと特殊な工具でも周りのオヤジさん連中に訊けば誰かがもっている。ただ刃物台を吊り上げるには、どうしてもフォークトラックが必要になる。社長が、心配するな、すぐフォークトラックを借りてくるからと言って出て行った。二時間近く経ってフォークトラックを運転して帰ってきた。
なんとかしなきゃという熱意がほとばしっていた。この機械が一日止まると何千ドルもすっとぶ。一時間でも二時間でも早く復旧しなければ、加工品の納期にまで影響がでる。ぼんやりしている時間はない。二人には夢と心中することはあっても過労死という言葉はない。それこそ寝食を忘れて、明日のために、夢の実現に向けて働き続ける。それが生きがいになっていた。
二人の熱意というのか、夢からほとばしったエネルギーのおかげで、一時間でも早く復旧しようと、それこそ息を止めてまで作業に集中した。それは強制されたものでなく、かといって自分自身から湧き出てきたものでないことも確かで、二人の熱意に感染した病気のようなものだった。自分で自分を説得して自分で作り上げた熱意より感染した熱意の方がひっかかるものがなくて気持ちよかった。
自分から出てきた熱意には、恣意的な、自分でも胡散臭いと感じる何かが見え隠れする。人からもらった熱意にも、似たようなところがあるはずだが、分からないで済ませる。出自も違えば文化も違う、違う距離が大きければ大きいほど、分かろうとしたところで大して分からない。そう思うと、分かろうとしないことを気持ちの上で正当化できる。
分からない分、熱意を純粋に近いかたちで活かせる。自分の熱意でより人からもらった熱意の方がいいいうのはないだろうと、なんども考えたが、なんど考えても同じ結論になってしまう。自分の夢はどことなく怪しいが、付き合いの浅い人の夢には怪しさを感じないですむというのか、そのまま受け取ってしまいたくなることがある。人の夢はいいけど、自分の夢はどうしたと自問しながら、今日まで夢というものがあったような気がしない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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