中の下の社会層の人たちが多い、くすんだ町の一軒家。庭もなければ芝生もろくにない敷地に小さな二階建て、見た目からして豊かなアメリカからはほど遠い。そんな一軒家の地下室が下宿だった。大家のおやじさんが心臓疾患で早々に引退していた。経済的に苦しいのだろう、一階に大家夫婦が住んで、二階を二十代半ばに見える若い夫婦-ハリーとアンに貸していた。
小さな家に四台の車が止まっていた。おやじさんの年代もののキャディラック。おばさんのよく乗っているなと思える古いボルボ。何度か乗せてもらったが、どちらもいつトラブルってもおかしくない。そんな二台の車が、まだまだまともに見えるほど二階の夫婦の車はすごかった。あちらこちらがぶつけてデコボコで、もうどこでどうぶつけても惜しくない、痛んだアメリカの象徴のような車だった。運転席側のドアは落ちないようにボルトでボディに固定されていた。開け閉めできないから、助手席から乗って、運転席にずれるようにして移動しなければならない。前のバンパーも落ちないようにワイヤでボディに固定されていた。そんなおんぼろ車が夫婦二人に一台しかない。
出張も多く、ハリーとアンと顔を合わせることは数えるほどしかなかった。会えば軽い挨拶をするだけで、お互いになんとなく距離をあけていた。ある日の昼過ぎ、いつものように地下室のドアを開けたら、バーベキューの美味そうな匂いがしていた。どこでバーベキューと思いながら階段を上り始めたら、階段のすぐ脇でグリルを開いてハリーが何かを焼いているのが見えた。
二人でバーベキューはないだろうと思いながら階段を上がったら、もう一人いた。ハリーの高校時代の同級生だった。なんとなく誘われたような、誘われなかったような、微妙な感じでお邪魔して少しご馳走になってしまった。同級生の名前は覚えていない。ちょっと見にはアメリカ人というより、小柄の痩せて青白い東欧系に見える。簡単な自己紹介をしてビールを飲みながら世間話になった。
ハリーもアンもとっつきにくい印象だったが、話してみればフツーのアメリカ人で、友人にはなれないにしても親しい知り合いにはなれそうだった。大家からハリーはユダヤ系でアンはアイルランド系と聞いていた。おばさんは口には出さないが、おじさんは、あからさまにアンはいい子なんだけど、ハリーは、という口調だった。ハリーとはそりが合わないのか、なにか背景にあるのか分からない。
ハリーは銀行で窓口担当として、アンは図書館かなにかで働いていた。一台のポンコツで、毎朝ハリーがアンを職場に落としてから出勤、夕方はアンをピックアップして帰宅していた。銀行ならいい給料なのかと思ったが、窓口業務のような下っ端は、誰にでも置換えの利く仕事で給料も安い。ハリーがあれこれ言っていたが説明はいらない。車をみれば分かる。それでもユダヤ系の流れなのか、仕事は銀行や金融系と思うのかもしれない。
ハリーが、こいつは優秀なヤツで高校までに二回飛び級してと、そんな同級生がいることに多少の自慢でもあるような口ぶりだった。横で聞いていた同級生が、ちょっと恥ずかしそうな口ぶりで、教育ママに尻を叩かれ続けて、飛び跳ねたら一つ上のクラスだったと笑いにした。ハリーと同じユダヤ系の家系で、ウィットのある穏やかな話し方に知的レベルを感じる。
ビールを飲みながら、彼らの日常や日本のことを話していて、教科書的には避けた方がいいといわれている宗教と人種の話になった。ハリーとアンの結婚は両方の家族からかなりの反対があって、結婚して数年になるが、いまだに家族との行き来がないままだという。ユダヤ系がカソリックと結婚すれば、ユダヤ系の教会に行けなくなるだけでなく、あらゆる宗教行事や結婚式や葬式などにも出席できない。それはユダヤ系と結婚したアンにしても同じことで、家族や親戚に多くの知り合いとも行き来がなくなったといっていた。村八分の残りの二分もない立場なのだろう。
正月気分を味わおうと、人並みに初詣にゆくことはあっても、宗教やそれに関係したことには縁がない。三人に、どんな宗教も反科学的で、論理的思考の妨げにはなるだけだ。そんなものは信じないと言った。事実が支配するエンジニアリングに身を置くものとして、科学的でないものや説明のつかないものには生理的な嫌悪感さえある。生の生き様からスルッと出た言葉で、何も特別なことを言っているつもりもなかったし、それがどう受け止められようが、事実が事実であるだけでしかないと思っていた。二十代の半ば過ぎには、人それぞれの事実があるかもしれないなど想像すらできなかった。
三人とも日本については何もしらない。戦時中の狂信的な軍国主義とフジヤマにゲイシャだったのが、いつのまにやらテレビやカメラから自動車などの工業製品になった、何か奇妙な国で人たちだったろう。その世界からきた同世代が、拙いにしてもはっきりした口調で宗教を否定したのに驚いただろう。驚いた顔を見て、とんでもないことを言ってしまったのかと焦ったが、喜ばれるとんでもない意見だった。自分たちの結婚について肯定的な響きのある口調に、三人にそれまでと違った親しみの微笑があった。まさか、文化的に遅れていると思っている日本人から、そんな意見が出てくるなど予想だにしていなかったと思う。宗教に縛れた社会から逃れきれない二人と、ユダヤ人社会にしかいられないと思っている若者には新鮮な響きだったのだろう。
親しい間柄でも宗教や政治の話は避けた方がいいと言われている。確かのその通りだと思う。下手にその領域に入るとお互いの立場、よって立つ歴史や歴史に裏付けられた文化に個人としての思いから、ただぶつかり合ってお互いイヤな思いをするだけで、何も得るところがない。
それでも、お互いの文化や志向の基にある宗教(たとえ無神論であっても)や人種に関係したところを避けていたら、挨拶程度の表面的な付き合いで終わる。そんなことでは、お互い刺激されることもないし、違った視点があるかもしれないことすら知りえない。ニューヨークには世界中から色々な人たちが色々な文化を抱えて集まっている。その集まっている人たちが、それぞれの存在を隠すことなく主張して、文化と文化がぶつかり合って、次の時代の文化が生まれる。相手の存在を認めることもなく、自分の存在を主張もせずに、ただ距離を空けていたら、せっかくニューヨークにいるのに、その一番の価値というのか意味を活かせない。
ニューヨークに赴任するまで、アメリカは人種のるつぼと聞いていた。確かに街を歩けばいろいろな人たちが、日常的には分け隔てなく生活しているように見える。そこでちょっと生活していると、人々はたいして溶け合っていないのに気づく。ルイはプエルトリコで、ローラはスイス。モニカの祖父は中国人。それでも黒人と白人のカップルを目にすることはなかった。
るつぼに入れば、溶けて融合する。融合すれば、お互いにお互いを峻別する違いが溶けてなくなってしまう。自己が消えてなくなってしまう。ニューヨークでは、よくも悪くもそこまで融合しきっていない。混ざってぶつかって違いを確認して、お互いがお互いの違いを認め合う、溶け合うものは溶け合う、混ざるものは混ざる。そこには混ざりきらないものもあって、外れていているものもある。それでなくても人種も文化も体躯も違えば肌の色も違う、社会層も違うし経済格差も大きいアメリカで、いろいろな人たちが混ざり合うまでで、溶け合わない。そこは溶け合ってしまうような人種のるつぼではなく、みんながみんな活きられる、生きようとする人種のサラダボールと言った方が合っている。
溶け合うまでにゆかないにしても、人が混ざり合うことさえ最後のところで邪魔しているものが宗教じゃないかと思う。山でも川でも森でも雨でも、なんにでも神を思ってしまう多神教なら他の宗教に対して寛容でありえるが、一神教では自分たちの宗教、しばし宗派が正しくて、相手の宗教や宗派が間違っているという考えに落ち込みやすい。
人種や宗教に端を発した彼我の違いを感知することの少ない日本では、アメリカのような多民族国家に比べて、人ははるかに容易に混ざり合い、溶け合える。たいしたエネルギーを消耗することなく混ざり合い、溶け合えるのはいいのだが、他者との違いや孤独を恐れるあまり、自ら進んで、まるで煮込みすぎて崩れたシチューの具のように、溶かして自分をなくそうとする文化?までがあるような気がしてならない。他者との同化が進めば、自我の確立が難しい。「いる」というより「ある」という人になりかねない。
フツーであろうとすると他者との同化が求められる日本と、フツーに生きようとすれば他者との違いを覚醒することになるアメリカ。日常生活のなかから、お互いに他者との違いに、とりたてて何をするわけでもなく気が付いて、お互いの違いを認めあう社会。そこは、同化して溶け込んでしまいたいと思う人たちには溶け込み易い、はみ出していなければ自分のありようのない人たちは、はみ出していられる人種のサラダボール。なんでありのごちゃごちゃで、問題だらけのサラダボールのなかから次の社会や文化を醸成する緊張やエネルギー生まれる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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