人間の自然との交渉と科学技術・再考――宮沢賢治への一つの接近――(2)

 Ⅰ 賢治が学んだ自然科学と農業技術
  賢治はその短い一生を広大な領域にわたって多彩に燃焼しましたが、一貫していたものがあります。それが科学を自然に応用する活動です。以下、4回にわけて考えてみます。

 1 求められた「野の教師」
 公共善への意志とその背景
 有名な「雨ニモマケズ」の詩は「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」から始まり、自分では禁欲的な生活をするが、困っている人がいれば自分のことはほっておいて助けに行く「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」で終っています。賢治はそういう人にはなりきれなかったのですが、最後までその願いを捨てませんでした。彼は他のところでこうも言っています。「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」と。それは善を哲学的に研究することでなく、公共善の実行への熱い意志を表すものですが、それだけではとりとめもない。具体的に地道にならねばならない。賢治はどうやったのか。
 愛や善行は戦後日本の大学における社会思想史の研究や教育では相手にされません。日本が受け入れた西欧の近代思想は貴族的道徳や経世斉民の志から離れ、しがない商人や製造業者・農民の間でも秩序が成立することを究明していたからです。人間のエゴを認めてその結果が社会の幸福につながるその仕組の研究です。それに対して善行はもっと直接に全体にかかわろうとするものです。それは日本の近代史では国士的に分配の正義を求めることや革新右翼による世直しとどこかで触れる面もありますが、賢治の場合はそういうものではありません。彼は一時期に国注会に入会して活動しましたが、彼はそこの国体論を受け入れることはなかったようです。また賢治から肥料の相談で助けられた人のなかには彼を「神様」扱いする人もいましたが、彼自身は自分を修羅だと意識し、聖化されることを迷惑に思っていました。そこでこの彼の善行の実際を知らねばなりません。
 賢治の善への意志の背景には彼が育った環境がありました。賢治の家は故郷の町のお金持だったのです。彼の父は古着商や質屋を営んで良く働く人であり、母方の祖父は荒物屋を営んで一代で大変な財産を築き、県の多額納税者となった人でした。だから彼の家は「財閥」と見られていたのです。賢治もそれを気にしていて、農学校の同僚であった白藤慈通が伝えるところでは、賢治は自分の家の富は取引相手の近在の農家を搾取して得たものだから恩返しをしなければならない、土地を農民に返すべきだとまで考えていたようです(参照、森荘巳池『宮澤賢治』)。こういう彼は実際の労働から離れて富を得ることに批判的でした。でも彼自身は社会主義的な実践には入りません。彼は日本で最初の第1回男子普通選挙の時に地元の労農党支部を物的に支援しましたが、富の不平等や貧しさの問題を社会科学的に解いたり、人間の側の制度をどうこうしようとはしません。そもそも彼は政治に向く人でなく、政治の小汚さを悠久の地質史で超越しようとする人でした(参照、詩「政治家」)。「雨ニモマケズ」では喧嘩や訴訟を嫌い、思想の対立や小作争議に対して「ツマラナイカラヤメロ」と書いています。それが戦後に社会主義者から嫌われる要素となるのです。
 試験場と現場をつなぐ
 では賢治はどうやって善行をしようとしたか。彼は科学技術を用いて「新しい人間」革命を考えるのです。自然科学の方法と知識を農民に届けようとするのです。彼はこんなことを言っています。「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」。それには学校に入って研究することもひとつのやりかたですが、彼は専門研究者となって独創性を発揮することには向かわず、科学を現場に届けようとしました。彼は盛岡高等農林高校に入り、そこで学んだことを実地に応用するのです。その内容はこの後に出しますが、大事なことは知識を自分で使ってみることであり、そのために知識は覚えるのであって、いざという時にそれが頭の中から出てくるようにすればよいのです。だから、矛盾的ですが、覚えよ、而して忘れよ(!)なのです。
 こんな賢治の態度にも時代の背景がありました。政府は明治維新後、食糧増産と殖産興業のひとつとして農事試験場を設け、科学的知識の普及を図ります。農業を俗にいう経験農業から西洋式の科学農業に代えようとするのです。この科学農業は政府だけでなく帝国農会の大地主によっても求められました。政府も地主も農民を見て、その多くは良好な成績を収める品種や農法を前にしてもそれを取り入れる進取性に乏しく、ただ豊作を夢見る「堕農」や反対に凶作を恐れる「怯農」とみなしたのです。むやみと深く耕し、苗を何本も一束にして植え、金肥を考えもなく沢山入れる農民もいました。科学は研究者だけのものであってはなりません。農民が生活と経営を安定したいという目的意識をしっかりもち、何をどれだけ作るかの目標をはっきりたてるならば、どうしても土や肥料・気象などを客観的に知らねばならない。そして習慣や憶測に頼るのでなく、科学的研究を自分の事として、地下の目に見えないものを目に見えるようにせねばならない。物質の化学式や炭酸同化作用の光合成の仕組は学校で学ぶだけのことにしてはならないのです。ただそうは言っても、伝統農法であった人糞尿の使用が作物に良いことは西洋科学によっても裏づけられており、土の状態を手や舌の感覚で知ることや昔からの言い伝えには合理的なものもありました。賢治はそれをちゃんとおさえていました。
 さて政府は財源の大きな部分を地主からの地租に大きく頼っていました。地租は地主が小作人から小作料として取り上げた米を売り、その代金で納められます。政府はこの財政を維持するために米作の専業化を進めたのですが、これは当時の柳田国男が農本主義と批判していたように、農家の伝統的で自然な副業経営を破壊するものでした。やがて政府もその不合理を認め、養蚕や果樹栽培を奨励するようになります。亀井茂の論文「宮澤賢治と盛岡高等農林学校断片」によると、高校の玉利校長は米の裏作として燕麦・トウモロコシ・ジャガイモの栽培を勧めていたようです。
 始めに戻りますが、試験場からは沢山の調査報告が出ました。それは農学の繁栄を示しますが、役に立ちませんでした。報告書の文章が農民に難しすぎたのです。土を知ったからと言って、それが実学になることはない。こんな農学が栄えても農村の幸福にならないのです。試験場の科学的研究と現場の労働とをつなぐことが求められます。平民主義者の山路愛山は『社会主義管見』(明治39年)でこう書いていました。今では読みにくい文章ですが――明治政府は農事試験場や農会を設けて科学知識の普及や経営の組織化を計ったが、そこに問題があった。試験場は調査して報告書を出すが、それは科学的であるとしても、農民には理解しがたかった。農会による技術の組織化も官僚的になりがちであった。専門研究者や役人と田畑に入る農民とをつなぐ技術者が必要になる。「是れ蓋し法文徒に具りて之を運用すべき人物に乏しきに依らずんばあらず。然らば即ち如何にして農業に関する国家の活動を具体的ならしむるを得る人物を得んとする乎。…之を郷党の長者…、愛郷心に富める老農に求めよ。而して専門の知識或るものをして其使役に供せしめよ。」
 横井時敬も「農学栄えて、農業亡ぶ」と言って、農学の知識が日本の土壌に合うように適地適作となっていないことを、また農政が農民の利益を考えずに農業振興を説くことを批判しました。技術者が自分から田んぼに入って農民を指導するようなことも少なかったのです。横井が明治39年12月に講演「農業の根本的改良」で述べたように「農民の相談相手」や「野の教師」が必要になるのです。
 賢治はその一人として出てきたと言えます。彼の技術指導の内容は既存の機関がすることと変わりなかったのですが、まったく異なる点がありました。それは「隣人を愛す」る(堀尾青史『「年譜宮沢賢治伝」が紹介する安部繁の言葉』)気持をもってなされたことです。
 注 日本の近代農業による深耕多肥の農法は植民地の韓国に導入され、試験場を中心に広がりました。それは農村の現実と異なり、伝来の農法を無意味に消していきます。

 2 賢治の夢――復命書から 
 賢治には「夢」がありました。今は夢ばやりの感がしますが、われわれも夢とまで言わずとも、何らか意味のある目標がないと生きてくことはできません。
 賢治は花巻農学校で教職にあった(1921―26年)1924年のこと、5月18日から23日にかけて北海道に修学旅行に出かけました。彼は旅行から帰って学校に復命書を提出するのですが、それがいかにも賢治的なのです。復命書は学校から出張を命令されて帰った後に提出する報告書のことですが、普通であれば形式的に書くだけなのに(――私もそうでした)、彼は自分の願いをも込めて実に几帳面に内容豊かに書くのです。そこには教職に就く以前の盛岡高等農林で学んだことが背景にあり、後に実際の農業についた時の羅須地人協会および東北砕石工場での活動につながるものがあるのです。
 まず賢治らは小林多喜二を出していたあの小樽高商を訪問し、商品標本室で粗製の農産製造品と精製工業品との関連を見ています。その例が馬鈴薯を原料としたドイツの商品でしたから、日本にも化学工業関連の第2次産業革命が及んでいたことがうかがえます。それは町づくり村づくりに関わるものであって、賢治は故郷の花巻でもこの種の農産加工品の生産と販売は可能だと見ています。
 次にこの旅行の1番の目的である札幌に行き、札幌麦酒会社を見学して瓶詰の工程が自動化されていることに驚いてしまいました。農業は工業と違って自然のリズムに縛られるのでそんな自動化はできませんが、賢治はその違いは程度の問題だと考え、農業でも働き方を変えれば進歩は可能だとして、こう思うのです。「太陽光線集中貯蔵の設備」ができれば、農作業は苦労の多い鈍重労働でも傍観農業でもなく、工業労働よりもずっと「楽しかるべき自然労働」となり、農村は幸福になるだろう、と。これは彼の「働き方改革」というものです。現在の植物工場は賢治の理想に近い施設ですが、それのプラス・マイナスはよく見ておかねばなりません。同じころに理化学研究所の大河内正敏が資本主義工業に対抗して科学主義工業を唱え、他方で農業の工業化を展望しましたが、賢治もその部類に入るのです。彼は2年前の1922年5月には小岩井農場(現在もある!)を訪ねていますが、そこの近代西洋式大型農場に学ぶべきものを見ていました。広大な農場が管理部・育馬部・育牛部・耕転部と組織され、耕地は2頭立ての馬が均し、農夫が整然と並んで作業をしている。北海道の農場はそれに近いのです(山田盛太郎『日本資本主義分析』における北海道型)。それと比べると、故郷の花巻近郊の農村では耕地は区画整理が進まず、農道は曲がりくねっており、代掻きは馬と手綱ひきの助手および農夫でなされ、稲刈りも手作業でなされていました(同、内地東北型)。
 さてビール工場の後で賢治らは北海道大学に行き、総長から講演を受け、内地の古くからの土地では北海道のような新規の開拓地と異なって旧慣を破るには多大の努力を必要とすると説かれましたが(――もう少し後になると、島木健作が『生活の探求』で旧慣の再評価を行なう)、それは賢治が覚悟するものになります。また北大の農場を見学して亜麻が連作されて土の色が変っているのを見つけたことも教訓になったでしょう。市内の植民館では初期の開拓が苦労の末に「楽しき田園」を作ったという歴史模型を見て(――アイヌ先住民との関係は消えている)、岩手県にもこのような模型をおいて農民に将来の田園生活の目標を与えると良いと感想を書きますが、賢治はやがてそれを実行していきます。また北海道石灰会社で石灰岩抹が売られて酸性土壌を改良していることを知り、故郷にもある石灰岩を使って地質学で言う洪積世土壌にそれを撒き、草地は緑肥となるクローバーと牧草のチモシーで覆い、田にイネを育てようと心に期します。これは彼の運命となる石灰です。
 最後の苫小牧では散状の村落に目をやり、亜鉛板で覆われた家を見て、故郷にもこのような採光通風のよい家を作り、白樺やドイツ唐檜等を植えて明るくしたいと思うのでした。
 以上の復命書から賢治がどういう人かが分ります。彼は東北の農村の遅れと貧しさを自然科学と農業技術で克服しようと考えるのです。どこかナロードニキ的な態度で。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study953:180322〕