人間の自然との交渉と科学技術・再考――宮沢賢治への一つの接近――(3)

 
 3 関豊太郎から地学と農学を学ぶ
 
 海温が米の収穫を左右する
 宮沢賢治は盛岡高等農林学校で自然科学系の教育を受け、自分でも地質の調査をしています。明治以来の国家政策は商工業優先であって農業は後回しにされ、その農業も地域によって東北と南西で格差がありました。この学校は遅れていた東北の産業を振興するために日本で最初に作られた国立の研究教育機関でした。その方法と内容を部分的でも概観しておきましょう。
 政府や大学は科学を西洋から招いた者や輸入した文献から学んだのですが、そこに問題がありました。学ぶことが表面に流れ、科学の精神を身につけるのでなく、できあがった成果を直輸入しがちであったのです。次の例のように、福沢諭吉が揶揄していた類の「開化先生」が残っていました。作物の養分には窒素・リン・カリ・石灰とありますが、それらの間には必要量の比率があり、それは日本と欧米で違っていました。日本は窒素を除けば他の成分の比率は非常に低かったので、その不足分を補わねばならないのですが、指導者は欧米の真似をして施肥していました。またこういうこともありました。ドイツには「石灰ハ父ヲ富マシテ児ヲ貧シクス」という石灰濫用を戒める諺がありましたが、それが日本に伝わると、ある地方では石灰禁止令が出されたのです。石灰を戒めたのはその連用による害を避けるためであって、適量の施用を妨げるものでなかったのです。国内でも東北地方は寒冷地なのに南西の暖地の先進的農法をまねして、地元の土と気候にあった適地適作をおろそかにすることがありました。賢治は土地のそれぞれの実情も考えないで科学が入り込んでくることに不満でした。
 それでも日本で独自な研究をする者が出ていました。古在由直(足尾の鉱毒調査をした人)や大工原銀太郎であり、関豊太郎らです。そのうちの関は賢治が高等農林で学んだ先生であり、賢治に大きな影響を与えます。関は夏の冷温と米の凶作との関係を、そして作物の生育と火山灰地の関係を研究した人でした。
 まず前者について。東北では当時、冷害が深刻でした。賢治の故郷である東北の東部では収穫の有無や多少は陸地に吹く冷たい東風(ヤマセ)や日照時間によって左右されていました。この事情は今日でもおおむね同じです。関は冷温の原因を調べ、それが三陸沿岸を北から流れる寒流の親潮と南から来る暖流の黒潮の双方の勢いの状態に影響されることに注目しました。親潮の勢いが黒潮より強くて親潮が南下したところへ東風が吹くと、陸地の気温は低下する。これは海温説と呼ばれたものです。関は気象を観測して6月の田植期より前の春にこの傾向が現れると、その年は冷害になると予測していました。また彼はその予測を補強するために、漁民の言い伝えも引き合いに出しました。米は暖流魚のカツオやマグロが大量の時は豊作であり、寒流魚の赤魚が取れたりオットセイが現れると凶作だというものです。このように関は当時の洋行帰りのハイカラ博士と違って地元民の経験に聴く耳をもっていたのです。賢治も同じでした。
 ところで当時は親潮南下説のほかに太陽黒点説がありました。これは太陽の黒点の活動は11年を周期にして盛衰を繰り返すが、その盛んな時に降雨量は増えて晴天の日数は減るから夏季の平均気温は低下するというもの。賢治もこのことを知っていて、後でみる羅須地人協会で絵図を使って講義しています。私も少年のころ教えられました。
 以上の2つの説は『グスコーブドリの伝記』で取り入れられていきます。
 ここで前掲の亀井論文が紹介していたことを出しておきます。私がこの賢治論の「はじめに」で出しておきましたが、科学研究と予知の関係如何とは別次元のことということです。関が行なった気象の予知はまだ十分な科学的根拠に基くものでなかったのです。関は春の東北沿岸の海水温をもとにしてその年の稲作の豊凶を予測しましたが、彼はまだデータが足りないので完全な断定はできないことを自覚していました。これは科学者の態度として当然のことでしょう。でもそのデータが狭い1地域の材料であっても、また観測体制が精緻で広くなくても、海水温と豊凶を結びつけたことは優れていました。両者の関係は大まかなパターン関係(AならばBとなる)ですが、それをもってかなりの確度で予測することは応用的にはよかったのです。その間の細かな関係の認識は後にしてもよいのです。だが「科学」の名によって学術的に観測や検証・実験を完全にしなければ予測すべきでないと主張する者がいたのです。この種の科学論争は高度成長期の公害の原因をめぐってくり返されたので、ご存知の人も多いでしょう。
 その後、関の海温説は他の研究者によって発展させられていきます。北のベーリング海よりもさらに北の極地における海氷の消長が豊凶に影響するとか、オホーツク海高気圧が本州沿岸の低気圧に向けて吹く風が冷温を招くというように。これらは今日の天気予報でおなじみのものです。また海外のものですが、火山は噴火によって火山灰を大気の上層へ拡散するが、それが夏の気温を下げるという研究も紹介されます。こうして賢治の故郷の作物の生育と大きく地球と、そして太陽黒点説のようにはるか遠く太陽と関連づけられていくのです。賢治自身、関の教えをもとにある年の気象予報をすることがありました。これなどもちょっと意外な賢治の一面です。
 土の性質が作物のできを左右する
 次に東北地方の火山灰土壌(黒土)の研究について。それは洪積世の火山灰土壌で酸性を示し、痩せていました。作物のでき具合はこの目に直接見えない土の中の状態(地力)によって左右されます。その土の性質も当時はさらに下層深くにある母岩によって決定されると考えられていました。花崗岩を例にすれば、それは石英と長石、黒雲母、角閃石からできており、そのうちの長石が石灰分に富んでいます。この花崗岩が風化して崩れて土になると、石灰分が作用して土の酸性は中和され、植物の生育は良くなります。土が酸性だと微生物の活動は鈍くなり、それが有機物を分解して植物の栄養素にする働きを妨げるのです。賢治は地質調査のなかで花崗岩地帯が果樹や杉の育成にも好都合であることを観察していました。生産力を上げるには地質にあった作物を育てねばなりません。地学は今日のようにやたら産学連携などと声を張りあげなくても以前から実業に貢献してきたのです。生活面では花崗岩はわれわれがよく見る墓石や敷石・石垣に使われ、工業面でも花崗岩の風化物から煉瓦の材料が得られます。こうして人間ははるかな昔からの地質史のなかで生活と生産をし、「地殻的反省」(梯明秀『社会の起源の問題』より)をする者なのです。以上の知識は賢治が後に農民のために肥料の設計書を書く時に参考となっていくので、注意が必要です。
 対象を特定の角度から切り分ける――科学の方法(1)
 ここで賢治が学んだ科学の方法を見ておきます。それは分類と総合です。
 まず分類について。地学では風景を前にすると、地形から見て平地と山地、丘陵に分けます。そしてその中の岩石を手にすると、その成り立ちから見て火成岩(地下のマグマや火山活動でできる。先ほどの花崗岩は地下でマグマがゆっくり冷えてできる)、水成岩(これは土砂が川から運ばれて海で堆積されてできる)、変成岩(火成岩と水成岩が地下の熱や圧力によって変性してできる)と分けます。この時に道具が必要で、ハンマーで岩を叩き、石の標本をとるのですが、賢治はそのことに長けていました。さらに岩石は風や雨で風化して土になりますが、それは砂と粘土の混ざり具合によって粘土分の多い順に並べると、埴土・壌土・砂土と分けられます。関はさらに2段階加えて5段階の分類法を考えました。この土を調べるのにも検土杖(長さ1メートルの杖で10センチメートルごとに目盛がついている)が使われますが、こういう道具は医者が人体の調子を探るときに使う聴診器のようなものです。また土は化学的な性質から見て、ケイ酸を含む量の多い順に酸性、中性、アルカリ性と分けられます。化学の実験室を覗くと、研究者は目的とする物質を検出してその量を測るために黙々と忍苦に耐えるのですが、ちゃんとした手続きで行われたかどうかが常に問われます。最近でもメディアが取りあげたことです。こうして科学は対象を特定の角度から切り取ることと言えます。裸の眼ではぼうーとしか見えないのでくっきりと
目鼻立ちをつけるのです。以上の知識が作物のでき具合に関係します。
 要素を関係づけ、「百姓は頭を使う」――科学の方法(2)
 科学の方法は分けるだけでなく、分けた要素を関連づけてまとめ、総合的に判断することが必要になります。その簡単な例だけをあげると、土には水もちの良い保水性と水はけの良い透水性があり、お互いに反対の性質です。粘土は保水性が高いから植物の生育に有利ですが、その程度が大きすぎると透水性は悪くなってしまいます。土は湿り過ぎるとその表面から水が絶えず蒸発するので気化熱が奪われ、地温は低下し、植物の生育に不利となります。このように粘土のある性質は植物の生育に有利であっても、他の不利な性質によって相殺されてしまう。こういうわけで、植物の生育に好都合な要素だけを集めるという虫のよいことはできません。ものを科学的に知るとはトンボのような複眼をもつこととなるのです。
 こうして実際の営農にあたってはこの土以外に作物の生理や気候、肥料等を組み合わせたバランスのある総合的判断が必要になります。実際、農業では製造業やサービス業以上に知識集約的活動なのです。だから資本は商業や工業と比べて農業には簡単に進出できなかったのです。何をいまさら言うかと思うでしょうが、ある農業者は「百姓は頭を使うのだ」と言いましたが、それは文字通りに受け止めねばなりません。
 地学は「人間」を作る
 こうやって科学を学び、農場で実習していくと、どうなるか。
 1)賢治は岩石を調べる時にその薄片を作っては偏光顕微鏡で覗いていました。すると普通の顕微鏡では見られない世界が眼に飛び込んでくるのです。賢治のお気に入りは石英粗面岩(流紋岩)だったようです。これは外目には灰色で変哲もない石ころなのに、偏光顕微鏡で見ると、色鮮やかなパノラマに変るのです。その例は井上克弘の『石っこ賢さんと盛岡高等農林』で見ることができます。だから人間界ででくの棒とみられる人にも何か隠された価値があるのではと思いたくなります。
 2)次は宮城一男の『宮澤賢治――地学と文学のはざま――』から知ったことです。地球の外皮の地殻は数億年・何千年前からの歴史をもちます。その地殻の上に住む人類の歴史などは類人猿からたどってもせいぜい数百万年ですから、地殻史の先っぽにいる新参者に過ぎません。現代の新人などはその短い人類史のこれまたほんの先っぽにいるに過ぎません。それが地殻の薄膜を器具を使って測量して図面を作成する、犂をもって土地を耕して作物を得る。人間は地球史の悠久の歩みに対して「原罪」を犯していないか(詩「若き耕地課技手のIrisに対するレシタティヴ」、賢治はそう思ってしまうのです。彼は童話『狼森と笊森、盗人森』で開拓農民が森にお伺いを立ててから足を踏み入れる様子を描きましたが、でもそんな人間でも猟師になると生活のために熊を殺さねばなりません。人類史は種の多様性の破壊史でもあります。また学者などは研究のためにモルモットを平然と実験材料にします(――その仕方にイギリスと日本で違いはありますが)。それはかわいそうだとしても、人間はそうでしか生きられない仕組になっている。どうしたらよいかは今日の課題でもあります。
 3)科学は人間の人間らしさを作ります。そのほんの1例をあげます。賢治は土を採集して研究室に持ち帰り、化学試薬を使って分析しました。植物の栄養素である窒素やリン・カリがどれだけあって、その比率はどうなっているか。それを調べるには先述したように実に面倒な手続きが求められるが、その探求の結果を待ちきれずに途中を省いてはいけない。こうかなと仮定したことに無理やり結果を合わせるのもいけない。こうして科学は功をあせらず落ち着いてものを見る人を養っていきます。でも時々無いことを有るとする人が出てくるのです。他人ごとではありません。
 4)科学は専門の研究者だけのものでなく、現場の農民のものにならねば意味がない。賢治の周りの農民は多くは技師が指示する農法に頼り切りでした。その指示が猫の眼のようにくるくる変るのですが、これでは農民は自分でその農法の品質保証ができず、自信をもって品種や肥料を決めることができません。賢治は故郷の山地の地質図を作りましたが、それは農民がそれを手にして自立し、安心して田畑に向かうのを助けるためでした。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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