人間の自然との交渉と科学技術・再考――宮沢賢治への一つの接近――(4)

著者: 野沢敏治 のざわとしはる : 千葉大学名誉教授
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 4 地球という「我家の歴史」を知って生活し生産する

 1)「造化の秘密」を語る石ころ、花崗岩の役立ち
 賢治の先生の関は生徒に地学を教え、それを実地に応用させていました。賢治たちは関の指導で夏季実習として盛岡市とその付近の岩手郡・紫波郡の地形および地質の調査を行ない、その結果を「盛岡附近地質調査報文」として『校友会会報』33号に掲載します。これは賢治が関係する他の本格的な野外調査の前段となったものです。その報告文にも前史があって、彼は小中学校の時から鉱物採集に夢中で「石コ賢さん」と呼ばれており、高校に入ってもハンマーをもっては野山を歩きまわって岩を叩いていたものでした。彼は報告文の終りで地学の意味と目的は人間がその中で生活する地球という「我家の歴史」(この近代的にして近代超克的感覚!)を知り、現在の仕組を明らかにすることであると書いていますが、これも関から教わったことでした。
 この調査で地勢は3つに、北上川の東の丘陵地および高地、西の低地、そして西の端にある台地および沖積地に分けられ、地質的にも次の3つに分けられました。地質年代でいう古生層および旧火山岩、新生層第4紀層の洪積層の畑地(――腐植質に富むクロボクであって良土のはずなのに生産力に乏しかった。その原因の解明が後の賢治の卒業論文のテーマになります)および同第4紀層の沖積地(地味良好の壌土)の水田、新火山岩を伴なう新生層第3紀層(凝灰岩)、というように。それらの区域にあるどんな石ころ一つにも何億年から何千万年にわたる「造化の秘密」が、「宇宙の真理」が隠されており、その探求が人間の本性である好奇心を刺激するのです。賢治はそれとともに地学の応用面を重視しました。その例を以下に幾つかあげておきます。
 花崗岩(ごま塩の御影石)はどこでも見かけますが、それは前述したように、石英・長石・黒雲母・角閃石から成っていて、その一つの成分である長石は石灰分に富み、それが酸性の土壌を中和して微生物の働きを活発にするので、作物の成育に良いのです。人間はこの性質をよく知って耕作せねばならないのです。そのことは造林の場合でも同じでした。いやそれ以上に自然に従属します。でも業者は植林をするのに土地の位置や土壌、気候等に適した樹木を選ぶことが少なかったのです。どこに必要なものを植えたらよいか。賢治は林業は農業とかなり違うことに注意していました。農地では作物はたいてい寿命が1年であり、その期間に地力や養分の不足をそのつど補いますが、林地では木の生育に多年を要する(――かつての親は孫の世代まで考えて杉を植えたものでした)のでそのようなことはできません。樹の選定はちゃんとした環境研究をして母岩やその風化物等を特定してから決める必要があります。そうしないと損失は大きいのです。林業は農業よりも適地適作(適樹)の要求度は高いと言えます。でも従来は地質を考えずに広い土地に1種類の樹を植えていました。それは改めねばなりません。賢治は故郷の稗貫郡の地勢や岩石の分布を林相(木の生え方や成長の様子)と関係させてよく観察していましたが、それは林業の経営に有益なことでした。豊沢川の流域の場合、安山岩や花崗岩を母岩とするところは土が肥えていて葉の広い樫などの広樹樹が茂り、反対に流紋岩を母岩とするところは痩せているので、将来の材木用にと針葉樹の杉を植えても生育は良くない。そこで彼は植樹は赤松にすべきだと勧めるのです。
 2)土中の分解者が植物とその消費者を支える
 賢治は高校を修了する時に卒業論文を書いています。それは化学の教授の指導下で岩手県下4箇所の火山灰土の「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を研究したものでした。それは高校生の卒論とは言え、その時代の化学分析の標準的方法に拠った論文であり、応用的にも火山灰地の「生産力」(――科学技術的なものであって、社会の人間関係や労働能率的なものではない)をあげるというしっかりした目的をもつものでした。それを読むと、当時、土中の微生物による分解――有機の植物の生産――有機の動物による消費という関連が知られていたようです。実験では定量分析をするのですが、それはもともと几帳面な性格の賢治にとっても実に手間のかかる我慢の作業だったようです。腐植質を含む土は通常、植物の栄養に良いと言われますが、前掲の報告文にあるように北上川西部の黒ぼくの火山灰地は肥えていませんでした。その原因がこの卒論で研究されるのです。それを読むと、彼は腐植説を批判した19世紀のリービヒの無機説に立っていることが分かります。
 腐植質は土の中の動植物質(草木の枯れたものや死根、昆虫等の死骸)が有機質から無機物への分解の途中にあってにかわ状になっているものです。色は黒々としています。問題は腐植質だから良いとは限らないことでした。植物はその腐植中の無機成分(窒素・リン・カリ等)を栄養にするのですが、それらは普通は有機化合態やリン酸の形をとっており、植物に取りこまれる形になっていません。そういう形になるように変化しなければなりません。例えば窒素はアンモニア態や硝酸態に変らないと根から吸収されません。そこで実験に使った地域の土壌はそのように変態させる必要があります。石灰を撒けばよいのです。
 どうして石灰をまくのか。その理由は前に簡単に出しておきました。その仕組については有機農業が唱えられだした戦後の高度成長期に広く知られていくのですが、この時代に研究者には分かっていました。それについては次の3)で取りあげる稗貫郡の土性調査報告書の第3章第1節で言及されているのですが、事のついでに今それを紹介しておきましょう。腐植質中にある窒素はアンモニア態や硝酸態になることで植物から吸収されるが、その変態に微生物が関与するというものです。微生物は土の酸性を嫌います。この酸性を中和するのに石灰が効きます。その効果はこれも次回で取りあげる「肥料用炭酸石灰」の広告のなかでより詳しく説明されているので、それも合わせて紹介しておきましょう。石灰投与 → 腐植質分解菌のアゾドバクターや根粒菌の繁殖を助けてその作用を完全にする → 腐植質中の窒素を作物に供給できる形にする。その場合、今でも誤解があるようですが、堆肥等の有機質は直接には微生物の餌となるのであって作物の栄養になるのでありません。もう1度くり返します。微生物には人間にとって有害なものもあるが、窒素菌や根粒菌等は有益である。その有益菌の一つである硝酸菌は窒素を硝酸態に変えることによって植物の根から吸収しやすいようにする。砂糖という有機物は硝酸菌の繁殖によい(これはのちに賢治が農学校で生徒に実習で教えたこと)。また作物の輪作は有益菌の繁殖に好都合である(亜麻の連作が土を痩せさせたことと反対)。
 この卒論も後の協会での講義や農家に肥料設計書を出す時の参考になっていきます。
 3)地学の方法 再び分けること・連関させることについて
 賢治はもっと本格的な調査に参加しました。彼は学校を卒業した後、研究生として残り、「巖手県稗貫郡地質及び土性調査」を行ないます。この他に江刺郡や紫波郡、早池峰山麓を調査しており、まったく調査マンです。
 調査の目的は元稗貫郡長の葛博が述べているので、それを引用すると、「郡内農業の大辞典を作り猫の眼のように変る勧業産業の技師技手に頼らずとも百姓は百姓なりに自分の耕地に対し適種適肥を自力自成の基礎調査をして安心して耕農に従事せしめん為」でした。また郡長の本正吉三郎が同報告の「序」で調査の趣旨をこう語っています。農家は作物にどんな肥料をいつどれだけ施すかを考えねばならない。そのためには土や肥料の性質をよく知っている「良医ノ診断」を待って適地適作を行なえば効果がある、と。それなのに東北では南西型の農法をまねすることがあったのです。ところで郡長は地域の大地主であり、その利害は小作人から多くの借地料を現物で得、それをなるべく高い値で売ることにありました。政府はそれを支える農本主義の政策をとっていました。小作人も地質調査を使って多くの収穫を得れば生計はそれなりに楽になりますが、地主の利益に比べれば低く、結局、科学的農業は主として地主の利益になったのです。経済の仕組はいつの時代でも(今日でも)不公平で庶民を置いてきぼりにします。賢治はこの構造をそれとして問題にはしませんでした。
 賢治はこの調査でハンマーをふるって岩を叩いては石の標本を作りました。またクリノメーターで地層の傾きと走行を知っていきます。前にもあげた検土杖で地下の土の性質を知ります。道具を使った眼は裸の眼では見えないものを見させてくれますが、調査は道具を使うだけでなく、時には自分の指で土の粘度を調べます。自分の身体の器官を大地に差し入れるのです。賢治も同様のことを農業指導で行ない、田の土に手を入れて温度を測ったり、土をつまんでなめています(参照、関登久也『続宮澤賢治素描』)。それは当時の技師がしなかったことでした。戦後になって農地改革が行われ、農業普及員が農家にとにかく農薬と化学肥料を使うことが近代農業だと教えていきますが、そういう時に先覚的な有機農業指導者が農家に土を口に含むことを見せて驚かせます。この時の調査の行程ですが、それは賢治が作ったルートマップの地質図(現存している)で分かります。彼はこの調査に1週間余をかけました。沢沿いに奥まで分け入り、時には春の雪の残る道をサルや熊の足跡にもお目にかかりながら、毎日摂氏0度の渓流に腰までつかって岸を渡り、それぞれの調査地点で岩石を採集してその名を記していくのです。われわれもこの行程を自分で一つひとつたどっていくと、自然を地学的に捉えることの意義が想像できます。さて、できあがった地質図は2次元の平面図ですが、それを3次元の立体図として頭のなかで復元し、さらに時間の流れを入れて地層の重なりの順序を透視していくのです。
 報告書は指導者の関先生の「序言」と本文の4章から成ります。本文のうち賢治が書いたのは「序言」によれば第1章ですが、実際には他の大部分も賢治が草稿を書き、それを関が校閲したものなので、本文の内容は賢治のものでもあったとみてよいでしょう。
 第1章は前掲の「報文」がもとになっているのですが、それを読んでいくと、改めて科学の常道である分類が目につきます。その内容は前に述べたのでここでは省きます。
 植物は岩石の風化物が植物の生育に必要な土壌となり、それが作物の立地となります。この土には表層の土と下層の心土があり、一般に深く耕すことは農作物に有益ですが、注意することがありました。賢治の当時、化学肥料の施与(――大正3年に後に水俣病の発生源となる日本窒素が硫安の製造を開始している)とともに機械的な深耕が盛んに勧められていました。鋤耕は土を軟膨にして空気と水の流通をよくし、微生物の繁殖に好都合となって、土の中の養分を植物に吸収させるのに有効な形に変えます。だがそれがいつでもよいとは限らないのです。深耕は上層の薄い土に下層の土を混ぜ込むのですが、それは原野の開拓の場合、理学上不利な心土を起して全体の地力を減退させてしまうことがあったからです。(――日本はこの深耕を植民地の朝鮮にも導入していました。)この不都合をなくすために検土杖を用いて地下の構造を知っておかねばなりません。報告書の第3章第1節では、山形県の大地主が検土杖を使って土の性質を調べ、小作人に改良を進めていることが良いことだと書かれています。前に指摘しましたが、これが小作人よりも大地主の方に有利であることは表に出ていません。
 科学の方法は分けるだけでなく、知識においても実行においても各要素を「循環関連」づけて総合的に判断することが必要になります。ここでは肥料の例を出しておきます。肥料はただ与えれば良いのでありません。次のように手を加えていけば土はちゃんと答えてくれます。自然は人間と違って正直で嘘をつかないのです。
 肥料は直接肥料と間接肥料に分けられます。前者は厩肥や緑肥の窒素肥料であり、ほかに骨粉と米糠、過リン酸石灰はリン肥になります。カリ肥料は草木灰が代表的です。後者の間接肥料は石灰です。それが肥料になる次第は前に説明した通りです。次に窒素分の多い肥料に限定して効き目の速さから分類すると、堆肥や緑肥のような遅効性肥料と下肥・魚肥(賢治の時には大豆かすに代わる)・チリ硝石・硫安のような速効性肥料に分けられます。前者は吸収力の弱い土壌に対して基肥とし、後者は基肥に混ぜたり追肥にするとよいのです。報告書の第3章はこのことを扱っています。施肥で問題になったのは窒素肥料のやり過ぎでした。やり過ぎは作物の成長のみ早くし、軟弱にするのです。また化学肥料の硫安は連用すると土を悪変させることがありました。賢治はその例がアメリカにあったことを知っていました。この弊害は戦後のいわゆる科学農業によって大きく注目されていったのでご存知の人もいると思います。他方、リン酸肥料の施肥はイネの倒伏を立ち直らせます(「和風は河谷いつぱいに吹く」参照)。
 農業では以上の要素以外に「経済条件」も考慮せねばなりません。関のようなまともな研究者であれば農民の生計に寄り添った技術指導を考えていました。賢治も肥料設計書を作る時にそれを見習っていきます。
 こうして実際に農を営むには肥料以外にも作物の生理や気候、土性等を組み合わせたバランスある総合的判断が求められ、「数多の方向より思考を練る」という「多大の忍苦」が必要になるのです。これは賢治が後の羅須地人協会で講義の資料として出した「土壌要目一覧」が強調することでした。農業はどの作業をとってもそこに「道理のないものなし」の「大きな学問の集積」(参照、『賢治素描』の著者が賢治から学んだこと)であり、言ってみれば知識集約産業なのです。……ここまで来てスミスが同じ農業認識をしていたことを思い出さない人はとてもよき経済学史研究者とは言えないでしょう。
 注 賢治自身は科学的態度を持つとともに、キツネが人をだます類の俗信に興味をもったり、悪い幻想に襲われたりすることがあり、異界と交信できる人でした。童話『月夜の電信柱』にあんな奇怪な絵を考えだした賢治です。最近ではそれを、白石加代子さんが怖いお話ばかりを集めて朗読する『百物語』の中に入れていました。照井謹二郎が「宮澤賢治先生」のなかで、東北のまだ浅き春のころ、賢治が竹藪の中に入り込んで「ほうー、ほうー」と叫んで野の精と戯れ、「あアッ! あの音! あの色!」と口ごもることがあったと伝えています。また白藤慈秀が「宮澤賢治の生活諸相」の中で、賢治が夏の夜、麦畑の中に身を躍らせて畦の間を泳ぐようにして走って行き来したので、その理由を尋ねると「銀の波を泳いできました」と答えたと伝えています。賢治にあっては科学と幻想が矛盾しないのです。われわれ凡人には不思議なことです。
 さて、人間は自然との間で物質代謝をすることで生きていますが、それは自然科学や科学技術による生産力の改善だけでよいか?社会科学や社会改革は必要ないか。このことはやがて賢治がぶつかる問題となります。

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〔study957:180406〕