はじめに 科学的研究と予測・判断とは別のこと (今回)
「住民ハ理論ニ信頼セス」――桜島火山爆発の教訓
震災と原発事故から垣間見えた宮沢賢治――2つの言葉
ペンネン技師の注意「あなたは直観で、私は学問と経験で」
Ⅰ 賢治が学んだ地球科学と農業技術 (次回)
1 求められた「野の教師」
2 賢治の夢――復命書から
3 賢治の先生・関豊太郎 (第3回)
4 「我家の歴史」を知って生活し生産する (第4回)
5 賢治の実践、田と畑のなかから (第5回)
Ⅱ 『グスコーブドリの伝記』 (第6回・終)
はじめに 科学的研究と予測・判断とは別のこと
「住民ハ理論ニ信頼セス」
1914年1月12日、桜島が大噴火を起し、多数の死傷者を出しました。島はその時に流れ出た溶岩で大隅半島と地続きになり、今日見る地形となったのです。その噴火から約100年後の2011年3月11日、東日本大震災とそれに伴う大津波の影響で福島第1原子力発電所が水素爆発を起こしました。何万人もの住民が強制的に避難させられます。翌年1月、雑誌『世界』は特集号「破局の後を生きる」を出し、私はそこから桜島噴火の災害を記念して碑が立てられたことを改めて知ることになります(大木聖子・纐纈一起の論説「地震の科学の未来」より)。桜島の住民は噴火が起きるのでないかとその兆候を感じ、測候所に判断を求めたが、測候所長が噴火なしの返答をしたので避難しなかった。ところがその後で大爆発が起きてしまった。そこで記念碑には「住民ハ理論ニ信頼セス」異変を目にしたら自分で避難の用意をすべきだと記されたのです。当時の科学水準では噴火の予測はとうてい確実にはできず、防災には役立たなかったのですが、人々は科学に期待しすぎていたと言えます。そのことは分野と方法が違う「社会科学」に属する私のような者にも他人事にできないものがあります。今日でも噴火がいつ・どこで・どれだけの規模で起きるかを正確に予測することは難しく、つい最近の御嶽山や草津白根山の噴火の場合もそうでした。
火山噴火だけでなく地震の予測についても同じ状況であり、そのことも東日本の大震災で知らされました。どうして予知は難しいのか。そのことも改めて知ることになったのですが、地震研究が不十分なデータに頼るしかないからです。古文書にある過去の記録はもちろん、先祖の記憶や言い伝えを馬鹿にせず検証し、活断層の地質や地震で起きる津波が運んだ堆積物跡を調査することは、何千何万年の大長期にわたる地震の回数や発生間隔に比べたら、ごく短期のものであって量的にもまったく不足しているらしい。そうであるならば、将来の発生をいつと予測することは難しい。しかも地震を実験で人工的にひき起こして観察することなどはできません。地震発生の法則は今模索中なのです。私は富士山は休火山と思っていましたが、1万年以内に噴火しているから「活火山」と定義し直されていたことを初めて知りました。経験科学が教える法則は確率的な蓋然性のものであって確定した答を求めることはできないことを再認識せねばならないのです。18世紀スコットランドのヒュームが自然現象を安易に体系化したり、その裏に哲学的な目的を見出すことに「懐疑」していたこと、そして20世紀日本の劇作家・三好十郎が『浮標』(1940年、初演)のなかで医学研究が人の命について確定的な答を出せるか否かを1つのテーマにしていたことが思い出されます。科学者は科学の性格に誠実であれば、科学の現状にあまり信頼しないように、また予知は難しいことを人々に理解してもらう必要があったのですが、それができなかった背景には政府や企業から研究費を得るために科学の効用を強調するという事情があったと思います。地震科学はいつなら大丈夫だ、どこは安全だと決定論的な判断などできないのですから、住民の方としては生きのびるために科学者の予測を参考にしながらも、その場の状況に応じて自分で安全か否かを判断せねばならなくなります。もちろんそうかといって、科学者が法則を求める努力をしなくてよいのでなく、法則の発見に挑戦している研究者はいるのですが。
実は私は桜島噴火記念碑に刻まれた科学理論不信の言葉を『世界』で知る前に亀井茂さんの宮澤賢治論で知っていました。この賢治は科学研究と応用の間にある距離の問題とその解決を自分の身をもって示したのですが、そのことは次回以降で検討してみます。
震災と原発事故からかいま見えた宮沢賢治――2つの言葉の違い
今度の原発事故で私どもはテレビで「御用学者」の生態を見せつけられました。政府や保安院、専門家はみなそろって直ちには危険はない、安全だ、メルトダウンはないと述べていました。素人にはすぐには分からない専門用語やシーベルトを使ってです。現地では大学から放射線専門の偉い先生方が来て心配はないと講演したため、自治体では何の対策も取らないところがあったようです。
それとは反対に事故が起きる前から政府や東電を批判して原発の廃止を主張し、起きた事故については正確に分析して合理的な解決策を提示する良心的な学者はいました。その人たちは原子力の政策に動員されることに抵抗していたのです。それでも福島で生活してきた人にとってはそんな危険な所になお留まって生活したいということへの理解や具体的な対策こそが必要であったのです。両者は簡単には結びつかないのです(注)。被災者が語る言葉に寄りそって伝える学者が求められ、実際そういう人もいたのですが。……宮沢賢治もそういう人でした。
注 参照、『原発事故と農の復興』(2013年)での小出裕章と明峯哲夫・中島紀一・菅野正寿との対話。
思いもかけない自然災害に襲われ、メディアは大学教授や評論家に論評を求めて次のように近代を批判させました。その例を前にあげた『世界』から拾うと――日本は明治以来、個人の集まりである社会を成立させたが、世代間の血縁的なつながりや地域での助け合いを失った。科学技術の進歩はわずか100年150年の間に経済成長をもたらしたが、自然災害は千年万年にわたってくり返されてきたことを忘れている、と。この議論には当っている面もありますが、問題が2つあります。
① ある大学教授はアメリカが巨大な科学プロジェクトを推進する管理工学
を発展させて自然を征服したと述べ、その起源をヨーロッパからの移民に求めました。移民は母国の旧社会から解放されて私的所有権を基礎とした市場社会の国づくりを行なったのだが、アダム・スミスがその近代を学問的に根拠づけたとみなされます。そしてスミスが自然征服の産業社会を築いたかのような趣旨の発言をするのです。これではスミスは墓場で心安らかに眠っていることはできないでしょう。以前にスミスは今日の自然破壊の元凶だと断定する経済学史研究者がいて、私などはたまげたものです。それに言うところの「近代」は俗化されています。被災者のなかには家が海に面した所にあっても、どんな津波にも耐える防潮堤があるから大丈夫だと思っていた人もいました。住居や産業の立地が地形を読まず、先人の知恵や経験から学ぶことがなかったのです。こういうことがはたして古典としての「近代」が教えることでしょうか。
賢治にその答を聞いてみたいと思います。
② 学者が使う言葉は一般的であって、当事者が発する言葉の力にはとても
及びません。それは観察者と当事者の立場の違いからくる当然のことであり、責めるべきことでないと反論されるかも知れませんが、それにしてもです。北村みどりさんは宮城県丸森町で自然農を実践していた人ですが、彼女は原発事故で大気も大地も放射能によって汚染されたことを前にしてもなお、汚染という言葉を使うのは「ウランに対して申し訳ない」と書きました。その理由がこうなのです。ウランは土深い所で眠っていた。それを人間が掘り出して核分裂させ、そこで発生したエネルギーを電力に利用してきたのだが、いまや手に負えないものになってしまった(――このことを指して「疎外」という思想用語をあててもよいだろう)。その彼女は友人が「セシウムがね、土の奥深くに還っていきたいと言ってるの聞こえたの」と語ったことに共感するのです。彼女自身は田や畑が汚されても逃げずに留まり、米や野菜を作り続ける道を選ぶのですが、作物が放射線の検出限界値以下になって「安全」と判定されても、以前のように「心の底から信用してあげられない」ことに、そして「取り返しのつかないことをした」ことに絶望的な気持になってしまいます。循環農は土―植物―土の循環の営みですから、いったん農場や地域が放射能で汚染されると汚染が循環するので、「近代」的な慣行農業よりも打撃が大きいのです。そのために自死する有機農業者も出ました。それでも彼女は自然農を捨てることなく、放射能を浴びた草や稲わら・落ち葉を大地に寝かせて循環させたり、放射能を取り込みにくい作物を選んだりして、セシウムが土深くに還っていくことを願うのです。他の自然農の実践者・石森秀彦さんは汚染のデータや情報がないなかで危ないものは配達しないと判断し、自らは放射能測定室を運営して、消費者が自分でよく考え心を澄まして判断することを手助けしていこうとしました。それが「人間に与えられた宝物」である「自由意志」を発揮することだと考えて。こういう判断自由の行使は市場社会では企業の広告と宣伝によって妨げられてきたのです。
さて、被災者はこんな危機の時に次のように「生きる」ことの意味を知り、私どもに伝えています。大事なものは世間での出世や職業ではない、何はなくても自分や家族の命だ。生きていて良かったと涙を流して抱き合う家族。テレビや電話、インターネットが切断されると、生きるための情報を手に入れるためにどんな隣人とも声をかけあわねばならない。1人ではなく家族や地域の仲間と共にいること、さらに(ここが大事だと思うのですが)見知らぬ人でも顔を合わせたりちょっと言葉をかけあうことが大事であり、自分だけでなくみんなが幸せになってほしいと思うようにもなる。……ある被災者はこういうことを指して賢治の「アメニモマケズ」の世界だと書きました。
ただ、自分の命を捨ててまで人助けすることはできないことや、援助物資の配分を有利にしたい自分がいたことも知らされます。そして地域の共同体には都会と違って協同の助けあいはあっても1人にさせてくれず、遠慮なく個人の時間や場所に押し入ることがあります。私は子供の時から学校生活や本とは別の世界である祖父母の山奥暮らしに触れ、小さな町での両親の商売や親戚・近所つき合いのなかで育ちましたから、多少は庶民の気持ちの持ち方を知っています。ですから、一方的に地域共同体や「贈与」経済の人間味なるものを云々する研究者には眉に唾をつけてしまいます。その反対に都会の知識人が村人を見るその視線が差別的なことにもがっかりしますが。
以上、これから宮沢賢治に入って行きます。
ペンネン技師の注意――「あなたは直観で私は学問と経験で」
宮沢賢治、これは誰でも知っている名前です。
私は戦後の「民主教育」を受けた世代ですが、衝撃的な賢治体験をしています。それは1953年の小学校3年生の頃でした。学級の先生が授業でこういうことを話したのです。賢治は小学生の時に友達とめんこ遊びをしていた。その友達のめんこが転がって行ったので友達はそれを取ろうとすると、そこに荷馬車が来てその手をひいてしまった。手から血がふき出る。賢治は思わず駆け寄って痛かろう、痛かろうと言ってその血を自分の口で吸ったというのである。私どもはえー!?と驚き、そんなこと自分にできるだろうか、できないととっさに思いました。でもそういう時にはそうせねばならないのかと妙に道徳的な圧迫感を受けたものです。その話は早くには森荘已池が『宮澤賢治』(1944年)のなかで、最近では堀尾青史が『年譜 宮澤賢治伝』(1991年)で伝えています。
その後私どもは別の賢治体験をしていきました。賢治は実はだじゃれを言うことが好きであったとか、小さな農学校の先生になって教科書を使わずに独特な教育を行なった、法華経の熱心な信者で相手を折伏してしまうこともあった、詩や童話でその信仰を表現した――でも売れなかった――、学校演劇や農村文化活動を組織した、近代自然科学の素養をもった農業技術者でもあった、等。それに家出して自立の道を探ったが、結局は父親の掌にいたという矛盾した関係!こういうわけでまったく混沌としているのです。今では賢治の作品はアニメ映画や演劇になり、幾つも外国語に翻訳されています。研究もあちこちからなされて止むことがありません。全集が微に入り細にうがった校訂のもとに刊行され、賢治についての伝説も破られています。
ここで私は自分なりに賢治に接近する1つのやりかたとして、彼が近代的な自然科学の成果を使って故郷の農村の生活を安定させようとしたことに限定してみようと思います。彼は「人間と自然」の関わりについて今日のわれわれでもおさえておくべきことを示しているからです。最近ではマルクス経済学系の理論研究では「物質代謝と労働」のことなど当り前のように論じていますが、マルクスの文言をなぞるだけでは無意味な術語の連続となってしまいます。それにジャーナリズムやお役人が説く人間と自然の「共生」論は甘ったるいですね。私は後で賢治の童話『グスコーブドリの伝記』に入りますが、それは実に切り込みの深い内容ある世界なのです。
この童話は主人公のブドリが自然災害を克服して農村を貧しさから救うために近代的な科学技術を駆使し、最後に自分の命を犠牲にして冷害から人々を守るというお話です。現代はインターネットで世界が結ばれ、人工衛星で太陽系外の惑星を探査するような時代ですが、それでもわれわれの生活は地上の自然災害から免れていません。台風や火山噴火、異常気象や地震、津波による災害は例年のものです。われわれはそのたびに自然の恐ろしさに身をすくませ、人間がいかに小さなものかを知らされます。そして災害を克服する道を求めます。賢治がそうでした。その賢治の生涯を一部含んだものがその伝記なのです。
そこに沢山の印象深い言葉があります。一つだけあげましょう。『グスコーブドリの伝記』の前の『グスコンブドリの伝記』からですが、その内容は変わりません。主人公のブドリはクーボー大博士の学校に入学して優秀な成績で卒業し、火山局に就職しました。彼はそこの技師から仕事を始める前に次のような注意を受けます。「こヽの仕事といふものはそれは実に責任のもので半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものはなかなか分かることではないのです。むしろそういふことになると鋭いそして濁らない感覚をもった人こそわかるのです。…(略)私はもう火山の仕事は40年もして居りましてまあイーハトーヴ一番の火山学者とか何とか云はれて居りますがいつ爆発するかどっちへ爆発するかといふことになるとそんなにはきはき言へないのです。そこでこれからの仕事はあなたは直観で私は学問と経験で、あなたは命をかけて、わたくしは命を大事にして共にこのイーハトーヴのためにはたらくものなのです。」
鋭くて濁らない感覚とか命を賭ける・賭けないってどういうことか。何か科学的研究の本性や人の生きように関係するようで気になります。私はそれを考えてみたいのです。それに賢治は科学を信頼していますが、その陰を忘れていなかったことにも注意したいと思います。
自然科学はある現象をどこか特定の角度から調べます。その角度の多様なことは大学の学部や学科の授業科目表を見ただけでも分かります。それも裸の目で観察するだけでなく、特別に作った器具や装置を使って見ます。そして見て集めた沢山の資料から全体に共通することを取りだしたり、原因と結果の関係を探って法則を見つけていきます。法則といってもそれは仮のものであって、仮説は検証したり、実験で確かめられていきます。発見は自然界にない原子を人工的に作りだすことでもなされますから、科学は自然に潜む秘密を強制的なくらいに暴いていくことでもあります。こういう科学に誠実な研究者は結論を出すことにどうしても慎重になり、蓋然的なことしか言えません。火山の爆発の予知のように社会に対して大変な影響を与える場合にはなおさらです。賢治が求めた科学は以上のような近代科学であり、それに限界があることは今では常識となっていますが、だからと言って馬鹿にできないのです。批判は批判されるべきものを知ってなされるべきです。
以下、私はⅠ・Ⅱの順でやっていきます。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study948:180308〕