人間論の構造構成 (下)

  5.ホモ・サピエンスの構造

 ホモ・サピエンス(叡智人観)とホモ・ファーベル(工作人観)という代表的な人間観の対立を見直しておこう。ホモ・サピエンスという言葉は分類生物学のリンネ(Carl von Linne1707-1778)の命名らしいが、元々は知恵の発達したものという意味である。それがいつしか叡智人観とも訳されるが、単なる道具的な知識だけではなく、道徳判断や宗教的な聖なるものへの感受性や、芸術的な審美感も含むような能力とされている。

 シェーラー(Max Scheler, 1874 – 1928)の人間観の分類では、イギリス経験論や功利主義、実証主義、マルクス(Karl Marx, 1818 – 1883)の唯物史観、フロイト(Sigmund Freud1895-1982)の精神分析などはホモ・サピエンスに分類されないのだ。言語を使用する動物、道具を使用する動物というのもホモ・サピエンスではない。自然科学的な知識や知恵がいくら発達しても、リンネの命名意図に反してホモ・サピエンスではないということになる。

 シェーラーは、理性を実体的に捉え、それを神と分有しているとみなす人間観をホモ・サピエンスとみなしているのである。だからギリシアのアナクサゴラス(Anaxagoras、紀元前500年頃 – 紀元前428年頃)に端を発して、プラトン(Platon紀元前427年 – 紀元前347年)のイデア論、ストア派を源流とする自然法思想や社会契約説、大陸合理論、ドイツ観念論などがホモ・サピエンスの人間観だということになる。⑧

 実体としての理性があって、イデア界で知の体系を成しており、プシュケー(魂)はイデア界にあったときにそれをコピーしているとみなすことによって、プラトンはすべての現象をイデアを範型として認識可能としたわけである。つまり認識するには予め知の体系がなければならないとすると、事物に先立って観念があるとする形而上学や観念論になる。⑨ 

 この議論に対して、観念はあくまで事物の観念でしか有り得ないという至極もっともな理屈でアリストテレス(Aristoteles前384 – 前322)は批判するが、プラトンの議論の前提は主観性つまり自己意識があって、はじめて現象を客観的な事物の現象と見做し得るということなのである。この主観性としての自己意識が感覚から超越しているので、自己意識が精神的実体として霊魂として実体化され、イデア界や霊界に帰属するとされ、物心二元論が成立するのだ。

 実際、認識には意識内容から離れて、意識内容を事物の現われとみなす自己意識が前提となる。そこに立脚した議論としての観念論およびホモ・サピエンスの議論の有効性を認めなければならない。やはり自己意識の成立によって生じた主語・述語の言語構造による知の蓄積・伝達システムがあってこそ、客観的事物認識が可能になっているのだから。

 しかし精神的実体として理性が存在するといっても、それは知の蓄積・伝達システムとして言語体系が存在するということに他ならないから、それは各人の中枢神経の中の記憶として蓄えられていたり、文字文化やその他の文化を構成する諸事物の中に保存されていたり、諸事物の社会的関係として存在しているといえる。

 また自己意識や霊魂なるものが実体としてあるという意味も、思考や反応が一定の個性的傾向性を示していることに他ならないから、決して身体がなくても個人の霊魂が空中を浮遊したり、上空の霊界に存在したりするわけではない。とはいえ意識内容から超越的に自己意識があって、それを対象化して事物として捉えているという構造においては、あたかも実体的に主観性が存在しているかのように機能しているわけで、その限りでホモ・サピエンス的な捉え方も有効である。

 6.ホモ・ファーベルの構造
 
 ホモ・ファーベル(工作人観)は、環境に働きかけて改変し、人間の身体が適応できるようにすることを人間の根本的な存在構造と捉える人間観である。動物は環境に働きかけつつ、環境に自己の身体を進化させて適応していくのだが、ホモ・ファーベルとしての人間は、自己の身体は進化させないで、道具を進歩させ、環境を変化させてることによって環境を支配するのである。

 若きマルクスは、1844年の『経済学・哲学手稿』で、「自然は人間の非有機的身体」だとした。⑩もちろんフォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804―1872)の人間学的唯物論を引き継いでいるのだ。つまり、身体は不完全であり、常に外界から取り込まなくてはならないのだ。受苦的存在であるがゆえに窮迫し、窮迫を克服しようと情熱的に活動するのである。これを「ライデンからライデンシャフトへ(苦悩から情熱へ)」というのだ。

 不完全性は積極的な実践の根拠となっていて、そこから活動的な人間観が展開されている。ペシミズム(虚無主義)や絶望になっていない。しかしやはり主体性の原理となっている。その主体が精神ではなく身体として捉えられているのだ。

 自然を非有機的身体とするということは、主体の範囲が拡大するということである。身体は裸体から衣服を含めた身体に、住居を含めた身体に、個人の身体から共同の身体に、農場や工場や海や空を含めた身体へと拡大するのである。自然が人間の非有機的身体だということは、自然が人間の定在だということである。人間はたんなる身体的存在にとどまらず、社会的諸事物や環境的自然としても見出されるのである。実際に経済的諸関係を取り結ぶのは生産物としての諸商品である。マルクスは『資本論』ではこれをフェティシズム的倒錯としたが、人間を身体の限界内で捉えることはできないのだ。⑪私は社会的諸事物や人間環境を含めてを事物のカテゴリーとして捉え返す立場をネオ・ヒューマニズムと名づけている。⑫ 

 精神と身体は人間性の両面を成すという意味でホモ・サピエンスとホモ・ファーベルは対立すると共に補完しあうのだ。だから構造構成主義的調整が可能なのである。つまり主体が身体だといっても、その身体は個々人の身体から地球環境にまで伸縮しうるものであり、主体となって自己を対象化しているときには主観性として働いているのだから、あたかも自己意識が実体として存在するかに機能しているのである。

 7.有限性と実存

 極めて限定された紙幅のなかで、人間論の構造構成のラフスケッチ(粗描)を描こうとしたけれど、「人間論の大樹」の鳥瞰図には程遠い。人間論では有限性と実存が重要なテーマなのでぜひとも触れておかなければならない。

 「汝自身を知れ」というアポロン神殿の標語は不死なる神が死すべき運命の人間に与えたものとして受け止めれば、有限性を自覚し、死に向かう存在として人間を捉え返す人間論がそこに含まれていたと思う。

 有限性の自覚は、死を覚悟することによってたった一度の人生を意義づけ、価値あることをなそうとする積極的な人生観を生み出す契機となる。そして今、ここに在るということにおいて自己の生の実感、充実感を得て有限な生を納得しようとする。かくして自分がいかに生きれば自分の生が充実するのかという自己の生の選択が行なわれる。このような実存的な人間論は人間を本質において捉えるのではなく、状態性において捉える人間論である。三木清はパスカル研究によって、本質論ではなく状態性において人間を論じる方法を打ち出している。偉大と悲惨、両極の間を揺れ動く動性、中間者などの人間の状態性論である。⑬ 

 有限性の自覚は、当然死や滅びなどからの救済への願望を生み、宗教的な人間の存在構造を構成することになる。つまり有限性を克服するためには絶対者の実在を信仰し、絶対者に依存することにより、絶対者による救済を願うことになる。かくしてコスモス(宇宙)全体が絶対者である神の被造物であり、神に依存した存在であるということになる。神との垂直構造によって、神に依存し、神に還ることで救済されるという図式が立てられるのだ。

 絶対者たる神と有限者たる人間は絶対的な断絶がある。この断絶を克服して絶対者と融合するには、堕罪によって神から離れた罪を悔い改め、神の定めたトーラー(律法)に戻らなければならない、文明が進展すればするほど価値は多様化し、大部分の人類は神から離れるので、人類は最後の審判に宿命的に向かうことになる。

 その意味でキリスト教はイエスの贖罪の十字架で、神の愛に目覚め永遠の命につながるとされる。とはいえ正しい信仰に目覚めることができるのは少数であって、大部分がゲヘナであることに変わりはない。

 これらのヘブライズムの宗教的人間は東洋人には縁がないかに思われるかもしれない。しかし問題を有限性や死の問題、それを見据えていかに生きるかという問題に直面しているのはすべての人間に共通しているのであって、その意味でも有限的な生命の営みの中にいかにして、不滅のものを見出していくのかは問われている。そういう形ではあれ、絶対者との断絶を克服するという課題は共有しているのである。

 そしてそれは人間が生成したのが、生理的な表象の世界、主客未分な事的世界から、人と人、人と事物、事物と事物が分裂した、主観・客観的に物的世界への転換であり、ようするに自己と世界、自己と絶対者の分裂対立であったことに淵源があるのだ。そういう意味で、すべての人間論は、深い意味で構造を持ち、構造相互に連関しているのである。

 まだまださまざまな人間論の構造と構造連関を明らかにしなければならないが、今回はその手始めであり、まったくの試論的で未熟なたたき台ということで、ご寛恕願いたい。 
 
参考文献
①拙著「人間観の転換と人間論の大樹」(『季報唯物論研究第91号2005 年2月号』やすいゆたか責任編集「特集21世紀「人間論」の出発点」」所収)
②西條剛央著「構造構成主義」(滝内大三、田畑稔編著『人間科学の新展開』(ミネルヴァ書房)2005年刊に所収)
③坂本百大著『人間機械論の哲学』勁草書房 1980年刊参照
④『猿が人間になるについての労働の役割』エンゲルス著、大月文庫
⑤A.A.レオンチェフ著『言語の発生とその展開ーソヴェート言語学序説』未来社1970年刊
⑥拙著「「人間」カテゴリーについて」(『季報唯物論研究18号1985年7月号』所収)
⑦尾関周二著『言語と人間』大月書店1883年刊
渡部昇一著『言語と民族の起源について』大修館書店1973年刊
坂本百大著『言語起源論の新展開』大修館書店1991年刊
⑧マックス・シェーラー著「人間と歴史」1926年、「宇宙における人間の地位」1927年いずれも『シェーラー著作集十三』白水社1976年刊所収)
⑨プラトン『国家論』 藤沢令夫訳 岩波文庫 1979年刊
⑩マルクス著『経済学・哲学手稿』藤野渉訳 1962年刊
⑪保井温著『人間観の転換ーマルクス物神性論批判』青弓社1985年刊
⑫やすいゆたか著「対談 『ネオ・ヒューマニズム宣言』をめぐって」
ネット雑誌『プロメテウスー人間論および人間学論集 創刊号』所収
http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/yasuiyutaka/yasuiyutaka_neohumanism.htm
⑬三木清著『パスカルにおける人間の研究』(『三木清全集第一巻』岩波書店1966年刊所収) 

*なお本稿は2005~6年に書き上げた未発表論文である。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study490:120506〕