仄暗い闇の底から ―柿木伸之著『ヴァルター・ベンヤミン―闇を歩く批評』書評―

本書は、『ベンヤミンの言語哲学』(岩波書店、二〇一四年)につづく柿木伸之氏の二冊目の著書である。本書の狙いはつぎの一文に要約されている。「批評の言葉を生きたベンヤミンの思考の足跡―それは書のかたちで刻まれている―を、彼の生涯のなかに浮かび上がらそうとする本書は、ある面ではベンヤミンが生きた時代よりも深まった現在の闇に読者自身が立ち向かう思考の契機となるべく差し出されている。息苦しい闇のなかに、死者を置き去りにすることなく生き、他者と息を通わせる隙間を切り開く思考への誘い。本書は、これがベンヤミンが書き残した言葉に含まれていることを示そうとしている」(二百六十頁)。

本書はベンヤミンの伝記的要素に沿うかたちで彼の言語哲学、美学、歴史哲学を精緻に展開しており、ここに柿木氏によるこれまでのベンヤミン研究および巻末に載せられた国内外の大量のベンヤミン研究書からの知見が濃縮されているということを踏まえると、本書は今後のベンヤミン研究(とくに言語哲学、歴史哲学)にとって極めて重要な書物である。

本書の魅力は、著者がベンヤミンとともに、これまで人類に絶えず犠牲を強いてきた「神話」や、殺戮と野蛮のドキュメントに他ならない「歴史」の暴力を一貫して痛烈に批判している点にある。また、本書「インテルメッツォ1」において著者は、ベンヤミンとクレーにおける「思想的な呼応」を感知し、両者が「クレーの詩に語られる「死者たちのところや、未だ生まれざる者たちのところ」へ赴こうとしたのではないか」(五十八頁)と指摘している。この一節は非常にアクチュアルなものである。なぜなら、たとえば現代医学の領域で施行されている出生前診断において、異常が認められた極微な胎児たちは文字通り「未だ生まれざる者」として、そして永遠に生まれざる者として、強制的にその生を完結させられているからである。ベンヤミンはかつて神話とテクノロジーにおける秘められた照応関係に言及したことがあったが、まさにこの出生前診断において「どこか腐ったところがある」神話的暴力が、ネオリベ的論理に支えられ最新テクノロジーを纏った現代医学に受肉して回帰しているのではないか。つまり、現存する諸権力体制を純粋に強化することのみを自己の目的とみなす神話的暴力が「せむしの小人」となっている資本制や国家権力における暴力の行使は、すでに死んでしまった者たちだけではなく、異常を認められてしまった未だ生まれざる者たちに対しても及んでいるのである。歴史や言語の最内奥部に潜在する微かな徴候としての死者や未生的存在をその完全な実在性とともに救済しようとするベンヤミンの認識論を真に受けるならば、現代文明におけるベンヤミンのアクチュアリティは死の問題だけではなく出生の問題にまで及ばなければならない。そのようなことを評者はこの一節から汲んだ。

柿木氏が「あとがき」で述べているように(二六一頁)、本書では、新書という性格の諸制限から言及することが難しかったとのであろうと理解できるベンヤミン思想の部分が幾つかある。とくに本書との連関でいえば、ベンヤミンの想起Eingedenkenと追想Erinnerungという記憶をめぐる問題系に関する厳密な概念的検討が必要とされるであろう(ベンヤミンの想起Eingedenkenについては2016年にStefano MarchesoniがWalter Benjamins Konzept des EingedenkensKadmos.2016,Berlin.を刊行した。参照されたい)。この問題系を深めることで、本書において柿木氏がベンヤミンとともに託した「息苦しい闇のなかに、死者を置き去りにすることなく生き、他者と息を通わせる隙間を切り開く思考」を継承し、この思考を希望なき者たちのための希望の火花として掻き立てつづけなければならない。

初出:「宇波彰現代哲学研究所」2019.11.01より許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1080:191123〕