今、脱原発運動に何が問われているのだろうか

2011年10月12日 連帯・共同ニュース第169号 

9条改憲阻止の会

■    「想像力が権力を獲る」。1968年のフランス5月革命で発せられた言葉である。豊かな政治―社会のビジョン(構想)が社会を替える力になるという意味であろうか。僕は週の二度程は経産省前のテントに泊まり込んでいる。毎日のように出掛けているのだが、これが僕の役割と思っている。テントが長く続き、多くの人がその維持に参加してもらうのがいいのだが…。夜中に目が覚めうす暗いテントを眺めながら、この言葉が浮かんできた。お前の想像力はどんなもんだという自問の中で。眠られぬままにあれこれと妄想に似た思いを繰り返した。

■    原子力発電(原発)に僕がかつて抱いていた想像は豊かなものではなかった。「原子力の平和利用」や「科学技術」への夢に絡めとられていなかったにせよ、想像するのを避けていたという類のことがあったように思う。原発についての僕の貧しいイメージはこの間の様々の情報によって豊富になった。「原発安全神話」からその推進の実態も、また脱原発後の社会についてもそのイメージは広く、深くなった。しかし、僕の想像がある壁にぶつかっていると意識せざるを得ない面のあることも疑いない。僕の想像力は壁の前で逡巡し果てしのない自問の中を彷徨っているようなところがある。それは原発を推進してきた日本の権力構造を替えるにはどうすればいいのだという問いにたしてだ。原発の存在の悪や非倫理性が明瞭になったにしても、それを推し進めてきた権力や社会を替えて行くビジョンはそのまま湧きだしてくるのではない。僕らの意識や意思が呪縛されているものがどこかにあって原発の廃止が権力や社会を替える想像力に発展することが疎外されているのだ。別の言い方をすれば僕らを金縛りにしているものがあるのだ。

■    原発の廃止は圧倒的な国民の声である。国民の意志であると言い換えてもいい。だが同時にこれがどのように現実化するかについて国民は確信を持っているとは言い難いのも実際のところであろう。それには権力や社会を替えて行くことが避けられないにしても、そのビジョン(構想)が描きにくいところにあるからだ、と思える。原発廃止にはそれを推進してきた社会を替えることが不可避でも、そのビジョン(構想)は難しいのだ。この壁は脱原発を意志する人々の共通のものだ。それを超えて行く糸はあるいは穴はどこにあるのか。最初に記した言葉がフランスの5月革命という行動の中で発せられたことにヒントの一つはありそうだ。政治―社会のビジョンはある種の行動の中で生まれたくるという面がある。そこに可能性がある。 (文責 三上治)