今年も樺さんに会いに行きたいと思います。あなたも是非!

2013年6月3日 連帯・共同ニュース第310号

■  僕の好きな紫陽花の季節がやってきました。昨今は紫陽花を手にして国会周辺を歩く人を見かける事が多くなりました。昨日もそうでした。脱原発―反原発の意思表示をする人々の群れは国会を取り巻いていたのですが、紫陽花を手にした人も見かけました。紫陽花がありふれた花であるように、ありふれた形での意思表示の象徴のようになるといいですね。1960年の6月の日々も安保条約に反対の意思表示をする人々が国会を取り巻いていました。樺美智子さんや僕らは6月15日に国会構内で集会を開くことをもとめ奮闘していました。その中で樺さんは亡くなられたのですが、樺さんのことはその後もどこかこころに引っかかっていました。とりわけ6月の季節はそうでした。いつの間にか、この季節の花である紫陽花とあの樺さんの姿は重なるようになりました。意識してそうしたのではなく、何となくそうなってしまっていたのですが、今はそれを自然に感じています。今年も6月15日には樺さんに会いに行きます。今年もまた、あの国会南通用門の前《現在の南門の前》で会いましよう。櫛の歯が欠けるようにとはよく言われますが、訃報が届くことがおおくなりましたが、元気な内は国会前で会いましよう。

■  樺さんと僕らは小雨の降りはじめた国会の南通用門の前にいました。1960年の6月15日の夕暮れです。僕らは国会構内で集会を開くことで安保条約の改定に反対の意思をより明瞭にしようとしました。その前に時の首相の岸信介は国会に警官を導入に反対派を排除してこの法案の批准をしていました。国民の意思と国会の意思がこれほど離反し、対立的であるなら、直接に国民の反安保の意思を国会構内占拠で示すのは当然の行為でした。国会は個民の代表としてある以上は国民の意思に反する事態の進行に対して直接の意思表示をすることは当然のことであり、民主主義の原点をなすものです。樺さんが亡くなれたあの現場を記憶する者たちは段々と少なくなります。けれども、その闘いと精神は形を変えながら、歴史的な水脈として流れてきました。ときに表にでてくることもありますが、これは地下水脈として流れてきたのです。これからは歴史の舞台に出ることもおおくなるのでしよう。それは疑いようのないことに思えます。

■  樺さん、気がつけば僕もいつの間に老境の身になりました。かつてのように声を張り上げ、雨の中をデモすることはきつくなっています。それでというわけではないのですが経産省テント前で座り込んでいます。それでいつも思うのですが、もし僕があなたに告げることがあれば何だろうかと。樺さん、権力と確執をするこころ、あるいはその快楽でしようか。それが、あなたにそっと告げたいことです。あなたはほほ笑みで受け止めていただける気がします。(当日、6月15日(土)は例年通り南門の前だ13時から樺さん追悼の会をやります)  (文責 三上治)