令和版・近代の超克談義 後篇

著者: 川端秀夫 かわばたひでお : 批評家・ちきゅう座会員
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M:刺戟的な議論が続いていますね。ちなみに、三島と岡本太郎の共通点を言うなら、それはズバリ、両者へのバタイユへの影響だと思いますよ。

T:バタイユ! Oui!!!

T:共通点、気になってずっと考えていて思いついたのが、「互いに異なる2つのモノをぶつけた時のエネルギー」というヤツで、三島はズバリ、ロゴス/パトスの相克を、太郎は長ネギ/工場etc. 二人とも明確に「相克」を意識的にやっていたけれど、これも出所はバタイユだったりするのかな?と気になってきました。

D:花田清輝の没後何年かの記念講演会が新宿の紀伊国屋ホールであり、私は埴谷雄高がお目当てで出かけたのでした。そしたらなぜか岡本太郎が埴谷の前に登壇して、あの大目玉をひんむいてエネルギッシュな話を始めたのです。岡本は戦後の焼け野原の中での花田清輝との出会いの体験を語っていました。花田の目玉がとびでていたと述べていたのには笑った。(そういえば、岡本と花田の顔面は相似形のような気がする)

で、この時の出会いがきっかけとなって「夜の会」が結成される。夜の会には三島も顔を出していたらしい。戦後の焼け野原で再出発を誓った知識人達は立場の違いを越えて活発な交流があったようです。

で、バタイユですが、岡本太郎はたしかにバタイユの思想の直系の後継者といえますね。バタイユこそが太陽があらゆるエネルギーの元だという思想を展開した張本人だった。太陽の塔も考えてみれば、バタイユの思想を咀嚼して岡本太郎なりに表現したオブジェと言えるかもしれない。

花田と岡本が結成した「夜の会」ならびにバタイユが結成した秘密結社「アセファル」については、こちらの記事が詳しい⇒http://www.rll.jp/hood/tee/respect/20111231014020.php
T:生前の埴谷と太郎なんて、羨ましすぎます(笑)

そういえば、太郎とバタイユの出会いの場面が何かの本に書いてあったなと思って探してみたらありました。(岡本敏子さんは商魂たくましくて、あらゆる内容を使い回して出版してるから、ファンにとってはかえって探しにくいんです)見つけたのは『ピカソ講義』P36でした。太郎が初めてバタイユに会ったのはピカソのアトリエだったと言っていますね。1936年の冬。モンパルナスのカフェでマックス・エルンストとおしゃべりしていた時に、彼から誘われて、それで行ったのがピカソのアトリエで催されるバタイユの集会。

集会は「コントル・アタック(反撃)」というもので、「ヨーロッパで不気味な力を増してきているヒトラーやムッソリーニ、それに対応して国内でもファッショ的な右翼勢力が妙に勢いづいてきており、一方でスターリンの軍国主義的な官僚主義にも批判的な、そういうあらゆる反動に対するコントル・アタック(contre attaque)」なんだと言ってます。

それから太郎はバタイユの秘密結社に密に接触するようになり、サンジェルマンの森での怪しい儀式にも参加したと言っています。(この場面は、昨春のTV番組でも再現されていました)

しかし、太郎は結局、バタイユと決別したと言っていますね。時期は「ちょうど戦争が始まる一年くらい前」と言っています。その決別の文章を「中央公論」に寄稿したそうですね。一体、どういう明確な理由を以って決別したのか、非常に気になりますね。

国立西洋美術館での岡本太郎展では、太郎による「ディオニソス」の絵画が展示されていましたね。

三島は自決する前(どれくらい前か分かりませんが)、自分が一番親近感を持っているのはバタイユだ、と述べているようですね。これもどういう文脈なのか、前後が知りたいです。

M:「両者へのバタイユへの影響」って日本語になってませんでしたね。「両者へのバタイユからの影響」でした。

ところで、花田清輝というと京都学派や竹内好とはまた違った形での「近代の超克」の提唱者でもありましたね。前近代を否定的媒体にして近代を超克する、というやつ。

また、発表直後はあまり話題になっていなかった三島の『仮面の告白』を、初めに激賞したのが他ならぬ花田清輝でした。この花田の好意的な書評がきっかけとなり『仮面の告白』は読書子に注目され、やがてベストセラーになったそうです。

三島は稲垣足穂論で「世間や俗物がどうあろうと、歴史や文化の中へ埋没する決意をした者が、実はもっとも飛翔する人間になる」と書いていますが、これは花田の「前近代を否定的媒体にして近代を超克する」という言葉のパラフレーズのようにも読めます。

花田は三島よりも早く「葉隠」の再評価もしていますし、三島は花田から、特に方法論的な面で浅からぬ影響を受けていたのではないかと僕は思っています。

あと、上で三島とフロイトの関係が話題に出ていますが、三島は基本的に精神分析に批判的で、安部公房との対談でも「自分には無意識はない」なんて嘯いたりもしていました。そんな三島が精神分析批判をモチーフにして書いた小説が『音楽』です。

三島が精神分析を嫌った理由は未完の遺作『日本文学小史』の冒頭でも語られていますが、その理由を大まかに纏めると、つまり三島が芸術を成立させる根本原理と考える「文化意志」を精神分析が解体してしまうから、ということになるようです。そして三島は同じ理由で民俗学や人類学も嫌っていました。

ところで民俗学や人類学というと、まさに岡本太郎(とその盟友であるバタイユ)が依拠していた学問領域です。民俗学や人類学は芸術の起源を先史文化(ラスコーの壁画や縄文土器)にまで遡らせましたが、「文の人」三島はこの潮流には断乎として抵抗しました。三島にとって文化とはあくまで繊細な言語文化(みやび)を中心に生成されるものと考えられていましたから、これは当然でしょう。三島が日本文化史を構想する際、それはあくまで記紀万葉から語り起こされるものであり、縄文文化にまで遡ることは決してありえなかったのです。三島は文化を風土的なものに還元する発想にも批判的でした。

三島と岡本太郎の決定的な違いを言えば、両者ともバタイユから多大な影響を受けつつも、そのエロティシズムの論理を、三島はあくまで有史以降(記紀万葉以降)のモチーフで展開し、岡本太郎は有史以前(縄文文化)のモチーフで展開した点にある、――と言えるでしょうか。この差は前者が文学者であり後者が造形芸術家であった違いに由来するのかも知れません。

そもそも岡本太郎や宗左近がリードした縄文芸術というのは、きわめて戦後民主主義的な芸術運動だったように思います。戦前の日本を支配した日本浪曼派的な「大和」に象徴される文化体系を、「大和」以前の縄文(縄文文化は戦前柳田國男によって「文化の名に値しない」と切って捨てられていました)にまで日本のルーツを遡って、そこから「日本」のイメージそのものを変えてしまおう、という衝動がその根底にはあったのではないでしょうか。特に「わだつみの世代」であった宗左近の縄文文化への傾倒は、日本浪曼派的なものの克服というモチーフに衝き動かされたものだったようにも思います。

図式としては、晩年の三島はそういう太郎や宗左近の縄文文化運動を迎え撃つ「大和」の最後の防人という立場にいたのであり、自分自身その立場を強烈に自覚していたとも思います。そういう三島の置かれていた立場を念頭に『文化防衛論』を読み直すと、これはとても切ないテキストとして読むことが出来ます。

そして、岡本太郎が縄文の「太陽」を掲げた1970年に、三島由紀夫は大和の「太陽」を守らんとして雲隠れした――。それから40年後の我々の上に照るのは、一体どのような「太陽」なのでしょうか。

K:三島と岡本の共通点はバタイユ、つまりそれは「太陽」に集約されるでしょう。ただ私はそのバタイユ的な「太陽」の扱いにおいて、二人は歴史に対する認識が異なっていたと思います。すでに書きましたので確認いただければと思いますが、二人が生きた時代にはもはや「太陽」はないという認識を持っていたのが三島で、岡本においては「縄文的なもの」から「太陽」を70年にもってこれる(復活できる)という認識があったと思います。

当然時代認識として、優れていたのは三島だと私は思います。かつて「太陽」があり近代以降に太陽はなくなって、今はその残光しかないという認識は、ボードレールにあり、その詩を論じたベンヤミンにまで引き継がれている認識だと思います。三島はそれを近代というよりも、日本の戦前までの「天皇」というふうに捉えていたのではないでしょうか。戦後の天皇は「月」として捉えられていますね。

K:アセファル(無頭人)が出ていましたので一言。

バタイユが中心となり、アンドレ・マッソンが画を描いたことで有名な雑誌で、頭がない=統覚を欠いた人体が描かれいました。まるでこれは三島の自決後を思わせる画です。バタイユらはもちろんカント的な統覚を越えた身体、もしかしたら「器官なき身体」(アルトー)の原型をここに出していたのかもしれません。統覚を欠いたとき、身体のそれぞれの部位はそれぞれがそれぞれの目的に応じて暴走する画が目に浮かびます。これは学校や軍隊、病院などで近代的に制御された身体がその軛から逃れたイメージだと思われます。

松浦寿輝が先頃生き延びた老・三島を主人公に『不可能』という小説を書いていました。首に深いキズをもつ初老の男がその後をどう生きたかという顛末が書かれています。トリックが上手に使われ、シュミラークルの中に姿を隠した(散らした)彼らしい結末を用意していたと思いますが、それを知らない者たちはそこに忽然と消えた虚無をそこに見いだすであろうことが予想できる結末になっていました。

M:「太陽」からの連想で、あと一つ。

1970年というと日本の原子力発電の創世期にあたります。僕は原発というのは「攘夷のための開国」という近代日本の抱え込んでいるアポリアの現代版だと思っているのですが、太郎が「縄文の太陽」を掲げ、三島が「大和の太陽」を守って雲隠れした翌年の1971年に運転開始されたのが、昨年事故を起こした福島第一原発でした。1971年から2011年の40年間、我々の頭上を照らしていたのは「縄文の太陽」でも「大和の太陽」でもなく「原子力の太陽」だったのです。そして元々は「攘夷のための開国」を目指して掲げられた「原子力の太陽」が、目下大いなる災いを日本の国土に齎すことになっています。――以上、少し比喩に戯れ過ぎてしまったかも知れませんが、原発の今後を考える際に、大和でも縄文でも原子力でもない、いかなる「太陽」が可能か、という風に僕の連想が動いてしまいました。

T:ちょっとだけ横から割り込み、すみません。

Mさん、 原子力が「攘夷のための開国」を目指して掲げられたのだとお聞きして大ショック。

いま私に激震が走っています(笑)

お手間でなければ、参考文献などあればお知らせ頂ければ有りがたく。

K:私もすでに書きましたが、おっしゃるとおり岡本太郎の「太陽の塔」(大阪万博)の点火(電力)の触れ込みは、最新の原子力電力でした。岡本太郎論をスガ秀実さんが書いていますが、その中で岡本は反核なのはずなのに、なぜ原子力エネルギーを太陽の塔と結びつけたかということについて。

岡本はどちらかというと反核で左翼的な造形芸術家ですが、ソ連の雪解け以降、その政策(平和共存路線)=共産主義のエネルギー源を原子力開発に置き、その延長線上に、太陽の塔の電力として採用した経緯があるようですね。

ですから、ソ連の平和共存=原子力というラインから、兵器としての原爆を批判する岡本には好ましいエネルギーという解釈があったのだと思います。スガ秀実さんは、(反原発運動はまずは)「太陽の塔を破壊せよ」とユーモラスに呼びかけています。

M:Tさん

特に依拠している文献があるわけでないです。何故日本で原発が作られたかを、歴史的文脈に即して考えれば、あれは一つの「攘夷のための開国」だったのだろうな、と自分なりに思い至ったということです。

D:近代の超克のテーマが最初に出されたのは、Kさんのこの発言からでした。

>「近代の超克」の問題が戦前にありますが、三島も岡本も「近代の超克」の反復をしているところがないでしょうか。反近代も近代に包摂されるはずですから、ともに近代主義者ですが反近代的スタンスをとった二人ということができるかもしれません。(0121)

忘れ去られた感のあった「近代の超克」という問題提起を、戦後の言説空間の抑圧から解放し、強靭な精神力でもって復活させ、その意義を批判的に考察して、歴史を読み替える試みを行ったのは、巨人的思想家竹内好でした。

この竹内好の「近代の超克」の初出媒体である筑摩書房刊『近代日本思想史講座・第七巻・近代化と伝統』が私の手元にあります。この第七巻には、橋川文三の「歴史意識の問題」も収められています。

『近代日本思想史講座・第七巻・近代化と伝統』が刊行されたのは、昭和341120日。橋川文三の『日本浪曼派批判序説』の刊行される数か月前でした。

竹内好の「近代の超克」と橋川文三の『日本浪曼派批判序説』。このふたつの論考こそ、私がたえず参照し自らの真の出発点として何度でも振り返ることが必要と感じている金字塔です。

D:岡本太郎記念館に行ってみようかなと思ったのは、宮沢りえのこのビデオを見たからでした。「絶対に来た方がいいと思う」~この一言でふらふらと岡本太郎記念館まで吸い寄せられてしまった私。なんてミーハーなんだろう。反省(しない)。

(宮沢りえのビデオ削除されたので代わりに岡本太郎記念館をリンク)⇒入口

T:Mさん そうでしたか。ご持論をどこかで公開しておられるなら、そちらも興味あります。いずれにしても私には新しい視座でした。お話し中すみませんでした&Thnks

>ダンボールさん 青山の記念館、私が最後に行ったのはもう10年ほど前になりますが、バナナの木があったりして、面白いですよね(笑) 川崎にはまだ行ったことがありません。

K:竹内好は、アジアの宗主国としての日本と西洋化、近代化した日本のパラドクシカルな位置に一番注目した人だと思います。

かつては中国文化圏にどっぷり使って、文字のないところから漢字仮名交じりの文章語さえもっている。明治以降、西欧化、近代化(あえて=で結びませんが)によって、アジアの宗主国的な面を持ちつつ、一方で西欧諸国が植民地をアジアに求めてくるのに乗り遅れつつも、そのプログラムをなぞろうとしました。アジアでありアジアではない日本の後発が、第二次大戦の渦中で「近代の超克」というかなり抽象的な問題が浮上した理由だと思います。

「西欧=近代」を内面化する過程で(それが十分でなかったにも関わらず)、日本が「西欧=近代」から自立していこうとしたということでしょう。問題は、そのときに西欧ではどうだったかといえば、「西洋の没落」という本が話題になっていたときです。つまり、西欧的な価値観自体を西欧が疑いだしたのを契機に、日本は「近代の超克」の自立のプログラムを思潮の異なる3派が集まって論じた。

自立のプログラムとは何か?それは「西欧=近代」の価値観とは別な価値観がそこになければいけません。でなければせいぜい「西洋の没落」を後発でなぞるのがオチだからです。そこで出てきたのが「アジア」という価値観ですね。京都学派はこの「アジア的価値観」に依拠して没落しかけている「西欧=近代」を相対化しようとしたと思われます。

これが例の「大東亜共栄圏」へとつながって行く道筋だと思います。西欧をなぞり続けるか、アジア的なものに依拠して西欧を転覆させるか。実際中国戦線やのちのアジア戦線では解放戦線という美名で、それが行われたわけです。アジアを西欧=近代から解放するという名目ですね。てこの原理で、アジアが使われたということ。これがアジアでもあり、西欧でもある日本のパラドックスを解決する道筋だということになっていったわけです。

近代を相対化できるほど十分ではなかったという論は、夏目漱石だけではなく、中村光夫もそうですし、丸山真男もそうです。「近代の超克」はできないフィクショナルな議論だったということでしょう。竹内はそこで共産主義となった中国(アジア)を戦後にもう一度問題にした人ですね。

K:安保闘争の時、「民主か独裁か」という竹内の問いに、もちろん民主と答えた世間は本当に正しかったといえるのか。戦後民主主義を掲げた安保闘争の面々は、当然民主と答えるであろうと予想しての問いかけだったと思います。

一応いわずもがなで書きますが、民主とは戦後民主主義、独裁とはプロレタリア独裁の意味のはずですね。後者を選択できない日本の戦後民主主義の立脚点が暴露される問いだったのかもしれません。竹内好の立脚地は、中国ですからね。

K:一応断っておきますが、上に書いたことは私の意見ではなく、竹内が言ったことです。少しだけ話を進めます。竹内が画期的だったのは、冷戦下、旧左翼を相対化していった新左翼でさえ「反帝・反スタ」を言うばかりで、結局は米ソに反対するところまででした。抜け落ちているのは何か?それは中国であり第三世界です。竹内が戦後の思想家の中できわめて批評的だったのは、中国を見ていたことだと思います。

三島が自決した70年、岡本太郎が総合プロデューサーを務めた大阪万博の開催も(もちろん「太陽の塔」も)70年です。さらにいうと70年には、新左翼運動に風穴があいた事件が起きています。それが華僑青年闘争の新左翼における民族差別に対する告発です。日比谷野外音楽堂の集会で起こったことらしいですが、「反帝・反スタ」を掲げた新左翼でさえ、ナショナリズムを払拭できていない現状を、華僑青年闘争から突きつけられた形になりました。新左翼の諸党派は自己批判します。その後に入管闘争が始まり、赤軍派は第三世界論ではないですが、海外へ出て行くことになります。

70年にいくつかの事は起きているわけですが、竹内が注目した中国ではいわずもがな、毛沢東の文化大革命が起こっていたわけです。ゴダールはフランスで「東風」としてそれを受け止め、映画を撮っていますね。結局は、文化大革命(「東風」)がヒッピーやニューエイジなどを先進国と言われる国々の都市部で起きました(対抗文化・カウンターカルチャーの隆盛)。70年以降の先進国の文化に浸透していく流れを作り、それは80・90年代から現在をも規定しているともいえると思います。ポストモダン現象のさきがけと言ってもいいと思います。

竹内は70年以前に60年安保時(冷戦時)にすでにその中国・第三世界を見出して、戦前の「近代の超克」の問題の反復を別様に見出していたと思われます。

D:私の最初の発言で違いの分かる男「狐狸庵先生」こと遠藤周作が、欧米=父の宗教、日本=母の宗教、と区別したことを指摘しました。

「狐狸庵先生」以上に違いが分る男「マツケン」こと松本健一が、欧米と日本の「太陽」の違いについて興味深い指摘をしています。

そのことを不意に思い出しました。松本健一言うには、日本では太陽は女性です。太陽=天照大御神である。月は男性=ツクヨミノミコト。

しかし、西洋では太陽は男性名詞であって、太陽=男、月=女、なんですね。神は男性です。我らの父なる神、とキリスト教では祈る。

ここらへん、丸山真男が、「なる」と「うむ」が日本思想の原型であると説いた例の論考にかぶさると思われる。日本文化には「つくる」という発想が弱い。

豊かな自然に恵まれた日本は多神教文化を育てた。父の権威がない。だから超越者がいない。自然/制度という区別ができない。だから科学的思考ができない。非政治的なんですね。

丸山は、この「なる」「うむ」の文化を批判的にというか、相対化せんとしているわけですが、あいもかわらず日本のこの多神教文化をたたえて、そこに回帰しようとする没思想的な発想が絶えません。一神教さえ回避すれば、万事うまくいくという同じ主張の繰り返しが歴史的に何度も復活してくる。原型からの揺り戻しですね。

近くで言えば、中沢新一の『日本文明の大転換』にも、原発=一神教、脱原発=多神教、という図式で、一神教から多神教へ回帰すれば、日本は世界をリードできますよという安直な凡庸な屁みたいな議論がなされてます。

またかよ、と私なんかは思うんですけど、この書は売れてますし、その議論にコロッといかれる人の方が多い。多神教だめとは私は思いませんけれども、一神教=×、多神教=○、みたいな単純な理屈に屈服するのは私は認められません。歴史的に破産が証明されている。近代の超克の悪しき復活の一例と見ていいではないでしょうか。中沢氏の場合も。

MKさん

僕自身は文化大革命には否定的な印象が強いのですが、文革が現代に至るまでの先進国におけるサブカルの土壌を作った――という捉え方は面白いですね。たしかに、先進国においては、サブカルの世界でこそ「近代の超克」は暗く幻想され続けています。日本の映画や漫画やアニメにはそんな話が溢れ返っていますし、オウム真理教もその一バリエーションといっていいのではないかと思います。ちなみに、竹熊健太郎は『私とハルマゲドン』で7080年代のオタク文化とオウム真理教の関連を考察していて、これはなかなか興味深いサブカル論にもなっています。

ただ、サブカルチャーの世界の言説というのは、基本的に公的な歴史(勝者の歴史)から排除される「歴史の敗者」の情念が苗床になって形成されるものであり、竹内好の「アジア主義」もそんな「歴史の敗者」の情念を表象すべく構想されたアイディアでしょうから、サブカルの世界で「近代の超克」に類する言説が反復されるのは、70年代以降に限った話でもないとは思います。

T:ダンボールさん

名詞の性差、なるほどです。le soreil と la lune、ホントですね。伊語でも、西語でも、ラテン系の言語では太陽=男性、月=女性ですね。(ただし独語ではdie Sonneder Mondで、性別が逆になるのは何でだろう?という疑問はありつつ。これドイツ語に時々あります。同じラテン語系の伊語仏語間にも稀にあって、ややこしいんです)

そして丸山真男につながりましたね。うーむ、丸山はやはり、「うむ」「なる」の違いを、相対化というか、批判的な目で分析しているように私は読みました。で、丸山の説はそれはほんにその通りと思う故に、その丸山をもまた何とか批判的に乗り越えることができないかと、太助太郎は日夜、自己研鑽に努めておるのであります(ちょっとウソ)。

それにしても、一神教も多神教も、それぞれの特性があるのであって、一神教vs多神教みたいな二項対立図式で語れるほど単純ではないと思いますよね。「なる」の文化で致命的に弱いのが、主体性とコミットメント。それから契約の観念(マゾに限らず)。一方、一神教には一神教ならではの硬直性にともなう脆弱性がありますよね。

中沢さんが、どのような趣旨で多神教ヨイショしておられるのかは存じませんで、善意に捉えると、あまりの西欧コンプレックスの療法として、それほど悲観的になることはないよ~と国民を鼓舞しようという趣旨ももしやあるのかもしれませんが、それにしても知識人であれば多神教が一神教に勝るなどという言説は、一笑に付されるだけではないですかね。そもそも多神教とは汎神論なワケでしょ、であれば、それってまるで多神教原理主義(笑)みたいなワケわからなさ(笑)

(もともと多神教って、本地垂迹説とか神仏習合とかやってのけるような、よく言えば寛容、悪く言えばアバウトさがウリなのであって、神宮寺に加えて日光東照宮の中庭にチャペルを建てちゃえるくらいの度量(いいかげんさ?)が本来ならあるはずで、一神教を優劣つけて排撃するようなら、それはすでに多神教ではないのであって、何だかよく分からない妙なもののような気がしてならないんですが。)

それはさておき、もしも「近代の超克」を目指すのであれば、二項対立図式ではなく、むしろ両者のどちらの成分も併せ持っているようなハイブリッドな存在のありようの中にこそヒントがあるのではないかな、と個人的に思っているところです。たとえば北欧とか。

北欧は基督教文化圏でありながら不思議な多神教類似の風土性があります。文学もそうですし、芸術文化全般が、ヨーロッパ大陸と風土性を異にしています。北欧のみならず、アイルランドやギリシャなど、欧州の辺境といわれる地では、一神教のあり方もまた独特です。(そのような土地における基督教のローカライゼーションと今日のありようは、あるいは欧州の一神教の未来像ともいえるのではないかと、秘かに期待しているのでありますが。)

それに、丸山真男がすでに古層論の末尾において「「神は死んだ」とニーチェが口ばしってから一世紀、世界での様相は右の日本の情景にますます似てきているように思う」と述べているように、すでに世界の先進諸国は日本的な(=多神教的な?)様相を呈してきているのであって、近代はすでに≒西欧、とは言い切れなくなってきている気がしますし。

いずれにしても、一神教=×、多神教=〇というのであれば、それはほとんど「鬼畜米英」と同じ(笑)であって、イマドキそんな事を言うのは、文化の問題のそれ以前の、いなか者なんではないですかね。

D:>いずれにしても、一神教=×、多神教=〇というのであれば、それはほとんど「鬼畜米英」と同じ

同感です。この問題については、宗教学者、大田俊寛氏の中沢新一著『日本の大転換』についての連続tweet、がいちばん参考になります。

http://togetter.com/li/206766
K:まずお二人に。

ダンボールさん Tさんへ

たいへんおもしろい論点を導入されましたね。

西洋では(太陽=男性、月=女性)/日本では(太陽=アマテラス・女性、月=ツクヨミノミコト・男性)といういわば象徴的なものにおける価値観が全く逆であるということですね。しかし日本は本当にそうでしょうか。

さて、まず三島が戦前の「天皇」=「太陽」といい、戦後の人間宣言をした後の「天皇」=「月」と解釈しました。戦前の「天皇」の超越性をおそらくは「太陽」=男子(父性)ととり、超越性を自ら否認した戦後の「天皇」=「月」=女性(母性)としたということでしょう。

戦前といっても近代に入ってからですね。では武士(ますらおぶり)の時代に入って、天皇を中心とした貴族的なものは女性的な(たおやめぶり)と捉えられてきたはずです。

近代に入り戦前だけ「天皇」はむしろ歴史的に例外的に武士的な男性的な様相を呈して「太陽」と映った、戦後はむしろもとにもどって貴族的で女性的な様相=月と映ったということですね。しかし神武などの古代天皇は近代の戦前の天皇=太陽のモデルとして参照されたと思います。まとめると以下。

古代・神武(太陽)ー中世・武士の台頭期(月)ー近代・戦前(太陽)ー戦後(月)。このような感じで捉えられているように思います。

ということはどういうことかというと、「天皇」は「太陽」男性(父性)でもあり、「月」女性(母性)でもあるという二項対立のパラドックスを生きる、どちらでもありうる存在であることが歴史的にみていくとわかると思います。つまり、二項を固定化している西洋に比べ、どちらでもあるというスタンスです。

西洋は、超越性(太陽)をもった一神教的な男性的・父性的なものと、満ち欠けをもち、あくまでも(太陽)の反射光で輝く受動性をもつ、女性的・母性的な(月)と、二項が事分けがされて固定化されていると思います。逆転はゆるされない。

日本は反転可能性をつねにもっており、どちらでもありうる存在だった。つまり太陽はときに月であり、月はときに太陽でもあるというパラドクシカルな存在として「天皇」をみてきたと思います。固定化できないことこそがその存在の特異性ではないでしょうか。

私はそれをすぐに一神教から多神教へ、と考えません。(月)は決して多神教的ではないからです。月は月で夜に君臨する存在で、夜の一神教というべきです。だからこそ反転が可能のはずです。いつでも身をかわせる。問題はこの反転を可能にしているものとは何かということですが、それは二項はどちらでもよいということであり(太陽=月)を肯定することだけがそこにはあるということです。それは二項をともに肯定する(可能にする)地平の肯定を意味するはずです。それこそが丸山が指摘した日本の「無限抱擁性」の肯定だと私は考えます。「なる」(自然・じねん)が肯定される場ならぬ場です。何でも受け入れるが何も受け入れない(傷つかない)広い布をイメージします。相対主義の無間地獄のような場ですね。超越性=非超越性というようなことが平気で起こる場なのですから。超越的な西洋的価値(例えばキリスト教)をいくら日本に受けれようが、何も変わらないし、むしろそれを非超越性として取り込んでしまう無限抱擁性が作動して場です。

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さて、では多神教的なものとは何かですが、それは昼の太陽と夜の月の一神教的な存在が忘却しているものです。ふたつのことなったあまりにまぶしい光にその存在が消されているものたちです。

それはたくさんの星です。このたくさんの星々こそが多神教的な存在だと私は考えます。これらを肯定するために古代の人々は光のない夜に星と星をつなぎ、そこに星座をいくつも発見し、メッセージを読もうとしました。「しるし」とは最終的には意味論に還元できない、固定化できない、読みきれないものです。むしろ意味解釈を可能にしていて、そのひとつの意味をはみ出してしまうような過剰さをもった何かでしょう。メッセージはあくまでも一解釈にとどまり、すぐに別の解釈がそれを襲います。星と星の連関はですから流動的で、全体化できないものだと思われます。これは二項対立はおろか、二項の反転可能性やそれをささえる無限抱擁性の外に広がってとらえどころがないものだと思います。

K:Mさんへ

文化大革命はとんもないと私も思っています。しかし無視できないし、その後の波及ということでいえば先に書いたとおりです。ジジックが以前書いていましたが、現在の中国のバブルは実は文化大革命が関係しているというおもしろい論があります。紅衛兵が造反有理を掲げ、すぐ上の上司どもをつるし上げにし、引き釣りおろすことを、毛沢東は肯定してみせました。これもひどい話で、毛沢東は無傷なわけですからね。上司たちはいい迷惑です。しかしそれを肯定しました。

革命のさらなる革命を肯定していくこと。これはまさに資本制の繰り延べ運動そのもので、差異をみつけて固定化せず移動し開拓し続ける運動の肯定だというわけです。すでに文化大革命で中国の資本制はすでに準備されていたというわけです。

中国の資本主義を含めて私は肯定はしませんが、その文脈で言えば遅れてきた勝者かもしれず、当時の日本・アメリカを含めた先進国を毛沢東は「張子の虎」だと称しました。そのときは負け惜しみに聞こえた人もいたと思いますが、実際はどうでしょうね。

ソ連はなくなり、一方的に「勝者」を宣言したアメリカやヨーロッパ、あるいは日本は今やこの状態です。中国の一人勝ちが遅れてやってきているのですが、まあこれも長く続くとはとても思えません。お互いに資本制をめぐる軌道は「張子の虎」というべきではないと思います。つまり「勝者」はいないということです。

竹内が偉かったのは、あの時代にそれが言えたことでしょうね。おそらく中国に何の恩義も無い竹内が冷戦のすき間に見出す力を持っていたということでしょう。そしてそのラインが図らずもその後先進国都市部のサブカルの起源となり、現在までそのラインは伸ばせるということでしょう。敗者は勝者になり、勝者は敗者になる可能性を常に秘めているはずで、予断を許さないということは、歴史の教えるところです。それを固定化してはいけないと思います。

自分の立場はあってしかるべきですが、一応私はそれぞれを公平にみてものをいうのが先ではないかと思います。

T:Kさん

孤児さんのご指摘の、「二項対立のパラドックスを生きる、どちらでもありうる存在」というのは非常に面白いですね。

現に明治天皇は幼少期はたおやめ的であり、西郷隆盛による強化トレーニングによってますらお的に変身したという話をどこかで読んだ記憶があります。明治維新を挟んで、一人の人物が一生の内に貴族的(女性性)→軍人的(男性的)へと変化したわけですよね。社会的要請によるやむなくという事でしょうが。この観点は確かにすこぶる興味深いですよね。

ダンボールさん

中沢さんに関するツイート読んでみました。読まずとも著書のナカミが想像できました。

大田氏はおそらく、「この本は大衆の麻薬です」と仰りたいのでしょうね。

上でMさんが触れておられる『私とハルマゲドン』にもとても興味を惹かれたのですが、大田さんもオウムに言及しておられますね。

私もオウムにはずっと関心を持っていて、というか、「何であのような優秀な若者たちが、あのようなインチキにコロッとやられたんだろうか」という疑問が長い間解けずにいたクチです。本をあたっても釈然とせず、最終的にやっと納得させてくれたのが村上春樹でした。それもつい数年前のことです。(ずっと考え続けていたけれど分からなかったのです・苦笑)

村上は「物語に絡め取られた」と言いました。大きな物語を喪失してしまった世界の中で、麻原の語る物語は閉塞感にうんざりしていた若者たちにさぞ魅惑的に映ったことでしょうし、エネルギーと魂の解放の場所となり得たのでしょう。ともかくも私の方はこの説明で目から鱗がボロッと落ちて、まったく腑に落ちのでありました。

それでいうと大田さんは中沢さんをストーリーテラーであると、しかもアブない物語だと見做しているということでしょうね、大田さんの感触、よく分かりますね。

人間は物語なくして生きてゆけるほど強くはなく、その点は大審問官がよくよく知っていますけれど、おなじ物語でも、明確に「敵」を設定するタイプの物語はとても危険ですね。

じゃあ、歴史上の偉大な「革命」はどうなんだと言われれば、オウムの革命と似たような構造であるように思われますが、やはり最小限の正当性を担保するものは一般大衆の支持なのではなかろうか、と思ったりします。

なんだか話が逸れていきそうですが、=×、=〇というのは、とっても危険。物語性は大ですが、そんな単純じゃないものを、これほど単純な図式で解釈すること自体にそもそも「鬱憤晴らし」の要素を感じてなりません。

D:○こういうのを見つけました。中沢新一による岡本太郎の『明日の神話』解説。

http://www.1101.com/taro_money/nakazawa/index.html
○もっと凄いのも見つけた。中沢のチベットでの修行体験を述べた動画。

http://vimeo.com/2295814

T:まずは太郎。明日の神話と太陽の塔が表裏一体、一対というのは初耳でしたが、言われてみると、きっとそうなんだろうと思えます、妥当な見解だと思われます。

その他、中沢さんの岡本太郎解釈は、一貫して妥当だと思いました。

しかし太郎のいう、核を神話で包みながら乗り越えてゆくというのは、コンセプトは分かるんですが、具体的にはイメージし難しいですねぇ・・・。悩みます。

T:次にチベットでの修行体験。

こ、これ、ヤバくないっすか??

ヤバいっしょ~。

コワすぎ。

T:ところで、紳士の皆様。

中沢新一といえば、次にくるのは即、オウム。

皆様は、この件について、どういう見解でいらっしゃいますか?

私はというと、

中沢新一氏の著書『虹のナントカ』が、オウムの聖典となり、

本人も初期の麻原に共鳴し、彼を称揚していたという事実は事実。

当人はその件に関して、(もうしているのかもしれませんが)きちんと総括はするべきと思っています。

ただ、中沢はオウムを支持していた人、だから・・・という理由で、

彼の言説を全否定するのもおかしな話では?というスタンスです。

オウムとの関係で言えば、

彼の瑕疵は、彼が初期の麻原の危険性をどの程度予知しえたかという点によって

計られなければならないと思うし、

それすなわち、「オウムの何が誤まりだったのか」を見極めることにもつながる、

そのように思っています。

それから、彼の言説は、言説そのものとして評価されなければならない、と思っています。

(つまり、だからといって、彼の言説を肯定している訳でもありません)

ただ、中沢氏の論の一部を、(たとえ限定的にであってさえ)肯定的にとりあげると、

いや、肯定に限らず、ただ取り上げるだけで、

相手次第では、オウム肯定論ととられかねないようなムードはあるわけで。

部分の話と全体を混同する人が後を絶たず、

また、そういう大衆心理を操作的、扇情的に利用する人も後をたたず、

中沢氏の話に限らず一時が万事なんですが、

解析的思考を放棄して、とかく印象論とか全肯定⇔全否定を極端から極端へ移動することの方に、

より大きな危険性を感じている次第。

D:「中沢新一批判をめぐる論争」が興味深いです。主軸は宗教学者大田俊寛氏と中沢新一の弟子である文化人類学者の佐藤剛裕氏の論争です。外野を巻き込んでかなり広汎な話題が錯綜していますが、中沢新一を擁護する佐藤剛裕氏と一貫して批判する大田俊寛氏という構図が鮮明です。

http://togetter.com/li/198232

大田俊寛氏の著作は二冊あります。『オウム真理教の精神史』は読了。本日より『グノーシス主義の思想』に取り掛かっています。大田俊寛氏はたいへんな力量のある宗教学者であり、宗教に関してほんとうに血となり肉となる本質的な学知を提供してくれるので、私にとって貴重な存在となりつつあります。

T:冒頭の↓には同感ですね。

>しかしいまだにオウムシンパとか言う人がいて、タメイキ。あなた方がマスゴミと呼んでる人たちが15年前に貼ったレッテルだよ? と言って回りたくなる

「グノーシス主義」ってなんだ?と思って調べてみたら、なんだかややこしそう・・・。しかしやはり、というか当然というか「人間の世界把握の様式」の一つなんですな。何事もそれに尽きるというか。

なるべくなら、ルサンチマンがベースの世界観から、クリエイティヴィティ(もしくは、せいぜい諸行無常どまり)がベースの世界観が主流となる日が、早く来てほしいものです。

D:大田俊寛氏の『グノーシス主義の思想』は『オウム真理教の精神史』もそうですが、読み終えての感想としては、再読・再々読するに値する書物と断言できます。そもそも正面切って論ずるのが難しい主題である「グノーシス主義」や「オウム真理教」に果敢に正攻法で解析的思考の網の目をかぶせるなどということは誰にもできることではありません。何という野心的な学者だろうとただただ感心しています。その考察や分析は明晰であり対象を深く抉っています。今後この方の仕事は注意深くフォローしていきたいと思っています。

T:ご講評、たいへん参考になります。

そういう、知に誠実で心意気の感じられる学者さんに出会うと、

世の中捨てたモンじゃないと思えてきますね。

ダンボールさんはレビューは書かれないんですか?

どちらも、とても内容にとても興味があります。

D:大田俊寛氏のHPに両著書の書評が掲載されています。

http://gnosticthinking.nobody.jp/

私はまだ読んでないんですが「論考」という項目で大田俊寛氏の論文も掲載されています。そのうち読むつもりです。

レビューは私はいままで書いたことがないんです。ちょっと苦手でしてね。

そこで今回は特別にTさん向けに『グノーシス主義の思想』の紹介をしますね。

Tさんは、キリスト教の教父エイレナイオスという人の唱えた「予型論(タイポロジー)」という説をご存知ですか。

エイレナイオス、予型論、私はまるで知りませんでした。でも大田俊寛氏は専門家以外は誰も知らないようなこの教説をとても分りやすく説明してくれています。

エイレナイオスの唱える予型論とは、<新約によって「成就」される事柄が、旧約によって前もって「予型」として示されている、と考える>教説だそうです。たとえば旧約のアダムとイヴに対する新約のイエスとマリアなど。以下、引用です。

ーー 予型論的解釈の代表例としては、アダム=キリスト、およびエヴァ=マリアの予型論が挙げられるだろう。(略)まず一方でアダムは、神の言葉に不従順であった処女エヴァにそそのかされ、知恵の木からその実を取って食べたために、人間に原罪をもたらすことになった。これに対して、アダムの「対型」となるキリストは、神の言葉に従順であった処女マリアの懐胎によって、無原罪のままこの世に誕生し、さらには十字架という木に磔にされる刑罰を受けることによって人間の原罪を贖ったのである。

ーー ここには、旧約と新約のあいだの対照的な構造が、あるいは、旧約において端緒を開かれたものが新約において成就される「再統合」の構造が見て取れる、というわけである。

ーー 彼は予型論的な聖書解釈の手法を示すことによって、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)をほぼそのままキリスト教の正典として受容するための道を開いたのである。

どうです。すっごく分りやすい説明でしょう? こういう分りやすい文書ですから、全文一気読みで私は通読できたのです。

T:ダンボールさん

ご親切に、わざわざご説明いただいて恐縮です、有難うございました

リンク先も、大変に参考になりましたよ!

二冊とも井上章一氏がレビューしていて、私、『美人論』以来、氏はわりと好きなので、

真剣に読んでしまいましたよ~。

どちらも買いたくなって、困っています(笑)

いろいろとお教えいただいて、ありがとうございます。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture1350:240929〕