伊藤律研究会-50年代の日本共産党――あるいは新左翼の源流①

伊藤律の故郷瑞浪市で「伊藤律研究会」が生まれ、すでに5回の研究会が行われています。東京ではしばらくこの種の研究会はもたれたことがありませんでしたが、今回、「50年代の日本共産党──新左翼の源流」として、戦後70年の節目に当たり、表記のタイトルで第一回目の研究会「最大の闇としての伊藤律スパイ問題」と題して研究会がもたれることになりました。第二回目は「朝鮮戦争下の50年分裂・軍事路線と六全協」が予定されています。関心のある方はご来場ください。

月日 10月11日、午後3時から3時間程度。

場所 東中野区民センター、東中野・東口北側7分。東西線─落合・3番出口2分

主催 西部共闘学習会、

講師 渡部富哉

50年代の日本共産党――あるいは新左翼の源流①

その最大の闇としての「伊藤律スパイ」問題

10月11日、表記の学習会で報告することになり、以下の質問が寄せられました。この質問に沿って報告のレジュメを作成しました。『偽りの烙印』や『生還者の証言』、『伊藤律回想録』などが出版されておりますので、書かれざる秘話(真相)について報告したいと思います。報告に対する質問は遠慮なくどうぞ。

・ゾルゲ・尾崎事件における「伊藤律端緒説」とはなにか 松本清張、尾崎秀樹らの主張と真実、その概略

・「スパイ説」における特高・宮下弘の役割と功名心

・戦後革命期(45~49年)における伊藤律の党における位置と役割 徳田の側近だったろうが、党内でどう見られていたのか

・マッカーシズム前夜における49年ウィロビー報告とは何を狙っていたのか

・50年分裂→軍事路線に伊藤律はどうかかわったのか 伊藤はなぜ中国に渡ったのか

・徳田球一の死と伊藤処分、軍事路線清算のいけにえということか 敗戦後の徳球の役割とその死の意味するもの

・伊藤律の北京での投獄に毛沢東の意思は働いていたのか

・主役は野坂・宮顕か なぜ志田重男ら所感派も賛成するのか なぜ50年当時の党内で7割の勢力をもっていた所感派が6全協以降姿を消すのか

・6全協での手打ちと伊藤律除名は、結局徳田路線の清算で一致したということか 異論・抵抗はなかったのか 椎野悦郎はなぜ6全協を欠席したのか

・宮顕は、いかにして所感派を丸め込み、沈黙させることに成功するのか 6全協段階で、共産党は徳球をどう総括していたのか 志田をめぐる『真相』等における様々な噂話は真実か

・6全協後、党から分裂する多くの反宮顕派は伊藤律問題をどう見たのか

・伊藤律帰国後、どういう政治的反応が起きたのか、起きなかったのか

渡部富哉報告のジュメ

①   私と伊藤律

②   「スパイ説」における特高(宮下弘)──特高(公安)とスパイ、その未知なる謀略(松本三益の実例から明かされるもの)─当局はスパイを明かさない。

③   戦後革命の時期に於ける伊藤律──農民運動活動は一柳茂次論文参照

④   伊藤律粛清(スパイ説)は米軍情報部の謀略に踊らされたもの、この視点は共産党にはない。誰が、どのように踊ったのか。

⑤   伊藤律の中国行きと粛清、「徳田球一の寿命はあと4年」すべてはここに始まる。

⑥   日本共産党の六全協に軍事問題はなかったことにする。白鳥事件被告たちの反乱と椎野悦朗の叛旗、椎野、吉田(北海道議長)、小松豊吉(軍事責任者)の島送り。

⑦   六全協反対派の決起はあったのか、その結末─「革命戦線」と志田重男。

⑧   伊藤律帰国後の問題点─伊藤律は何を考え、行動したのか。       以上