住まい-はみ出し駐在記(8)

住むところより車が先と先輩駐在員に言われて、車のディーラーを引きずり回されているうちに住むところが決まってしまった。

 

一つ若いがニューヨーク支社(以下NY支社)に二年ほどいた先輩(ボブ:住まいでのニックネーム)が、こっちの赴任に合わせてロスアンゼルス支店(以下LA支店)に転勤になった。駐在先での転勤は希だったがLA支店を機能させるにはNY支社で駐在員としてそこそこ独り立ちした人材を送り込むしかなかった。(LA支店については後日改めて書こうと思う。)

 

ボブが住まいの整理のためにNYに戻っていた。「アパートを探しているのならオレが出てく処にとりあえず入っちゃえば?地下室で汚いけど。ラガーディアもケネディも近い、高速もすぐそこだし場所は悪くない。ここじゃあと思ったら時間をかけて探せばいい。上の大家はうっとうしいくらい親切。モーテル住まいしてたら金ももたないでしょう。」ということで彼の後を電話もベッドもなにもかもそのまま引き継ぐことになった。横着者の横着な選択。どんなとこでも落ち着いてしまえば余程のことでもなければ引っ越しなどしない。

 

翌朝彼はロスアンゼルスに戻る。こっちは先輩について出張で金曜の夜にニューヨークに戻ってくる予定だった。彼の追い出し会、こっちの(何度目かの)歓迎会も兼ねて、日本から出張で来ていた人も含めて技術屋五六人がクイーンズの行きつけの居酒屋に集まった。散々飲んで食ってからマンハッタンのいつものピアノバーへ。彼のアパートに戻ったのは早朝で大家と顔を合わせることもなく、彼からドアの鍵を貰って大家に置き手紙を書いて出張に行ってしまった。

 

彼に言わせれば、こんな地下の小さな部屋には学生くらいしか入らない。オレが出てったら当分空いたままになる。日本人は部屋ではスリッパを履いて汚さない。オレたちサービスマンは週末しかいない。大家にしてみれば支払いも間違いのないいい店子だ。大丈夫だよ。金曜日の夜帰ってきた時に引き継がせてくれって言えばニコニコだ。

 

金曜日の夜遅く返ってきた。勝手にボブのベッドだったベッドで寝て、大家夫婦と顔を合わせたのは土曜日の昼近くになってからだった。地下室から表にでて地上への階段を登って、大家のキッチンのドアを叩いてなんか気まずい挨拶を交わした。もう初夏の太陽が大家の顔を明るくてらしていたのを今でも覚えている。太陽を背にしたこっちの顔は部屋と同じように暗かっただろう。

 

運転免許を取れるまで、事務所にいるときは先輩駐在員にアパートと事務所の間の送り迎えをしてもらった。もっとも火曜から金曜まではほとんど出張だったからお世話になるのは限られていた。

 

困ったのは週末で、歩いて行ける距離にはギリシャ人のオヤジさんが一人でやってる寂れたダイナーだけだった。美味い不味いは問うてもしょうがない。きれいかどうかの方が気になる店でサラダのレタスはいつも縁が茶色くなっていた。いつ行っても客はまばらでオヤジさんは暇。オヤジさんの英語、ギリシャ語からの訛りが強くて聞きにくい。どうでもいい話しかないが、それでもオヤジさんから英語を一つでも二つでも拾おうとして通った。というよりそこでしかメシにありつけなかった。

 

クイーンズ(ニューヨーク市)とニューハイドパーク(市外の中の下あたりの社会層の住宅街)の境に近かったこともあって、両方の町の警官の休憩所のような感じだった。悪い人たちではないのだろうけど-おまわり(さん)にこういうのも変なんだが-拳銃さげてコヒーをすすってる横でのメシは落ち着かない。七十年代の後半、失業率も高くアメリカは傷んでいた。そのせいで当時銀行強盗が頻繁にあった。事務所の近くの口座を開いた銀行も、住まいの近くの銀行にも強盗が入った。そんなわけで警官も良く言えばどことなく緊まった感じがあって、近くにいられるだけでイヤな緊張感があった。

 

古くて狭い安普請の地下室、フツーの人は敬遠する部屋だったが、ニューヨーク市を一歩出た庶民の町、週末に寝に帰ってくるだけのねぐら。ベッドになったきりのソファーベッドに半畳くらいのクローゼット。粗末なタンス、机と椅子しかなかった。ちっちゃなシャワールームにボブが開拓した(大家の了承を得た)地下のキッチン。誰が見ても暗くなってしまうこのうえなくみすぼらしい住まいだった。それでも夏の暑さも冬の寒さも地下が和らげてくれた。本を読むのには何の不自由もなかった。

 

おやじさんはスクラントン(ペンシルバニア)の生まれ、おばさんはブルックリンでニューヨークっ子、二人ともイタリア系だった。心臓疾患があっておやじさんは家でぶらぶら。おばさんが郵便局で働いて生計を立てていた。経済的に苦しいが見えるので、毎年給料が上がれば家賃を上げた。こっちは独り者、家賃に消えるかマンハッタンの飲み屋で消える金でしかない。

 

おやじさんは話すのは遅いが教養のなさなのか何を言っているのか分からない。おばさんは話の筋は通っているし聞きやすいが、そこはニューヨークっ子、早口のキンキン声でついて行くのが大変だった。日常生活の様々なことから歯医者や医者、病院、肉屋から床屋、クリーニング屋、英語の勉強の学校探しから何から何まで面倒を見てくれた。

 

ちょっとしたブランド品の上着でも買ってこようものなら、なんでこんな高いのを買ってくるんだと、まるで自分の息子に言っている調子で叱られた。頼みもしないのにビタミン剤やらなんやら買ってくる。安いって買ってこられた食器洗い用洗剤にやられて手が荒れて、となったらまた安物のハンドクリームを買ってきてという調子。本が読みやすいようにと部屋の照明を入れ替えてくれたのには助かった。

 

おやじさんは多分昔失業していたときに手に職でだろうが自称腕自慢の床屋、三十五ドルのヘアカットだと言いながら散髪してくれた。昔を懐かしむのが目的だったらしく、料金は払おうとしても受け取らなかった。

 

息子のようにしてくれるのはいいのだが、朝帰りした週末の朝、七時かそこらの時間に朝食を食べに上がって来いと呼ばれるのには往生した。朝食と言っても何があるわけでもない、トーストと卵一個の玉子焼きにできれば飲みたくない味のインスタントコーヒー。寝ていた方がよっぽどいいという朝食を食べて、寝に戻った。

 

前にいたのがボブ。名前の頭文字がRだということでRobertに。RobertのニックネームがBob(ボブ)。今度来たのは名前の頭文字がY。Yで始まる名前が思いつかない。呼びやすければ、なんでもいいやってことだろう。ちょっと考えて、トムでいいやという程度のおやじさんの軽さで住まいでのニックネームがトムになった。本名など言ったところで興味もなし、何百回言っても覚えやしない。良くも悪くも軽い出合いで軽く変わってゆく、変わってゆくなかでなんとか、なんとでもやってゆくしがらみの少ない生活。大変なことも多いが基本は軽く快適だった。

 

ただ出張者や後から駐在に来た何人かが地下住民と地下活動家のイメージを重ね合わせて嘲笑のネタにしているのを知った時にはさすがにムッとした。何を言っても何かがある連中でもなし、その程度の人たち。あるのは地下室で自由に本を読める環境にいる、日本人社会のしがらみをできる限り切った自分だった。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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