佐古忠彦記者(TBS・Nスタ)の感銘深い語り ~沖縄慰霊の日のテレビ番組を視て(2)~

2015年6月30日

  一つ前の記事で紹介した6月23日、沖縄慰霊の日にちなんだTBSNスタ「「わが家は今も基地の中 証言…あの日から70年」を視た感想記の続きである。
  沖縄戦前、現在の普天間飛行場の北側一角に住んでいた新城信敏さん(86歳。当時16歳)を佐古忠彦記者が取材する場面が放送された後、画面は、普天間飛行場を見渡す宜野湾市の嘉数高台、さらに慰霊の日の式典が行われた平和の礎に切り替わり、それぞれの地から佐古記者の語りが放送された。大変、感銘深い内容だったので聴きながら視聴メモを取った。それをもとに以下、書き出すことにする。(小見出しは私が付けたもの)

現在の抑止力にもつながる宜野湾村での戦禍の教訓
 「ここはかつての激戦地、嘉数高台。うしろに見える普天間基地の北側と南側では当時犠牲となった住民の方に大きな違いが出ていました。それを左右したのは日本軍の存在でした。」

   <ここでナレーションが挿入されたが省略する。>

 「教育は武器よりも怖い。この言葉は非常に重いと思いました。沖縄では琉球処分で日本に取り込まれてから徹底した皇民化教育が進められてきました。『沖縄にとって本土の日本人よりも立派な日本人であろうとしたのが沖縄戦だった。』この言葉はよく取材の中で出会う言葉です。
 そして、ご覧いただいた宜野湾村では日本軍がいたかいないかで〔住民の生死が〕分かれたあのデータ。これは戦争が起きればいったい何が起きるのか、軍のそばにいる住民に何が起きるのかを実証しています。現在の抑止力にもつながるひとつの答えが沖縄戦にあるのではないでしょうか?」

「なぜ犠牲を食い止められなかったのか」を問うことこそ
  「よく“尊い犠牲のうえに今日がある”と言うんですけれども、確かにそういう部分もあるかも知れませんけれども、しかし、そこで思考が停止しているんではないかという気も時々するんですよね。なぜ、その犠牲を食い止めることができなかったのかという疑問はどうしても消えません。
 生きることを追い求めて、それでもそれがかなわないという孤独な状況の中で、いかに死ぬかという選択を迫られた人々が数多くいました。それは文字どおり、生死の境目だったわけですけれども、そんな選択を国民にさせることは二度とあってはなりません。

70年前の出来事は昔話ではない
 70年前の出来事を考えることは決して昔話をしていることではないんだというふうに思います。取材で出会った80歳代後半の男性はこう言いました。『これから証言する人間が確実に減っていく。私自身もいなくなる。だから焦っているんです』という言葉でした。そこには、また、同じことが繰り返されるのではないかという、今のこの国を包む空気に対する焦燥感があるような気がしました。
 いつまでもこの国が戦後であり続けるために、この沖縄戦からくみ取るべきものはたくさんあります。それが70年後を生きる私たちの責任ではないでしょうか。」

 初出:醍醐聰のブログから許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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