森本あんり著『異端の時代―正統のかたちを求めて』(岩波新書)によれば、現代は「正統の腐蝕」と「なんちゃって異端」の時代である。「現代には、非正統はあるが異端はない。」(p.239)
かつて、現代資本主義体制に対抗する現代社会主義体制が存在していた。今は無い。それは「正統性の涸渇」と「統治エリートの自信喪失」によって自崩した。しかるに「今」資本主義社会においては、「正統の腐蝕」にもかかわらず、あるいは「正統の腐蝕」に無頓着に上層エリート達は繁栄を楽しんでいるように見える。「正統性の涸渇」を自覚した社会主義エリートが資本主義の方向に脱皮・脱走していた時に見られた危機意識と真剣さ。それとは全く対極的に「正統の腐蝕」の中で悠々と生きる現代資本主義エリート達。そうさせているものは何か。正統とか異端とかを論じる事に意味ある時代は去ったのだ。私有財産制と貨幣の支配のほかに、その外部に何か脱出先があるわけではない。とすれば、正統とか異端とか社会生活の根底的問題は消失したも同然だ。このような奇妙な自信が彼等にあるのであろうか。それとも、あのロシア革命の4年前、第一次大戦勃発の一年前、ロマノフ王朝三百年祭の盛大豪華な舞踊会を無邪気に楽しんだペテルブルグ貴族社会に似て来ただけなのか。
私=岩田は、森本の一冊を読んだチャンスに、私の旧稿の一部をここに紹介したくなった。『経済研究』(東京国際大学大学院経済学研究科 第12号 2010年・平成22年3月)にのせた「最終講義:党社会主義の思想と実践――社会主義への移行と資本主義への移行――」から社会主義的支配・統治の正統性とその「涸渇」を議論した箇所を抜き出し、かつほんのすこし補足してここに提供する。「腐蝕」に関しては森本著を読んでほしい。
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涸渇し切った正統性
支配の正当性を考える時、通常、民主的選挙による正統性の調達、伝統の継承による調達、そしてカリスマ(Charisma)顕示による調達の三類が議論される。私達は、このような政治学者や社会学者による一般的な正統性の類型論に反対するものではないが、社会主義/共産主義権力の正統性獲得の様式は、上記三類型に収まり切らない特異性がある。
それは敢えて極論すれば、自給自足的主観的正統性である。その本質は、自分達こそが新しき善き社会を地上に建設する歴史的使命と能力を有しているという自己確信(自信、信念)である。
普通の勤労者達、つまり凡人達は、彼等に暗黙の承認を与える。この暗黙の承認が客観的正統性である。こうして、この共産主義権力の領導下に、資本主義Kと異なる新社会建設の試行錯誤プロセスである過渡期・移行期が始動する。
最初の第零次社会主義、第一次修正主義、そして第二次改革社会主義が試し試され、失敗が判明する。
最後に、第三次の大胆な市場化改革の青写真が「新しい社会主義」として凡人達=普通の勤労者達に提供される。当然のことながら、そのシステムのコア部分と主要部分は、社会主義的であるように、具体的に言えば、資本主義の否定形、nonKであるように見えない。
かくして、凡人達・勤労者達だけでなく、共産党員の大部分が次の二つの、別個かつ表裏一体の自問自答を公然と始める。一方では、「どんな根拠で貴方達コミュニストは私達を資本主義社会へ領導する権利と資格を持つのですか」、「それは貴方達の仕事なのですか」。他方では、「どんな理由で私達コミュニストは資本主義の再導入・復活においても社会を領導する権利と資格を持つのだろうか」、「それは私達の仕事なのだろうか」。
共産党員の殆どすべてが資本主義よりもベターである社会主義―共産主義の良き社会像を見失い、それを建設する集団的能力と使命への自己確信を喪失してしまう。こうして、彼等の自給自足的主観的正統性とその暗黙の承認としての客観的正統性の両者がともに永遠に蒸発してしまう。
社会主義の時代の歴史的性格を上記のように把握すると、1989-91年期にソ連東欧において観察された社会的・政治的大動揺を市民革命である性格規定する事の誤りが明白となる。当時、200年たってフランス市民革命がロシア・東ヨーロッパに到達したと称賛する人々が北米・西欧・日本に多くいた。何故誤りなのか。
私達の見解では、政治革命とは、新しく誕生しつつある正統性の社会的担い手集団と古いが未だ余力を保っている正統性の社会的担い手階層が正面衝突して、新集団が旧階層を政治的に打倒する事を意味する。
1989-91年期の諸変動の真の社会的政治的意味は、マルクス・レーニン主義の思想的・実践的生命力の老衰・涸渇・自然死である。単純化して言えば、nonKを追及して、Kの肯定にいたった歴史的矛盾・自己否定を市民的・常民的に追認する社会的祝祭である。前者の社会集団も後者の社会階層も存在していなかった。前者は未形成であり、後者は消滅しつつあった。祝祭の表現形態があれらの一見「市民革命」的大集会である。
勿論、世界大的に見れば、アメリカを要とする西側の資本主義体制(Kの維持)とソ連を要とする東西の社会主義体制(nonKの追及)との東西対決において、西が東に勝利したわけであって、この面から見ても、東側の自発的市民革命論を主張できない。
コミュニストたちの目先の効いたある部分は、共産主義の古い外套を脱ぎ捨て、資本主義の新しいドレスを早急に見につけたがっていた。彼等は、社会主義における特権、つまり正統性の疑われている古いささやかな特権よりも、私有財産制の神聖性によって保証された新しい大富裕層に変身する道を切望していた。彼等の私的欲望の実現にとって、秩序ある体制移行・体制転換は好ましいものではなく、一見「革命」であるように見える社会的動揺状態・無秩序こそが好ましいものであった。
そこにビッグバン的・ショック療法的体制転換をアドバイスする相当数の北米西欧のエコノミスト達からの協力を得て、彼等は、瞬時にして首尾よくオリガルヒとかタイクンとか呼ばれるようなウルトラ金持に成上る。国有財産・社会有財産の盗奪者達である。今日の「振り込め詐欺」グループと同質の才能、知性そして倫理の持ち主である。
無機的独裁と有機的独裁
これまでの論述の文脈において、私達は、ソ連邦の最後、大日本帝国の最後、そしてヒトラー第三帝国の最後を比較分析して、私達の論旨を補強しておこう。
立憲君主制の枠組を採用していた明治国家・大日本帝国をソ連邦やヒトラー・ドイツに匹敵する独裁国家とするのは、若干無理があるとは言え、大東亜戦争という全国民的一大事の開戦の意思決定御前会議にも終戦の意思決定御前会議にも国民選出の代議士が誰一人かかわっていない所を見れば、以下の論脈において、独裁制の一つと見て差し支えなかろう。
大日本帝国とドイツ第三帝国の最終段階において上層エリート集団の内部で日本国民とドイツ国民を統治することの主観的正統性は、全く、あるいはほとんど涸渇していなかった。それ故に、彼等の崩落は、より強力な外部的ファクター、すなわち、アングロ・アメリカンの軍事力とソヴェト・ロシアの軍事力によって強制された次第である。
とりわけ、第124代昭和天皇を中心とする帝国日本のエリート層は、日本を統治する主観的正統性も客観的正統性も全く喪失していなかったし、日本社会における天皇の基軸的位置に関して如何なる疑問もいだいていなかった。彼等は、天皇制の伝統的価値、すなわち国体の価値を確信していた。第124代天皇をラスト・エンペラーとなさしめない為に、唯一その為だけに、第二次大戦の末期的最悪状況においてさえ、最大限の努力をした。そして、そのような最期のプロジェクトに見事、成功した。
ここで、私達が視界の外に置き忘れてならない事は、当時、彼等の軍事力と軍事的資源の殆どすべてが失われており、彼等は完全に裸であったという事実である。
ソ連邦崩壊のケースにおいては、巨大量の軍事力と軍事的資源がいまだフルスケールでソヴェト・エリートの手中に握られていた。
しかしながら、ソ連邦の党国家指導部は、かかる巨大量の軍事的暴力装置、たとえば大陸間弾道ミサイル、戦車集団、重砲部隊をどんな理由で何の目的で保有しておるのか、その意味に自信が持てなくなっていた。はたまた何の為に使用すべきなのか、がわからなくなっていた。
長期にわたる歴史的諸実験の結果として、あらゆるレベルのソ連共産党指導部は、彼等の生命力が完全に涸渇し切ってしまった事を内心で承認するに至っていた。労働者蜂起によって揺さぶられたポーランドと違って、客観的正統性の方は、いまだ多少残っていたとしても。それ故に、巨大量の暴力装置は、ソ連邦エリート集団にとってさえ無用無益なものと化していた。
以上のような論脈において、私達は、二種類の独裁制について議論してみたい。第一種の独裁制は、歴史と社会の内部から生まれ来る。第二種のそれは、歴史と社会の外部から歴史と社会に押し付けられる。第一のそれは、自生的・有機的独裁制であり、第二のそれは、人工的・無機的独裁制である。第一のそれは、伝説(Legend)と神話(Mythology)に基付いており、第二のそれは理論(Theory)とイデオロギー(Ideology)に基付いている。言うまでもなく、マルクス・レーニン主義の独裁制は、第二のカテゴリーに属する。
知識人前衛がデザイン主義的に新社会を構築する事を目指すならば、彼らの最初の事業として無機的独裁制を樹立せねばならない。それなくしては、最適社会の全面的プロジェクト・デザインは、いかなるものであれ、純粋に紙面上にとどまらざるを得ないからである。
20世紀において、大別して二種類の社会主義プロジェクトの試行錯誤が観察された。ソ連型とユーゴスラヴィア型である。両者の間に類似性と相異性がある。
類似性は、両者においてヴィジョン・理念像の作者(Visionaries)のポストとステータス、そして基本的諸制度・諸行動ルールの設計者・立法者のポストとステータスがマルクス・レーニン主義党、すなわちソ連共産党とユーゴスラヴィア共産主義者同盟によって独占されている所に在る。両国において、コミュニストは、S(Socialismの理念像規定)領域とI(Socialism的制度・機構の構築、Institution)領域の独占者である。
ソ連邦においては、他の二領域、O(制度・機構の作動運営、Operation)領域とA(現実的諸結果の分析、Analysis)領域においても共産党の厳格な統制が実行されていた―味方ならざる者は敵である―が、ユーゴスラヴィアにおいては、これら二領域は、非共産主義者―勿論、反共産主義者ではない―にも比較的オープンであった。―敵ならざる者は味方である―。この相違は、偶然ではなく、社会主義の基本的ヴィジョン・理念像Sの相違、従って理念像に立脚する社会的・経済的諸制度Iの相違から由来する。すなわち、集権的計画経済の社会主義か労働者自主管理の社会主義かである。
いずれにしても、20世紀の社会主義体制、すなわち党社会主義システムは、歴史と社会の外部から歴史と社会に押し付けられた無機的独裁制が主催する歴史的・社会的実験であって、それが自立する歴史・社会へと生成しきれないことを実証して、自崩した。
東アジア共産党の特殊性
ところで、ここに説明しないまま放置しておいた問題がある。それは、ソ連東欧やバルカン半島のマルクス・レーニン主義の構築物が瓦解したにもかかわらず、東アジアの共産党国家である中国、ヴェトナム、そして北朝鮮がその後も崩壊せず、それだけでなく、資本主義的に経済発展しつつある、あるいは近世(近代早期)的王朝レジームに近づきつつも存続しているのは何故か、という疑問である。
私達の仮説的説明を述べておこう。ロシア革命にせよ、ユーゴスラヴィア革命にせよ、それらは、先進資本主義の西欧北米諸国ほどではないにせよ、19世紀において、遅くとも第一次世界大戦直後に近代主権国家をすでに樹立していた広義ヨーロッパ社会における社会主義運動・労働運動の成果である。その第一目標は、資本主義に勝る良き経済社会の建設である。その途上で帝国主義的干渉戦争に抵抗する戦争(ロシア革命の場合)や反ヒトラーの国民解放闘争(ユーゴスラヴィア革命の場合)を断固として戦い抜いたとは言え、それは、第一目標を完遂する為の第二目標であって、あえて言えば、手段の位相にあった。
それに対して、東アジアの場合、朝鮮とヴェトナムは、資本主義的帝国主義の完全な植民地であり、中国は、その半植民地であった。そこにおいては、資本主義否定の社会主義思想、第一目標である自前の近代主権国家の確立に奉仕する第二目標、すなわち手段の位相にあった。
革命の成功とは、先ず第一に独立主権国家の建国である。その後、マルクス・レーニン主義政党による社会主義―共産主義建設の試行錯誤プロセスが開始されるが、その結果がnonK→Kという自己否定的であったにもかかわらず、それは、nonK→Sが第一目標であったロシア、東ヨーロッパ、そしてバルカンのコミュニスト党にとって統治の主観的・客観的正統性を崩壊させたほどの衝撃力を東アジアのコミュニスト党に対して発揮しなかった。第一目標の独立国家は、党国家の形でコミュニストによって獲得されたのである。その強化の手段としての社会主義Sが無効であることが判明した以上、資本主義経済をその手段とすれば良い。
このようにして、東アジアの共産党組織は、党社会主義の危機を切り抜けた。「無機的」よりも「有機的」独裁の歴史的性格が濃かったのである。
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平成30年9月1日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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