Paradoksy ekonomii Rozmowy z polskimi ekonomistami、PWN、2016、Warszawa、『経済学のパラドクス ポーランド経済学者達との会話』を手に入れた。
著名な比較経済システム論研究者、カジェミェシ・ワスキ教授は、「マルクスとの関係をどう総括されますか?」と質問されて、労働価値説に言及して、次のように語る。「労働に基づく価値の理論をとってみよう。・・・。人間は自分の労働力以上の価値を産み出す。そこから剰余価値が生じる。同じような理論は、他のあらゆる生産要素に基づいても言える。私見によれば、労働価値説は誤った命題だ。」
こう語ると、ワスキ教授は続ける。「彼マルクスの最も重要な功績は、経済社会の敵対的性格への着目にある。」(p.324)
私は、この所を一読して、かなりびっくりした。教授は、前言と後言の矛盾、すくなくとも不調和に気付いていない。
教授の前言は、数理マルクス経済学の基本定理にかかわる。Fundamental Marxian Theorem(FMT)とは:(イ)正値の価格体系と労賃の下で正値の利潤が存在する。(ロ)正値の労働価値体系の下で剰余価値が資本家の手に入る。(イ)ならば、(ロ)が成り立ち、かつ(ロ)ならば、(イ)が成り立つ。
FMTが延長されて、Generalized Commodity Exploitation Theorem(一般化された商品搾取定理GCET)が姿を現す。GCETとは:(イ)。(ロ)。(ハ)労働力を含めたあらゆる財の生産に直接的・間接的に投入されるk財量が正値。すなわち、k-価値体系が正値。その下にk財1単位の再生産に必要なk-価値は1より小さい。すなわちk-剰余価値=k財の純生産量は正値である。(ハ)は(イ)と(ロ)に同値である。証明は、Analytical foundations of Marxian economic theory、 John E.Roemer、 Cambridge U. P.、 1981 や『労働搾取の厚生理論序説』(吉原直毅著、岩波書店、2008年)に詳しい。
ワスキ教授は、前言においてFMTとGCETを日常用語で説いていたにすぎない。
問題とすべきは、後言である。私見、つまり岩田の意見も亦ワスキ教授のそれに同じである。「経済社会の敵対的性格」は、様々な具象度・抽象度で議論できる。
抽象的なFMTとGCETの枠組においても議論できると、私=岩田は考える。
k-剰余価値=k財の純生産量が正値から転じて、零値や負値になったとすると、それが原因で資本家の利潤は零値、負値になる。その場合、資本家は、k財を完全に経済過程から放逐する。労働者は反対しない。それに対して、剰余労働が零値や負値になったとしたら、どうか。この場合、労働者側の交渉力が強すぎて、資本家の利潤が零以下になる事を意味するから、当然資本家側の巻き返しが起こる。要するに、「経済社会の敵対的性格」が発現する。
ここにおいて、本質的に効いてくるのは、技術係数a(ある財1単位を生産するのに必要な諸財の量)と消費係数b(労働力1単位を生産するに必要な諸財の量)の時間的・歴史的変動の方向性に関する社会的=資本家的・労働者的対応の相違である。
技術係数aに関しては、その低下に過度で苛酷な労働強化が伴わないかぎり、労働者側も賛同する。資本家と労働者の階級的合意ができやすい。「経済社会の敵対的性格」が発現しにくい。aは低下傾向。
消費係数bに関しては、資本家はその低下をよしとする。労働者はその向上を求める。「経済社会の敵対的性格」が発現する主戦場の一つである。ここに他のすべての諸財に異なる労働力商品の係数的特殊性が存在する。bは上昇傾向とその阻止。
以上のような次第で、資本主義的経済社会を最も抽象的に分析するに際して、低下傾向のaに基づくk-価値体系よりも上昇圧力のあるbに基づく労働価値体系を採用する方が自然である。
ワスキ教授に矛盾と不調和を見た理由は教授がaとbの階級性を同列視して、(ロ)と(ハ)の数学的同値性の背後にある階級的差異性を見損じている所にある。
最後に一言。価値の生産価格への転形なるアプローチがある。労働価値―本質、価格―現象。これはマルクス経済学の伝統である。このような知的接近方法に意味なしとしない。しかしながら、価値も生産価格も同一レベルの経済事象であると考える事も出来る。資本労働関係の社会的交渉力の強弱を反映して、生産価格に傾斜した、あるいは労働価値価格に傾斜した市場価格が出現する。転形と言うよりも、天秤の平衡点の位置にかかわる。
平成29年7月6日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study875:170709〕