表題の連載をしばらく休んだ間に、拙文を読んでくださった方から、丁寧なコメントを戴いた。その 中に、戦死した親戚の方を念頭に、「この徴兵制度の下で無益に死んでいった青年たちの生存の 「無」であることは「侵略者あるいは鬼」である現実と、どう絡み合うのか」とあった。十分に理解でき たかどうか心許ないが、下記のようにお答えした。
「戦場で亡くなった青年も、徴兵制度の犠牲者である、とも言えますが、この戦場が国外であれ ば、現地の方から見ると、その青年は侵略者としてその場にいた、ということも確かなことです。ご質 問の文中の「青年」が、具体的にどこで、どのように亡くなられたのか不明ですが、日本軍の兵士の 大半は、戦闘ではなく、病死しているのが現実です。つまり、現地の人々を殺した兵士は多いので すが、彼らによって殺された方は少ない、ということです。とは言え、どのような死因であろうと、戦争 に駆り出されなければ、そのような死は、なかった訳で、その意味で、徴兵制が問題でもあるし、そ もそも戦争へと国家が進んで行ったこと、それに多くの人々が翼賛して行ったことに、大きな原因が あるように思います。それに反対する少数者は、国家権力により弾圧され、小さな声すら上げること ができないところまで行ったのが、「つい昨日」の現実だったのではないでしょうか。 上記のように捉えた上で、「徴兵制度の下で無益に死んで行った青年たち」の死を、どのように 考えるのか、それは私にとっても、今後の課題です。もちろん、彼らを「英霊」として、靖國神社に祀 り上げる立場であれば、答えは簡単かも知れません。ここでは、国家の戦争責任も、兵士の戦争責 任も、問われることなしに、宗教的感情の中に溶解し、追悼されるのですから。「青年」の死は「「侵 略者あるいは鬼」である現実と、どう絡み合っているのか」というご質問は、靖國神社、国家、天皇 制の問題へと繋がっていくので、それらを全て展開することはできません。今はまず、日本人が犯 した加害の事実を再確認し、その後、それをどう考えるのか、敗戦後に生まれ、今を生きる私(たち) は、それをどう考えれば良いのか、戦争責任から自由なのか、戦争責任、戦後責任などについて、 私なりの考察を示したいと思っているところです。」
以上の主題で、連載を再開したい。スペースの関係もあり、今回は「三光作戦」について、次回 は、その典型である「無人区」化、その後、日本軍の性犯罪について確認する。
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