サウジアラビアの王位継承は、日本や欧州と異なり、父から子、孫という直系継承ではなく、兄弟間で継承する。皇太子時代から、名君の誉れ高いアブドラ国王(1922年あるいは1924年生まれ)は、第6代国王だが、初代イブン・サウドの子供である。下記の表のように兄弟で5代にもわたって王位を継承していることがわかる。
イブン・サウドは89人の子供がいたとされ、男子だけで52人。王位継承権を持つ男子は36人。そのうち最初の男子と最後の男子では47歳の年齢差がある。アブドラ国王は王位継承権を持つ男子の中では、まだ上位3分の1のグループにいる。
アブドラ国王が1922年生まれとすると、すでに90歳近い高齢である。日本人なら特別養護老人ホームに入居していてもおかしくない年齢だが、ウィキリークスでバイアグラを服用して、若い妻や側室と接しているとリーク(真偽のほどは不明)されるなど元気である。アラブの春がバーレーンに波及したが、2011年3月には1000人のサウジアラビア治安部隊を派遣して、民衆デモを弾圧して、「革命」を鎮圧するなど、政治的手腕と判断力を発揮している。
しかし、兄弟間の継承にはデメリットもある。王位継承者がしだいに高齢になることだ。今後も70歳代、80歳代という高齢の男子が王位を継承する可能性が高い。一時のソ連共産党のように高齢で病弱な書記長が続けば、若くて元気な指導者を求める世論も強くなるはずだ。
ある湾岸諸国の研究者と雑談したことがある。「サウジアラビアの王制は今の絶対主義的な形態では、あと50年も持たない。たぶん1世代でなくなる」という意見で一致した。ただ、サウジアラビアの立憲君主制への移行については、どの研究者も懐疑的である。
日本の王家は明治時代に立憲君主制となり、戦後は政治的実権を持たない象徴天皇制となった。サウジアラビアはそうはいかないという。理由は、「政治的、経済的権力を持たない王家は尊敬されない」からだという。
アブドラ国王が、この議論を聞いたら、「極東の島国の下々の異教徒にわが王国の未来を勝手に議論されたくない」と思うだろう。
>サウジアラビア初代国王 イブン・サウドの子供について ウィキペディアから
子供は89人いるとされ、うち男子は52人、女子は37人とされる。そのうちの36人の男子が王位継承権を持っている[6]。
- トルキー(1900年 – 1919年)
- サウード(1902年 – 1964年) 第2代サウジアラビア国王
- ハーリド(1903年、夭折)
- ファイサル(1905年 – 1975年) 第3代目サウジアラビア国王
- ムハンマド(1910年 – 1919年)
- ハーリド(1912年 – 1982年) 第4代サウジアラビア国王
- ナーセル(1920年 – )
- サアド(1920年 – )
- ファハド(1921年 – 2005年) 第5代サウジアラビア国王、スデイリ・セブン
- マンスール(1922年 – 1951年)
- アブドゥッラー(1922年 – ) 第6代サウジアラビア国王
- バンダル(1923年 – )
- ミシュアル(1925年 – )
- ムサイード(1926年 – )
- スルタン(1927年 – ) 太子、スデイリ・セブン
- アブドゥル・ムスフィン(1927年 – )
- ムトイブ(1928年 – )
- ミシャーリー(1930年 – )
- アブドゥル・ラハマーン(1931年 – ) 国防副大臣、スデイリ・セブン
- タラール(1931年 – ) 王位継承権を放棄
- バドル(1933年 – )
- ナーイフ(1933年 – ) 内相、スデイリ・セブン
- ナッワーフ(1933年 – ) 国王顧問、総合諜報庁長官
- トルキー(1934年 – ) スデイリ・セブン
- サルマーン(1936年 – ) リヤド州知事、スデイリ・セブン
- マジード(1936年 – )
- アブドゥル・イラーフ(1938年 – ) ジョーフ州知事
- サミール(1938年 – 1958年)
- アマハド(1940年 – ) 内務副大臣、スデイリ・セブン
- マムドゥーフ(1940年 – )
- アブドゥル・マジード(1941年 – )
- ハズルール(1942年 – )
- マシュフール(1942年 – )
- サッターム(1943年 – )勧善懲悪委員会の委員
- ムクリン(1943年 – ) ハイール州知事
- ハムード(1947年 – )
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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