免停―はみ出し駐在記(13)

車体は重かったがそれ以上にエンジンがでかい。アクセルを踏めば踏むだけスピードメータが上がる。速度は上がっても重く大きな車体がそれを感じさせない。日本のように人であふれたごみごみしたところはない。ましてや高速ではぶつかるものもない。ゲームセンターのゲームの方がよっぽど難しい。左手でハンドルを押さえて右足でアクセルを踏みたいように踏んで走りたいように走っていた。怖いのはおまわりだけだった。

 

これといった趣味もない独り者、どこといって行くところもない。事務所との行き帰り、近くのスーパーとショッピングモール、フラッシングの日本食スーパーと本屋、映画館、マンハッタンのバー。。。おわまりが隠れていそうなところはすぐ見当がつくようになった。

 

運転にも慣れて車で三時間程度の客にも出張していた。いつものようにルート95を北に走っていた。あっと思ったときはもう遅かった。アメリカにもネズミ捕りがあることを知らなかった。免許証をだしてチケットもらって、何もなかったかのように走って、客を回って一週間の仕事を終えて帰ってきた。そのうち罰金の請求がくるだろう。来たらさっさと小切手切って終わりだと思っていた。

 

ひと月ほどして、なにやら気になる手紙が来た。英語がろくに分からない。辞書を引き引き読んだら、どうも召喚状(Citation)らしい。翌週の月曜日に事務所に持って行って、経理の世話焼きおばさんに見てもらった。免許取って半年以内のスピード違反で、簡易裁判所への出頭命令だった。

 

捕まったところが悪かった。裁判所はサウスブロンクス、ニューヨークでも最も危ないところ。もしパンクしたらタイヤ交換などしないで、タイヤがどうなってもいいから、そのまま抜け出せと言われていた。地図を見ながらサウスブロンクスの裁判所へいった。とろとろ走った道の両側は映画や写真でみた廃墟のようなスラム。とても車を降りて人に道を聞けるようなところじゃない。車を止めることすら、誰か出てくるのではないかと怖い。

 

時間の余裕を見ていたので裁判所にはかなり早くついた。裁判所といっても小学校の教室よりちょっと大きいくらいで、すぐそこに裁判官がいる。傍聴席というより待合席のような席に座って前の裁判を聞いていた。そこは日本人にはちょっと想像し得ないアメリカだった。イメージしている(させられた?)アメリカ人がほとんどいない。貧しい身なりの人たちしかいないのは場所柄でしかないが、英語を話せる人が通訳以外には何人もいない。通訳を通して裁判官とやりとりしていた。裁判官は綺麗な英語を話したが、しっかり黒人でどのケースにも時間をかけない。さっさと今日のノルマをこなしてという感じだった。

 

こっちの番になった。「Are you guilty?」、「Yes, but …」と言おうとするが、「Are you guilty?」、「Yes, bu」。裁判官、「Are you guilty?」しか言わない。口ごもっていたら、ガベル(小槌)をバンと打って、Guilty(有罪)。所要時間数分。まるで映画かテレビで見たシーンだった。三十五ドルの罰金に十一月から二ヶ月の免停。三十五ドルはなんともないが二ヶ月の免停は痛かった。十二月には雪が降る。免停で運転して捕まったら、それこそ大変なことになる。大晦日まで二ヶ月凌ぐしかなかった。

 

食料の買出しも、事務所に行くにも、出張も車を使えないとなるとどうにもならない。幸か不幸か同期入社で並外れて我が強く夜郎自大を絵に描いたようなのが応援できていた。日本にいたときも辟易したのが、ニューヨークまできて同じ目にあうことになるとは思いもよらなかった。

 

人が免停になったのをいいことに、多少壊れたところで人の車、好き勝手に乗り回した。日本では味わえない馬力と大きさが新鮮だったのだろう、縁石に乗り上げては大笑いし、アクセルを吹かしては後輪がスピンして前にでないのを面白がっていた。おいおいと思いながらも、作り笑いしているしかなかった。腹が立つのだが、痴れ者の世話にならないと通勤もできなければ、食料品店にもゆけない。いざとなれば相手にはレンタカーという手がある。

 

車で行く距離の客には、家からタクシーでエアポート行きのリムジンが止まる近くのダイナーに行って、そこからニューヨークのエアポートまで行く。そこで客の近くにあるエアポート行きのリムジンで移動する。エアポートからタクシーで客に行く。インターネットなどない時代だったが、その気になって探せば、なんとかなる方法があるものだと、探し出した自分にあきれた。

 

オーランドのディズニーランドの近くの客に行ったときも、エアポートからはタクシーだった。運転手に行き先を言ったら、メータじゃない、現金前払いで五十ドルとふっかけられた。そんな距離をタクシーで行く人はまずいない。現金を見ないことには運転手が信じない。

 

客の工場は、まだ建てやができたまでで、内装やら電気工事をしている状態だった。工場が出来上がってから出直してくる手もあったが、フロリダまできて作業になりませんと帰るに帰れない。電気工事でしょっちゅう電源が落ちる。トイレでしゃがんでいたときに電源を落とされた。それまで経験した(真っ)暗闇はどこかにかすかでも光があった。本当の真っ暗闇で何も見えなかった。視覚を失って、手探りで嗅覚だけを頼りに出てきた。基礎工事やらなんやらで三時頃には追い出された。

 

客の担当者に頼んでホテルと工場の送り迎えをしてもらった。車さえあれば、ディズニーランドは目と鼻の先だが、見る事もかなわなかった。三時ちょっと過ぎにはホテルにいた。ピンボールマシンで時間をつぶしてもしれている。やることもないから、つい早めの夕食になる。毎日一人で食べていたら、一人の日本人が声をかけてくれた。ここでの話は、拙稿『目先の成績狙いが疲弊を招く』を参照頂きたい。

 

免停中、代理店のセールスマンや顧客の担当者にお世話になった。フツーだったら、ここでありがとうございましたで終わるのだが、終わりきらずに考えるきっかけとして残った。

 

アメリカ人(日本人以外)の素朴な親切とは真逆の日本人の精神的な貧しさはいったいどこから来るのか。自分で引き起こした不便でしかないが、それを嘲笑のネタにしかできない、しようとしない文化しか持ち得ない人たちとはいったいなんだろう。人を下に見て、自分たちのとるにたりない卑近な優位性を見つけだすことによってしかありようがないのか。

 

入社一年先輩が半年ほど遅れて赴任してきた。この先輩には助けられた。助けるつもりなどなかったのだろうが、結果として助けることになってしまった。群れのなかの一人として一緒に免停嘲笑の輪に入っていたのが、同じネズミ捕りで捕まった。半年以内のスピード違反。簡易裁判所に出頭して免停二ヶ月、罰金三十五ドル。それ以降免停の話は笑い飛ばす失敗談になった。

 

その先輩、何ヶ月もしないうちに今度は客先で機械から落ちて鎖骨を骨折した。クリーブランドの客で事故を起こして救急車で運ばれたが、それも合わせて笑い飛ばす失敗談になった。事故については、拙稿『男の向こう傷』を参照頂きたい。

 

目の前で起きている現象は変わっても、精神的に成長したわけでもなし何も変わらない。その何も変わらないのが歳だけとった。夜郎自大が役員にまでなるような会社、当然のようにして倒産してなくなった。

 

困っている人がいたら、困っている理由や原因は気にはなるが、困っていることに変わりはなし、素直に助けようという気持ちのない人たちが真っ当な人間関係を作れるわけがない。

それでも、今になってみれば、どれもこれもが笑い話。失敗でも何でも笑い話にできる人としての余裕があって、はじめて人だろうし社会だろう。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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