客の担当者(アイルランド系)から聞いた話では、シンシナチ一帯は戦前まではドイツ語が共通語だったほどドイツからの移民が多い町だった。そのためだろうが機械工業、特に工作機械では圧倒的な強さを誇っていた。七十年代の後半さすがに往時の勢いはなくなっていたが、それでもシンシナチ・ミラクロンのお膝元、シンシナチとその周辺には日本の工作機械はなかなか入れなかった。
CNC(コンピュータ)を搭載した自動制御が主流になったなかで、電気機械とでも言った方があっている、昔ながらのタレット旋盤をシンシナチ郊外の釘打ち機のメーカが買った。時代遅れの機械のため、似たような機械があるようでない。アメリカのメーカの中古機も日本のメーカの新品も値段は変わらない。日本の名前も聞いたことのないメーカの製品だが、単能盤として使うのだから使えないこともないだろうという程度の気持ちでの導入だったと思う。
釘打ち機のシリンダーの内径をタレットヘッドで加工するだけの用途だった。使わないキャリッジから上を全て取り外すことから始まった。タレット旋盤は構造が複雑なキャリッジから上の部分に障害が多い。取り外してみると、ごちゃごちゃした部分がなくなって、妙にすっきりした機械になる。
誰が考えてもトラブルはずのない簡単な作業。きれいさっぱりしたところで、タレットヘッドを前進させようとしたら動かない。知識不足で電気図面をいくら見てもろくに理解できない。よく分からないながらも、電磁クラッチが入っていないように見える。何年も保税倉庫で眠っていた機械だが、電磁クラッチなどそうそう壊れるものでもない。
電磁クラッチがどうなっているのか見ようとギアボックスを外そうとしたが、組立図を見てもどうしたらいいのか分からない。外し始めて止めた。外したら元に戻す自信がない。全く情けない。ああだのこうだの思って、いじりまわしていたらタレットヘッドが前進した。なんのことはない。前進後退させるレバーがニュートラルの位置にあった。レバーの先のポインターはきちんと前進の銘版の位置にあるが、電磁クラッチを入り切りするスイッチから見ればレバーはニュートラルの位置。銘版がずれた位置に付けられていただけだった。
ろくに機械を操作したこともないから、ちょっとしたトラブルでもないことから自分でトラブルを作ってしまう。さっさと作業すれば、かかっても数時間で終わる仕事に丸一日かかる。丸一日四苦八苦している、言葉の不自由な若い日本人のサービスマンを見て心配になったのだろう。ちょっと歩いて工場の別棟に連れて行かれた。そこに年配の日本人女性が働いていた。何か困ったことがあったら、言葉が通じないこともあるだろうし、相談に来てくださいと言われた。その日はトラブルでないトラブルを起こしかけたせいで夜遅くまで残った。
工場では二千人くらいの人たちが働いていて、生産ラインは二十四時間止まらずに動いていた。米国には珍しく従業員用に二十四時間営業のきちんとしたキャフェテリアが完備していた。朝から晩まで客にいたので、朝飯も昼飯も夕飯もそのキャフェテリアで済ませた。量だけ多くて、できれば食べたくない料理が当たり前の米国で、そのキャフェテリアの食事は満足の行くものだった。ホテルで食べるより客に入ってから朝食、ホテルに帰って夕食より夕食を食べてからホテルに帰ったほうが楽だった。
据付作業をしている近くで働いている従業員から、昨日は帰ったのかという冷やかしとも呆れともつかない言葉がフツーになってしまった。朝も夜も仕事をしている日本人がいる。。。だったろう。
トラぶりようのなくなったタレット旋盤が上手く働いてくれた。数ヶ月もしないうちに次の一台を、その後今度は二台ずつ続けて導入してくれた。簡単な作業なので、いつも新米サービスマンが据付に行った。何度目かのときに客の担当者から、今晩はホテルをキャンセルして家に泊まれと言われた。よほど親しくなければ家に招かれることはないと聞いていたので驚いた。家にお邪魔して気をつかうより、ホテルで独りでいた方が気楽なので固辞したが、結局連れてかれた。
そこは郊外の住宅地にある典型的なブルーカラーの中流家庭だった。ハイティーンの娘の下に男の子が二人の五人家族。地下室にタイマーで反転する射撃の的を作って、射撃練習をできるようにしいた。タイマーは工作機械の潤滑油の給油回路をそのまま流用したものだった。シェリフの射撃の先生をしているとのことで、散弾銃の散弾作りの道具、色々な拳銃に競技用ライフル。。。日本にいては見ることもないものがきちんと整理されていた。拳銃は十メートルも離れたら当たらないと聞いていたが、スコープ付きの競技用ライフルは当たる。初めて撃って驚いた。
家に連れてかれて家族に紹介されただけでも疲れたのに、立ち話も早々にこれから地域のボーイスカウトの年次総会に行くという。年長の息子はもうボーイスカウトのユニフォームを着てちょっと興奮気味なのが分かる。年下の子は来年入隊で、兄貴のユニフォーム姿を羨ましそうに見上げていた。大きいだけにしか見えない、奥さんご自慢のケーキをもって会場に行った。平和な時代と言ったらしかられるが会場には白人しかいなかった。小さな地域社会なのだろう、担当者も奥さんも似たような社会層の人たちと、日本人の目にはちょっと大げさな社交辞令の挨拶。。。と後ろで見ていたら、会う人会う人に日本からきたエンジニアで、若いけどしっかりした人だというような世辞ともつかいない話で紹介された。ニコニコしながら握手して名前を言うだけなのだが、終わったときには張っていた気持ちが解けてどっと疲れた。
五人に一人が横一列に座った。右隣に担当者、左に奥さん。その先に娘と二人の男の子。総会が始まった。ボーイスカウトの役員らしきオジさんが、なにやら話しているが全く分からない。多分お決まりの話しだったのだろう。それが終わって、地域の名士-雛壇に座った判事や議員、警察やなにかのエライさんたちの紹介が始まった。やっと雛壇の人たちの紹介が終わったと思ったら、「ジェントルマン フロム ジャパン」が聞こえた。なに、オレ以外にも日本人がいるのかと辺りを見渡していたら、右から「スタンドアップ、スタンドアップ」という小さな声。なんことかと思っていたら言葉だけでなく、左足で右足を小突かれた。まさかと思いながら、よろよろ立ち上がったら担当者も一緒に立ち上がって、いったい誰のことを言っているのだという半分作り話のような紹介をされた。
紹介が終わって座って、おいおいよしてくれと思いながらもほっとしていたら、子供たちの表彰が始まった。名前が呼ばれ、何をしたので、なんとかという表彰とその記念品。。。表彰された子供が列席の名士のところに行って一人ひとり握手してもらって一言言葉を貰ってる。何も分からないながらも微笑ましい光景と思って見ていたら、一通り終わって席に戻るはずの子供が、誇らしげに記念品を抱えてこっちに向かって歩いてくる。まさかと思っていたら、また右から「スタンドアップ」の声が。即立ち上がってニコニコしながら握手して。。。何十人もいる子供が表彰される。その度にこっちにも来て。来られる度に立って握手して。子供が何か言っているのだが、決まって聞き取れるのはSirだけ。なんでオレがSirなんだ、よしてくれと思いながらもニコニコして。座って、また立って座って。。。ニコニコしてるだけのおバカな名士もどきの役も楽じゃない。外れた駐在員、そもそもそんなガラじゃない。
表彰が終わって子供たちの劇が始まった。何だか分からないが軽い義勇兵ものにしか見えない。劇のなかでイエローという言葉があった。右から困惑の口調で「no good」というようなのが聞こえてきた。東洋系を下に見た場面があったのだろう。まさか日本人がくるなど思いもよらないだろうし、子供たちにはすまないことをしてしまった。アメリカの地方都市の郊外の真っ白な社会しか知らない人たち、東洋はなにか不思議なところ、遅れているところというくらいの知識(と呼べるか?)しか持ち合わせていない。
フツーのいい人たちの日常の延長線の年次総会。その平和な社会のすぐ先にベトナム戦争すらあった。スラムだらけの都市でも夜景はきれいというのに似ている。言葉が不自由だから表面的なそのまた表面的なところまでしか分からない。しばし相手が見せたいところ、こっちが見えるところまでが見えたまで、きれいなところだけが見える。言葉が不自由なおかげで、いい人たちのいいところだけ見せて頂いたような。いい人たち、いいことの多くが実はその類のことかもしれない。無知の幸せ、好きにはなれないが、それはそれでいいのかもしれない。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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