《山本一太と与謝野馨の「対決」》
11年3月4日、NHKテレビで衆議院予算委員会の中継の一部を観た。
自民党の山本一太が経済財政担当相与謝野馨の「変節」「転向」を追及した。敵であった民主党・国民新党連立内閣に、議員のままで転進したのは何故か。その論理と倫理は何かと突いたのである。しかし結論からいえば揚げ足取りのつまらぬ問答であった。なかで印象に残っているのは次の部分である。再現は私の記憶による。
昨年、参議院選挙の演説で「立ち上がれ日本」に属する与謝野が「民主党政権は全共闘くずれ」の集団だと批判したのは事実か、今も同じ認識かと山本は迫った。与謝野はやや曖昧にその発言の事実を認めた。そして選挙演説だったことを強調し―誇張が出る―その上で現在の認識は異なると述べた。
《「反体制運動」の一環としての「全共闘運動」》
私が驚いたのは、二人の「全共闘」認識である。その運動は良くないことであり全面否定に価するという前提で問答は行われたのである。委員会全体の空気もそのように感じられた。「全共闘運動」などというものは否定の対象であり唾棄すべき思潮だというのが自明の前提なのである。
そうであろうか。
アメリカの「ベトナム反戦」や「公民権運動」、フランスの「五月革命」に代表される反体制運動は、世界的な拡がりをもっていた。20世紀後半の世界史を語るときに「60年代」、「反体制運動」は無視できない一章であろう。全共闘運動は日本的特色をもつ世界的な反体制運動の一翼であった。
新左翼運動に深く関わった人の話を10年ほど前にきいたとき、その運動家は「新左翼の思想と運動」が、政治の現実に反映されていない国は日本だけである。それはグローバルにみると極めて例外的な現象であるといった。それが正確な事実認識か否か私は知らない。
しかし私にとって「全共闘世代」は「団塊の世代」とほぼ同義の言葉である。彼らの運動は大きな政治的・思想的・文化的運動であった。企業人間になっていた私にもそれに疑問はなかった。
《「全共闘世代」は黙っていてよいのか》
山本一太や与謝野馨はこういう歴史の一頁をどう考えているのであろうか。
「全共闘くずれ」などと嘲りの対象として貶める。そういう思考は、歴史という人間の営為を素直に認識できない思考である。
キング師の「私には夢がある」。映画「いちご白書」にみる講堂での蜂起。「カルチェ・ラタン」を占拠した学生・労働者。日大講堂での古田学長の追及。山本義隆の心を揺さぶる演説。あなたたちはこういう場面に心を動かすことはなかったのか。
もちろん暗転もあった。たとえば連合赤軍事件への到達はまことに不幸な帰結であった。しかしそれは全共闘運動の帰結の全部ではない。
菅直人も仙谷由人もその他の「全共闘世代」も自分の生きてきた道を語ればよいのである。自己賛美も自己批判も正直に語ればよいのである。「全共闘世代」は自己のアイデンティティを山本一太や与謝野馨のような無知で鈍感な「政治屋」にぶつけて反撃すべきではないのか
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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