NHK新会長やNHK経営委員の言動が世人の心をゆさぶり、くさぐさの批判や批評がなされた。
新会長籾井氏の発言は、世人が公共放送NHKのトップとしての氏の資質を疑うに十分な根拠を提供した。しかるに、氏の地位は安泰のようである。ここで、私は、前都知事の事件を想い起こす。個人的借用金5000万円の不透明性の問題である。事がそれだけであれば、日本常民社会の見識は、知事停職一週間、その間永平寺で謹慎・禅修行のこと、あるいは人手不足の養老施設で老人介護実習のこと、と言った判断を下したことであろう。ところが、都民市民は、民意のお灸をすえるのではなく、首を切ってしまった。NHK新会長の発言のマイナス性は、前都知事の借用金問題より軽いはずがない。
経営委員百田氏は、公衆の面前で他の諸人格を「くず」と嘲罵したわけであるから、紀元前印度の古典カウテリアの『実利論』の「言葉の暴力」に当たり、2千年前の印度であれば、3パナから6パナの罰金を科されたであろう。その前に顕職を辞するのが当時の作法だったかもしれない。
ところで、経営委員長谷川氏の場合、かなり昔朝日新聞社内でピストル自殺した右翼者に感情移入して追悼文を書いた事がNHK経営委員にふさわしくないと非難された。私は、彼女の哲学や思想を殆ど知らない。一論文「国体の回復を」(『伝統と革新』平成24年秋 9号、pp. 77-84 )をかつて一読したことがあるだけである。私が生きて来た左流世界から相当にかけ離れた知的世界で自己形成された方のようである。さて、部落問題研究家川元祥一氏は、3.11以後、「半減期という神々」を発見されたが、長谷川氏の「日本型自然法」概念に通じる所がある。勿論、両者は対立するはずである。何故ならば、長谷川氏は、国体論者であり、川元氏は反国体論者であるから。また、長谷川氏は、天皇の視座から「於保美多訶良」(おほみたから=民)を語り、川元氏は、「おほみたから」(=人民)の中から「おほみたから」を語るからである。
私は右翼者野村秋介の追悼文を書く国体論者であるが故に、長谷川氏がNHK経営委員にふさわしくない、とは考えない。
公共放送としてのNHKは、不偏不党かつ政治的中立性に立つと言われる。この主題を考えるために、以下の具体例を出そう。憲法九条と日米安保条約である。現状は、九条と安保の共存──共栄か否か?──状態であり、その現状の安定性がくずれつつある。政治は、変化の方向を意思決定せねばならない。
変化の方向は三つある。甲:九条放棄、安保堅持。乙:九条護持、安保放棄。丙:九条放棄、安保放棄。
政治的判断は、次の13通りあり得るだけである。ここで記号文「甲 ≻ 乙」は、「甲は乙よりも望ましい。」、「甲を取って乙を捨てる。」、「甲は乙より重要である。」等々を意味する。記号文「甲 ≈ 乙」は、「甲と乙は望ましさに差がない。」、「甲を取っても乙を取ってもどちらでもかまわない。」等々を意味する。
① 甲 ≻ 乙 ≻ 丙、 ② 甲 ≻ 丙 ≻ 乙、
③ 乙 ≻ 甲 ≻ 丙、 ④ 乙 ≻ 丙 ≻ 甲、
⑤ 丙 ≻ 甲 ≻ 乙、 ⑥ 丙 ≻ 乙 ≻ 甲、
⑦ 甲 ≈ 乙 ≻ 丙、 ⑧ 甲 ≈ 丙 ≻ 乙、
⑨ 乙 ≈ 丙 ≻ 甲、 ⑩ 甲 ≻ 乙 ≈ 丙、
⑪ 乙 ≻ 甲 ≈ 丙、 ⑫ 丙 ≻ 甲 ≈ 乙、
⑬ 甲 ≈ 乙 ≈ 丙。
私の考えるNKH経営委員会の不偏不党性・中立性とは、経営委員会の中に上記の13通りの政治的価値判断を夫々有する識者が最低13人おり、日夜、熱議・熟議している様相である。
仮に長谷川氏の国体哲学から ② 甲 ≻ 丙 ≻ 乙 が帰結するとしても、委員の中に例えば ⑤ 丙 ≻ 甲 ≻ 乙 を自己の思想から主張する人物がおれば良いのである。熟議が帰結して、判断が13通りのどれか一つに収斂する。あるいは、A. K. センの三条件(VA, ER, LA)(注)を満足するように、委員会内の諸判断の分布パターンが成立したときに、委員会内の投票で民主的に委員会の合理的統一意見が形成される。仮に、NKH経営委員会が①、②、⑦、⑧、⑩、⑬ のような人物だけから成っているとすれば、甲偏重の党派性が突出していることになる。今日の日本社会は、長谷川氏のような個性的哲学を有する人物を排する努力よりも、彼女の対極にある人物とワンセットにして大事に当たらせようと努力すべきであろう。さもないと、⑬のような人物であらゆる委員会が満杯になる。
(注)Amartya K. Sen, Collective Choice and Social Welfare, Holden Day, 1970,
pp. 173-186
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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