内田弘さんを偲ぶ

著者: 野沢敏治 のざわとしはる : 千葉県市川市在住
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3年ほど前になるが、野沢さんも頑張ってくださいという年賀状をいただき、今までとちょっと様子が違うなと感じていましたが、松田さんから2月に亡くなられたという訃報の知らせを聞き、そうであったかと思いました。もう彼も自認する栃木弁を耳にすることはできません。

内田さんは私が院生の時にすでに1970年代の新しい市民社会論的マルクス研究で活躍しだしていました。その後、経済学史学会で見かけたり、偶然にわれわれ平田ゼミ生の集まりと出くわすこともありました。師を囲んで歩くわれわれ弟子の集まりに少し驚いたようでした。その後、彼が三木清の研究を精力的に進めていたころ、私はその研究発表を聴こうと会場に向かったのですが、場所が暗くてよく見えない。そこに向こうからやってくるのがどうも内田さんらしく、声をかけて一緒になり、会場に着くことができました。これで聞き損なうことはなくなったと安堵。その後、彼は三木論をまとめて本に出し、私はずっと戦前・戦中の技術論に関心をもっていたので、三木の技術論を実に面白く読みました。その感想を専修大学の紀要に書きましたが、久しぶりに気持ちよくすっと書けたのを覚えています。

内田さんはちきゅう座の総会や研究会にもよく出てきていました。投稿もたくさんしており、藤田藤嗣の画「アッツ島玉砕」を見て戦意の鼓舞や政治的結果よりもその芸術性や死者の鎮魂を読みとろうとするところは共感しました。戦後一般に左翼や評論家は作品の思想的・文学的テーマを探ることに熱心であっても、それを形にする形成力に注目することはなかったと思います。また彼は内田義彦を多くの人のように素晴らしいとただほめたり万歳することに満足せず、そのマルクス論には価値論がないと批判していたのがーーこれには私は同意しませんがーー印象的です。彼のその姿勢は、先学に誠実に学ぶとは先学に内在することで自分の問題に気づくことでもあると示しているのです。

内田さんには平田先生を偲ぶ会でも伊東光晴先生とともに語ってもらいました。私の依頼の仕方が拙かったため、19世紀半ばのフランスの思想界を俯瞰するという大論文の論調でした。でもその冒頭で平田先生の学問上の師である高島善哉が出陣する学生に対して、君たちは戦場で卑怯なふるまいをしてはならない、君たちの任務は戦後の復興にあると呼びかけたこと(生きて帰ってこいということ)を紹介したのです。どこか直情的で熱いところもある内田さんらしいと思いました。熱いといえば、その妥当性については分かりませんが。彼の『啄木と秋瑾』は「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」の通説的な解釈に真っ向から挑んだものでした。

こういう内田さんは故郷で学んだ高校教師から大切な影響を受けたと述べる時がありましたが、どういう人だったのだろう。

2024年5月11日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1295:240511〕