内藤湖南と韓国

著者: 姜海守 カン・ヘス : 国際基督教大学アジア文化研究所・近代日韓比較思想史専攻
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 来年の論文集の刊行に向け、これまで研究において縁がなかった内藤湖南(一八六六~一九三四)について私なりの研究の方向性を模索している。研究において縁がなかったというのは、「韓国」の研究者が「昭和の言説」としての「支那学」を語る必要がどこにあるのかはっきりと分らなかったゆえである。近代日本の中国との関わり方、そしてそこにおける「支那学」という言説を、植民地朝鮮の知識人がいかに加担したのかという問題を含めて、近代日本思想史理解の次元を超えて論じるべき理由を見出すのが難しかったのである。
 朝鮮において初めて内藤湖南に対し関心を向けたのは、植民地朝鮮における最大の知識人の崔南善(一八九〇~一九五七)であろう。その著書『朝鮮歴史通俗講話』(一九二二年)において、崔南善は朝鮮の神話と伝説をめぐる白鳥庫吉(一八六五~一九四二)と内藤湖南の所論について自説を述べているのである。
 だが内藤湖南の全集をみるかぎり、内藤湖南にあって(植民地)朝鮮は東アジアにおいてともにゆくべき同伴者的な他者的存在では決してなかったことは、「朝鮮の如く勢力中心を形づくるに不適当な民族は姑く措くとして、日本が支那国民と一つに包括された圏内で勢力中心を形づくるべき資格あることは……」という発言からもうかがえる。内藤湖南にみる近代日本の「支那学」という学知は、基本的に、本来中国と関わりのある朝鮮を等閑視して語られた「昭和の言説」なのである。(植民地)朝鮮は隠蔽の対象であったのである。それは内藤湖南が「(浅見絅斎の門人三宅-引用者)観瀾が、しかし儒学の上に於ては、闇斎一点張りです。この時分には、日本で朱子学といふものが、はつきりと立派に出来るやうになつた、自分達が朱子学が分るやうになつたのは、山崎先生のお蔭だと云つたといふことが伝へられて居ります。闇斎先生は学問の流儀に対してやかましい人でありました。元以後の学者は余り取りませぬが、明の学者では薜瑄、丘濬、それから朝鮮の李滉すなわち李退渓、この三人を非常によいとして居ります。ところが観瀾が、朝鮮の使者が来た時に、朝鮮の学者と往復した文章には、やはり明の学者ではこの薜瑄、丘濬の二人がえらいといふことを云つて居つて、闇斎先生の説そのまゝです。かういう点は、つまり山崎門下として余程横着者であつたが、学説に於て闇斎先生そのまゝを守つて居つたといふことがはつきり証據立てられました」(一九三二年一二月)と述べたことからもわかる。内藤湖南は江戸前・中期儒者たちの伝記『先哲叢談』(一八一六年)にある「山崎門下として余程横着者であった」三宅観瀾(一六七四~一七一八)の発言をわざわざ選び、中国の薜瑄(薜文清)と丘濬(丘文荘)とは異なる闇斎学派における李退渓の学問的位置と影響力を過小評価しているのである(こうした見方は、この後、一九四四年に阿部吉雄[一九〇五~一九七八]が京城帝大学教授時代に著した『李退渓』における李退渓評価とは全く異なっている)。だが内藤湖南は、同じく三宅観瀾が『支機問談』に載せた「李晦斎・李退渓の朱子学における、平正醇粋、その宗を得たる者と謂ふべく、もとより欽服するところなり」という記述はまったく顧みない。要するに内藤湖南は、東洋の学問・文化史上における朝鮮の位置を下げ、もしくは隠蔽するために取捨選択的な解釈をしていたのである。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study402:110721〕