初詣でキリスト教

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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生来の横着で年賀状も書かなければ、初詣など行かなきゃと思うこともない。最後に行ったのが、いつだっかも忘れてしまった。それが今年の正月は、どういう風の吹き回しか、ちょっとした観光気分ででかけた。

宗教心など微塵もないが、東京の郊外に住んでいたときも、千葉に住んでいたときも、初詣は非日常であってほしいという気持ちから、明治神宮だった。横浜に住んで六年、人生の節目を迎えて、そろそろ引っ越さなければならない。引っ越す前に、川崎大師に一度は行ってみようと、二日の午後のんびりでかけた。

横浜から京浜急行に乗って、京急川崎で乗り換え。正月気分のおかげか、座っている参拝客ごしに窓から見える景色が新鮮だった。川崎大師駅で降りて改札をでたら、駅前はガランとしていて、どことなく田舎くさい。明治神宮のように初詣の客でにぎわっているだろうと思っていただけに、そしてそれで正月気分を味わえると期待していのに、これじゃ寂れた観光地じゃないか、とがっかりした。

それでも川崎大師の門前町、参道(?)には参拝客あいての店が、店の前の車道の両側には出店が並んでいて、縁日のようだった。出店を冷やかしながら歩いていったら、道いっぱいに人が並んでいて先に進めない。そこは参道でもなんでもない、どこにでもある住宅街の道、なんでこんなところにこんなに人がと思ったが、それが川崎大師への参拝客の列だった。

列が少し進んだら、たまに新宿や渋谷で耳にする、「主はなんとか…」という、なりふりかまわないキリスト教の御託が聞こえてきた。そこは店や出店も終わって周囲には住宅しかない。住んでる人の迷惑など気にすることもなく、どうでもいい決まり文句が繰り返し流れていた。誰も聞いちゃいないが、いやでも聞こえてくる。初詣にきて主がどうのと無節操なキリスト教のゴタクを聞かされた。

列に並んだのは夕方だったのに、すっかり日も暮れて夜になって冷え込んできた。列の進みが遅くてなかなか前に進まない。混んだ列で立ったまま。疲れてうんざりして、多少なりとも怒りっぽくなってもおかしくないのに、誰一人として文句を言わない。誰もばかげたメッセージのことを口にもしない。完全に無視して平然としている。

並んでいる人たちのほとんどが、つい一週間ほどまえには、キリスト教とはなんの縁もないのに、クリスマスを楽しんだ人たち。そして今夜は、神道にも仏教にも関係なく大師様で正月気分をと思っているのだろう。そんな世相をあえていえば、ハッピーな気分になれるのであれば、仏教でも神道でもキリスト教でも、どんな宗教でもかまいやしないということなのだろう。

宗教、特に一神教は他の宗教との共存が難しい。宗教から世俗の富の支配やらなんやらまで絡んで、宗教を盾にした争いごとが絶えない。世界中でおきている宗教がらみ紛争を思うと、日本人のこの宗教心の薄さというのか緩さが幸いして、宗教に影響されない、世界でもまれな世俗国家を生み出した。この穏やかな宗教心、みかたによっては、なんでもありで節操に欠けるが、これこそ日本が世界に誇るべき文化だと思う。

日本人の八百万の神を崇める素朴な宗教心を、明治以降の政治権力が自分たちの都合でゆがめた。国家神道の建前をつけて、軍国主義に走って、普通の人たちの日常生活を破壊して人を殺して、近隣諸国を侵略した。GHQの助けを借りて、日本人はやっと国家神道の呪縛から開放され、紆余曲折を経ながらも民主的な社会を構築しようとしてきた。それを「普通」と思うことのできない痴れ者どもが、恥知らずにも国家神道の復活を唱え、主権在民をないがしろにする反動的な活動をくりかえしている。

ただ、いくらおかしいのが国家神道がどうのこうの、天皇の神格化と臣民をいったところで、それを真に受けるほど人々は馬鹿じゃないだろう。クリスマスの一週間あとに初詣に出かけて、強圧的なキリスト教のゴタクを聞かされて平然としている人々。大勢は動きゃしない。楽観的すぎるとは思わない。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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