劇団阿彌『青いクレンザーの函 -シベリアの空から…』(2)

著者: 岡村洋次郎 おかむらようじろう : 東京バビロン代表、劇団「阿彌」主宰
タグ:

劇団阿彌『青いクレンザーの函 -シベリアの空から…』上演台本作成の為の―
http://www.k5.dion.ne.jp/~ami/

シベリア取材旅行:覚書 09.11.12(木)

ぎりぎりで上野から上越新幹線に乗る。低い空に雲がずっと垂れ込めていて、沈黙の背中を見せているような街々を、車窓から眺めていると、シベリア出発の日に、相応しいかも知れないと思う。
pm1:30 鱒、鮭、イクラのちらし寿司の弁当を食べる。美味しい・・。食物が少しお腹に入ってくると、心が落ちついたせいか、人間の無価値、この世界の無意味というような想念がゆっくりと浮上してくる・・・。静かな哀しみと言っていいだろうか、胸のあたりに広がるものがあって、絶望即幸福の中で、心もお腹も満たされている・・・。もう二度とないこの一瞬の奇跡という想起に、永遠が浸透してくる。同時に永遠や無限ということが想像できないということの大切さがあると想う・・・。
長岡を過ぎて、だいぶ日が差して来た。鯨のような雲が群れをなして浮かんでいる、異様に地上に近いところに。
pm11:00ウラジオストックのホテルベニスに到着。風呂を使って、やっとベッドにあがって、背もたれに軀をあずけたら、正面の鏡の中に、ゴーガンの絵(レプリカ)*の下に<みにくいアヒルの子>がいた。

*絵の正確なタイトルはわからないが、ブリュターニュの<縁の広い婦人帽を被る四人の女性たち>だろう。

シベリア取材旅行:覚書 09.11.13(金)

旅行中の読み物に、A・アルトーの「神の裁きから決別するために」の文庫本を携えてきた。

一本の毛にいたるまで
すべてが
炸裂する秩序のうちに
整えられなくてはならぬ
(A・アルトー)

アルトーはつまり、あたかも地の底から宇宙へと吹きぬけてしまった人間だという気がする。永遠の実相を摑まえてしまったのだ。彼の不幸は、彼のその覚醒を世界全体において共有しようとしたことではないだろうか?しかしその留まるところを知らないエネルギーには驚嘆する外ない。

イルクーツク着、雪、飛行場。
その後ホテルに荷物を解いて、街を、細かい砂のようなサラサラに乾いた残雪の路や、アンガラ河の岸辺を二時間位歩いてみる。晴れ、-15℃。
ホテルに帰ると頬がひりひりしてくる。クリームを塗る。

シベリア取材旅行:覚書 09.11.14(土)

曇り、-20℃、昼のアンガラ河。
あたり一面靄が立ち込めて河面が見えないぐらいである。水温が少し高い為であろうが、近づいてよく見ると、大量の水が勢いよく流れている。
案内されて、ロシア正教会の内部に入れば、暖かい信仰心の濃密な空間に一瞬にして擁かれてしまう。一歩戸外に踏み出せば、シベリアでは、圧倒的な自然が押し寄せて来る。

イルクーツクの郊外の日本人抑留者の共同墓地を訪う。記念塔の雪を払う。それからバイカル湖の近く山林の斜面にある抑留者の共同墓地。ここでは、記念碑に20名の名前が記されていた。ローマ字から起こしたのか、明らかな間違いは訂正しつつ、ひとりひとりのその名を読み上げさせて戴いた。

バイカル湖の展望台にスキーリフトで上がる。
寒風の中、雲の背後から洩れ差す陽の光は、神秘的という言葉が修飾的にならないほど、その厳しい剥き出しの自然の美しさが、なぜか、ある倫理的重量としてからだに残る。

石原吉郎さんが体験した、<シベリアのタイガ(森林)の人間を圧する沈黙>はしかし、彼が言葉を恢復して、帰国後回想した時に、彼の記憶の底から(その時は失語状態であったにもかかわらず)浮かび上がってきた自然の姿ではなかったろうか。

その時彼は、大自然が、黙して語れない自然が、
人間に語ることを要請して来くるのを実感した。

しかし、ふたたび言葉を持つとは、「死刑宣告」である。

その壁を突破し得るのは、既に言葉ではない。
世界もろともの自爆そのものである。

それにしても、世界は失速していないだろうか?
消え入るような消滅が、それでも残っている・・・。

そこのところを、石原さんはいくつかの詩に託した。

しかしなお、どのような形象化も許されていない。

人間でなくなった石原さんは、形象化するしかなかったという悲惨を生きた。

<ほんとうのこと>は、彼を避けて通るしかなかった。
彼には破滅しかないのだから。

言葉を失ったとき、
彼は全世界を喪失していた。

それでも彼は、ある証言を遺した。

伝え得ない証言。

シベリア取材旅行:覚書  09.11.15(日)

ハバロフスク。
シベリア慰霊平和公苑。(日本人抑留者6万人余)
殺風景な所で、ここに死者の魂が集まってくるのだろうかと思った程だ。
-10℃。寒風吹き荒ぶ中、それでも合掌すると、あたりの空間が凝縮されたように、身の内が充溢してくる。

流氷の大河、アムール。(やはりハバロフスクの街のすぐ側を流れる。)
何度も見に行く。
つねに薄い雲の裏側にある太陽の輝きと、その下をゆっくりと動いている氷河の光景は、やはり涙が出る程美しい。

しかしなぜ、剥き出しとも言える大自然に、これ程の深い倫理を感じるのだろう。

シベリア取材旅行:覚書 09.11.16(月)

朝、ホテル出発前、もう一度、リカー・アムールを見に行く。
何度見ても、あの流氷の流れる速度はなんとも形容出来ない。

あの速度はなんだろう・・・。

ゆったりと、

遅くもなく、速くもなく、

音もなく、

際限もなく流れてゆく流氷・・・、

何処へという問いさえもなく、
あらゆる言葉が溶解されてゆく、
リカー・アムールの流れのなかに・・・。

あの速度はなんだろう・・・。


ハバロフスクの空港より新潟へ。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion078:100730〕