労働者大統領ワレンサの名義貸しの下で断行されたウルトラ反労働者政策―ポーランド1990-94年

ワルシャワのオフィス・レディ三人のワレンサ観

8月3日の夕、ワルシャワの旧市街で三人のポーランド人と話し合った。1976年以来間歇的に交流のあった女性達だ。彼女等は党社会主義ポーランドの交通省附属の2年制経済学校を相前後して卒業していた。1950年頃の生まれであった。ワレンサ達の「連帯」運動の大高揚(1980年)も、ヤルゼルスキ将軍による戒厳令(1981年)も、党社会主義崩壊とそれ以降の「ショック療法」と称する荒っぽい資本主義化を自分達の職場で、ワルシャワのオフィス・レディとして職業生活の中で見聞し、経験して来た。

彼女達は、「連帯」運動の中核をなした重化学工業の現場労働者ではない。彼等は、党社会主義に抗する運動の成果と栄光を実体験した。その運動の勝利と成果の故に自分達の職場が大々的に解体され、自分達は大量失業の憂き目を見た。当然の如く、彼等のかつての輝ける代表ワレンサの今日の姿に向ける視線は冷たい。ワレンサは、まさに「一将功なって万骨枯る」の一将であり、自分達工場労働者こそその万骨であるとの思いから、なるべく想い出したくない存在であろう。三人の女性は、そんなrobotnik(労働者)ではなく、pracownik(勤労者)であると自己規定している。

いわゆる知識人や技術者、弁護士ではない。彼等は、robotnikの対党社会主義反乱の成果の最大受益者であり、資本主義的自由社会の推進者である。労働者階級の大量失業とその解体を欧米資本と協力して遂行すると同時に、自分達の実力では達成できなかったwolność(自由)を実現してくれた労働者階級への欺瞞的返礼として、その輝ける代表ワレンサだけは讃美しつづける。かつて、ワレンサ=公安エイジェント説が盛んに語られた頃、「ポーランドの国民的資本としてのワレンサ」を断固防衛するとして、かのアンジェイ・ワイダ監督は、映画「ワレンサ 連帯の男」を製作した。

ワルシャワのオフィス・レディ(1人は現役、他の2人は年金生活者)達は、ワレンサ否定ではないが、さりとて肯定でもない。私の印象ではきっちり否定する駄目押しが欲しいエリジヴェータ(仮名)と肯定の理由が欲しいテレサ(仮名)にはっきり分かれ、どことなくテレサに近い中立のエヴァ(仮名)と言った所であった。要するに、三人ともワレンサに釈然としない思いをいだいている。

エリジヴェータは語る。「貧しくなった者が多いのに、そしてみんなで一緒にやった運動なのに、ワレンサ一人がノーベル賞をもらって、その賞金をみんなに分けないで、豊かな生活をしている。グダンスクに豪邸を建てて住んでいる。」テレサは反論する。「ワレンサが豊かな生活をしているのは、平和賞の賞金を私物化したからではないでしょ。大統領に選ばれて、大統領給与があったからよ。それに講演などの収入もあるから。」「形式的には平和賞はワレンサ個人がもらった訳だから、一人占めしてもかまわないかも。でもワレンサ大統領になってからポーランドの工場がどんどんつぶされて、ポーランド人は安い労働力として外資につかわれてばかり。最近だって、韓国のLGがヴロツラフに工場を建てて、ポーランド人を安い賃金でこきつかって、問題になっている。」ここで中立のエヴァが一言。「私、LGのテレビを買って使ってるのよ。韓国製だとは知らなかった。日本製だとばかり思っていた。」エリジヴェータがここでコメント。「そうよ。この20何年間に、私達ポーランドの電子産業もつぶされたの。」テレサは言う。「それはワレンサの故と言うより、バルツェロヴィチの政策の問題じゃない。」エリジヴェータは声を潜めて、「ワレンサ=公安エイジェント説の本もあるのよ。」と言うと、テレサは「そんな話聞きたくない。」ここでエリジヴェータとテレサが同時に「日本人のマチェック(私の名前Masayukiを発音しづらいので、音調の近いポーランド人男性名で私を呼ぶ。)は、外から見ていて、ワレンサやバルツェロヴィチ(ワレンサ政権時初代の副首相・蔵相:岩田)をどう考えますか。」と問うて来た。1990年代以来、旧ユーゴスラヴィアの多民族戦争問題に関心の焦点をおいていた私がポーランド語でうまく答えられる問ではない。そこで次のように材料を彼女達に提示した。「ワレンサについて。世界の革命家達、反体制指導者達の中でワレンサは例外的な所がある。彼が活動を始めた1960年代末から1980年代末にかけて、彼の反体制活動期に2年に一子、計8人の子供をもうけている。また育てている。これは普通の生活者にもなかなか出来ないことだ。」テレサは、私の意が分かったのか、「ワレンサ達は労働者robotnikは子沢山なのよ。」と毒抜きをこころみる。エリジヴェータが反応する。「アンナ・ワレンティノヴィチ(ワレンサと並ぶ「連帯」運動の象徴:岩田)は子供が1人か2人。住まいも普通の労働者住宅だ。」「バルツェロヴィチ政策について。ポーランドの人口も韓国の人口も4000万人。工業の伝統はポーランドの方がはるかに長い。それなのに韓国は現在、サムスン、LGの電子工業、現代や起亜の自動車、大製鉄所、世界有数の造船業を誇っている。日本をおびやかしている。社会主義ポーランド、工業力世界10何位であったが、その工業資産を資本主義ポーランドが解体しないで、活用していたら、今日、韓国が日本をおびやかしているように、ポーランドもドイツをおびやかす産業力を持てたかも知れない。ポーランドの“LG”が韓国に工場をつくってたかも。」エリジヴェータが私に「MONTOWNiA LG POD WROC ŁAWIEM」と記した紙片を渡し、PCで検索して読んで欲しい、と言う。

最近の選挙では、エリジヴェータは民族主義的PiS(法と正義)党に、テレサとエヴァは新西欧的・資本主義本流のPO(市民プラットフォーム)党に投票している。ワレンサは、ワレンサ夫人のすすめでPOに票を入れたと言われる。テレサがワレンサやバルツェロヴィチを批判しない客観的条件があるようだ。それは、彼女自身も言うように、「私は例外的に運が良かった。私が70年代につとめ出した会社は、今も昔のままの社名でビジネスしている。私はエリジヴェータやエヴァとちがって、現在も同じ会社で働いている。ディレクターは、私がやめると思うまで働いてよいと言っている。あの私有化の時期に経営陣が適切に対応したので、今がある。」エリジヴェータやエヴァは、いわゆる早期年金生活者だ。あの時期に職場を失っていたのかも知れない。テレサの会社が外国資本なのか、ポーランド資本なのか、聞きもらした。外資であれば、例外的に温情的だ。ポーランド資本であれば、もしかしたら、いわゆる「ノーメンクラトゥーラ私有化」会社かも知れない。社会主義時代の経営官僚グループが国有企業を自分達の支配する株式会社にして乗っ取った。しかしながら、従業員集団との昔ながらの関係はそれなりに保持されている。テレサの話からは、どちらなのか、それとも別の形なのか、不分明だった。

外資主導の私有化プロセス

私は、彼女達との会話が刺戟となって、8月4日機中である一冊の本を精読し始めた。それは、Ryszard Ślązak リシャルド・シロンザック著、Czarma Księga Prywatyzacji 1988-1994 czyli jak likwidowanoprzemysł『1988-94年期 私有化黒書 あるいは如何にして工業は解体されたか』(Wektory,Wrocław 2016)である。

ワレンサ大統領の任期は1990年12月22日から1995年12月22日に至る。その時期にポーランド国有企業体制が資本主義体制への不可逆的転形が断行された。それが今日のポーランド経済の健全な発展の根拠だ、とされる。「ショック療法」は痛みを伴った。しかし、今日のポーランド経済がマクロ的に実証するように、「ショック療法」は正しかった、とする論者が多い。そのような評価は、いわゆる市民主義派に多い。対するに、民族主義派には痛みの実感を語る所がある。本書は、「ショック療法」の具体的実態を厖大な一覧表にしてある。マクロ経済の数値が黙して語らないミクロ個別事例と固有名詞の一覧表である。

360ページに及ぶ本書の圧巻は、そこに示されている17の諸表である。それらは、私有化された国有企業/会社/工場の完全な実名称、その世間に知られた略称・通称、夫々の私有化実務を担当した外国コンサルタント会社の実名、ポーランド国有企業を買収した外国資本の実名、売却額=買収額の実額(ズオティ価額とドル価額)、売却決定年月日、外国コンサルタント会社が受け取った(に支払った)報酬額(手数料)の割合、国庫純収入額を表示している。

例えば、第1表「私有化。1991年のコンサルタント会社」。・・・・・・。第5表「私有化。1994年のコンサルタント会社」。毎年毎年100近いポーランドの国有企業が外国コンサルタント会社に私有化業務を委託していることが分かる。ポーランド人のコンサルタントは、散見される程度である。第6表「1990-1994年期の外国コンサルタント会社」は、Bain and Company,Boston,USAから始まって、Echoli Regie Publicitareに終わる西欧北米のコンサルタント会社名と報酬額が表示されている。

注意すべきは、外国コンサルタント会社の活動は、私有化される個別国有企業の経営に関してだけでなく、自動車産業、製紙産業、石油産業、電子産業、工作機械産業、外国貿易産業、建設産業等々の産業分析を引き受け、ポーランド政府、所有転換省に必要情報を提供している事だ。第7表「1990-94年期 外国会社によって行われた産業セクター分析の費用」にまとめられている。

第11表「1995-97年期 私有化コンサルタンシー費用総額」を見ると、外国コンサルタント諸会社と並んで、ポーランド人のコンサルタント会社も亦登場している。前者のコンサルタント報酬が177090839ドル(約1億8千万ドル)に対して、後者のそれは3753289ドル(約400万ドル)ではあるが。

第12表「1990-94年期に政府によって売却されたポーランド諸会社の株式価額と外国人私有化コンサルタント費用額」を見ると。買収者は、アメリカが圧倒的に多く、ドイツ、西欧諸国が続く。例外として、1社あって、ポーランドの勤労者会社である。列挙されている110余件の中の1件である。アメリカの買収一例を挙げると、1991年8月22日に「砂糖工業工場“E.Wedel”」がペプシ・コーラに2500万ドルで買収されている。コンサルタント費用は1213647ドル(約120万ドル)で、買収額=売却額に対する割合」は4.9%であって、全体の平均9.8%の半分である。

第14表「1990-94年期 企業/会社の私有化/売却」は、314件におよぶ被売却企業名、売却年月日、国庫収入、私有化作業費、費用割合、国庫純収入が表示されている。44ページにわたる表である。

以上のように、ワレンサ大統領の任期にポーランド政府は、社会主義時代に再建・創建・増設されたポーランドの諸工場を惜し気もなく売り払ったのである。ここに一つの問題がある。かかる売却は、ポーランド経済トータルの将来性にとってプラスであるか、マイナスであるか、と言う大問題はさておいて、その時期の国家財政=国庫にいかほどの純収入をもたらしたか、と言う問題である。第15表「1990-94年期 私有化財政収入と私有化作業費」がこの問題をあつかっている。5年間に171社が私有化・売却され、国庫収入は1160102309ドル(約12億ドル)、私有化コンサルタントの対象は503社、コンサルタント費用は103902200ドル(約1億4百万ドル)。費用は外国人コンサルタント費用だけでなく、私有化の為に新設された省庁、すなわち、MPW(所有転換省)とAP(私有化庁)の維持コストがある。私有化庁APに関しては、1990-93年期のデータなしの前提で計算すると、両省庁の維持費は218588138ドル(約2億2千万ドル)である。従って、費用割合29.52%(約3割)。

私=岩田のような第3者から見れば、ポーランド政府は、3億ドルのコストで12億ドルの収入、9億ドルの純利益をあげた訳であるから、うまい商売をしたとも言えよう。しかしながら、真のコストは、所有転換省・私有化庁の維持費と外国コンサルタント費ではなく、言うまでもなく、売却された諸企業・諸工場の真の経済価値である。

私有化損益―ポーランド工業基盤の喪失か

ここで『私有化黒書』と同じ時にワルシャワで買った書、Rafał Woś ラファウ・ヴォシ著、Dziecięca Choroba Liberalizmu 『リベラリズムの小児病』(Studio EMKA、Warszawa 2014、2015)の一節を引用紹介する。「クヴィジン製紙・セルローズ工場は、ギエレク時代(1970年代:岩田)に計画された諸投資の一つである。ポーランドの新聞用紙の半分を生産し、ヨーロッパ最大のセルローズ生産者であった。1990年にアメリカのコンツェルンInternational Paper Groupに売却された。投資家は1億2千万ドルで80%の株式を取得した。政府から数年間の免税を許された。後に判明したことであるが、その額は1億4千万ドルに達していた。新しい所有者が最初に行った諸決定の一つ、それは価格を150%引き上げることだった。数年後IPGのあるディレクターは、業界誌“Journal of Business Strategy”とのインタビューでその買収を自慢していた。彼は、ポーランド政府はその工場建設に売却額の3倍から4倍を支出していたし、今日あんな金額でこんな工場を買うなど、世界のどこでも出来ないだろう、と語っていた。」(pp.62-63)『私有化黒書』の第12表に列挙されている私有化/売却の117事例の第38番目「クヴィジン製紙・セルローズ工場」が記録されている(p.208)。但し、売却年月日は、1992年8月10日であり、上記引用のそれとは異なる。

売却された諸国有企業の真の価値が売却額より高いとすれば、『黒書』の著者のポーランド人エコノミストは、どの位になると評価しているか。本書は、その具体的評価例を提示していない。しかしながら、著者の思考の方向性は、以下の引用から明白である。「西側の銀行や大会社は、笑止千万の低価格でポーランドの諸工場を買収して、各工場に結合している工場附属住宅団地、職業学校・訓練所、工場附置医務室、労働者ホテル、休息の家、サナトリウム、工場の在外出張所、デパート、従業員用店舗の所有者となり、更には団地附属・工場附属小規模病院の所有者にさえなった。いかなる公表されている工場売買契約書に工場用地面積やその価値に関する情報は見当たらない。外国コンサルタント会社の私有化分析書や鑑定書にもそのような情報は見出し難い。これらすべては、私有化歪曲情報のプロパガンダの中で消えてしまっている。プロパガンダは、この時期まるで意図したかのようにカオスを呼び起こし、買収者の外国資本がもたらす技術進歩を賞讃する。そんな擬似餌に気づかない労働者階級は、当初プロパガンダにとらわれて、その結果まもなく存在を止めるか、あるいは見捨てられて貧困状態に落ち込む。労働者階級はそんな状態が続くと、次のように期待するようになっている。すなわち、新しいインテリゲンチャが国の修理を実行する。但し、今回は外国人コンサルタントの参加なしに、壊された工業能力と資産能力を再建する。過去25年間にかかる能力が完全に喪失させられていなかったとしたら、であるが。」(p.226)

買収された国有企業の運命はまだよかったと思われる。1994年末までに1239社の国有企業が解体整理された。1989年に稼働していた国有企業の19.4%になる。1990-91年に535社、1992年に518社 1993年に226社、1994年に160社である(pp.226-228)。

解体整理産業の典型である石炭産業に関する著者の叙述を紹介しよう。「上シレジア地方に解体的リストラの対象となっている64炭坑が在る。1990-91年に上シレジアの36炭坑が恒常的赤字と見定められて、物理的解体を定められた。そこには約20万人の勤労者が働いていた。先ず第一陣として7万4千人が働く17炭坑が閉鎖され、続いて別の町々にある7炭坑が。1992年12月鉱山労働者のゼネストが勃発し、1993年1月末まで継続した。・・・・・・。このストライキに他の諸産業も参加した。・・・・・・。いくつかの炭坑では地底のハンガー・ストライキさえ断行された。・・・・・・。・・・・・・。1990年に石炭産業で43万5千人が就労していたが、解体的リストラの故に19万人に下がっていた。」(p.227)

石炭から石油その他のエネルギー転換はやむを得ない所があろう。しかしながら、かかるドラスティックな私有化とそれがもたらす生産現場の解体は、殆どすべての工業部門に及んでいる。『私有化黒書』の240頁と241頁の間に解体によって廃墟となった諸工場の残骸の写真が28葉納められている。炭坑の写真は無い。自動車工場、造船所、製紙工場、肥料工場、機械製造工場、鉄道車輛工場、電子機器工場等々。

『私有化黒書』の「結論」において著者は書く。「本書は、1989年の経済転形に関してこれまでに出版された諸論文・諸著書とは違う。殆どすべての産業部門における各種個別具体的諸企業の売却と解体整理に関する数値データの豊富さにその差がある。個別具体的諸企業の売却に関しておそらくこれまでどこにも公刊されなかった数値データが本書に示されている。それらは、売却価額、支払通貨、売却益のケース、売却損のケースである。外国顧問・コンサルティング会社がポーランドの転換において果たした役割にも亦光が当てられた。」(p.357)「ポーランドのコンサルティング会社は、高い能力を有していたにもかかわらず、明々白々に無視され、低評価されていた。外国コンサルティング会社は、企業私有化サーヴィスに関する利益の大きい契約を獲得した。彼等は、サーヴィス料金設定において制約がなかった。ポーランドの会社は、数分の一の低価格しか得られなかった。彼等は、中央経済権力の意思決定者の好意を当てに出来なかった。そして、低価格で下請けの仕事を行った。利潤はまっさきに外国会社がかっさらって行った。」(p.358)

「本書で私は、体制転換が然るべき準備なしに加速度的に実行され、それは外部から押し付けられ、かつ政権についたグループが受け容れたイデオロギーの名の下に行われた。まるで国内クーデターのように。以前のボルシェヴィキ革命の最中もこうだった。第二次世界大戦後も「連帯」後も経済のかかるラディカルな変換は、国家にとってマイナスの結果を伴った。」(p.359)

著者によれば、1946年とそれに続く時期に、国家的所有が私的所有に優位するとの教条の下に、電光石火の国有化が断行された。「これら両転換の間に重大な差異がある。戦後の国有化はその後国民資産の再建と拡張を通して国民に奉仕した。完全な経済的主権を持つ国家の経済力を強化した。それに対して、いわゆる「連帯」後の転換は、国家の経済力をいちじるしく弱化した。・・・・・・。このように遂行された私有化によってポーランド経済は、外国独占に降伏し、ポーランドの経済主権はいちじるしく制限された。」「これまで公衆に知られていなかった様々の数値データの豊富さのほかに、もう一つ追加的な価値が本書にある。それは、読者がポーランドの体制転形に関して純経済的に反省するだけにとどまらず、国家運営とポーランドの国家性に関してより広く省察するようになる事へいざなう所にある。」(p.359)

セルビアの私有化=脱工業化

本書の主題となっている体制転換と私有化の過程で脱工業化、と言うよりも、工業インフラの大量破壊は、ポーランド一国の問題ではない。ポーランドよりも十余年遅れて企業の根本的私有化に乗り出したセルビアにおいても、現在、工業基盤の喪失が問題にされ出している。『私有化黒書』を読了して、ベオグラードの日刊紙『ポリティカ』(2016年8月14日)を手にとると、第1面に大見出し「工業の崩落 工場は何処に セルビア人よ」が目に入った。第1面、第11面、第12面、第13面にわたる特集記事である。記事は、ある外国人のセルビア人への忠告発言の紹介で始まる。「あなた方が強力な工業基盤を再建できた時、遠近の強力な隣人達からの矛盾せる諸圧力に抵抗できるようになるでしょう。すくなくとも私達の経験はそうです。時が来た時、あなた方は昂然とEUに入れるでしょう。私はそんな運命をあなた方に望みます。」これは、7年間ベオグラードで駐セルビア・スイス大使を勤めたジャン-ダニイェル・ルフ氏の離任の弁である。「どうして善意の外国人が私達に経済の再工業化の忠告をするのであろうか。私達が工業を持っていないからである。セルビアにおいて過去20年間に諸工業中心地の98%が破壊された。そこでは約100万人の労働者が働いていた。」(第1面)

「時代の目撃者にとってどのようにしてセルビアが工業なき国になったかを説明する必要はなかろう。私有化においてだ。・・・。工場を買った所有者は・・・。ジャン-ダニイェル・ルフのような人物の声は殆ど聞こえて来なかった。エコノミストの大部分は、工業を犠牲にしてサーヴィス業を発展させる方が良いとの主張をしていた。・・・・・・。私有化のモットーは“誰が買うかは重要ではない。売れるかだけが問題だ”であった。誰が企業を買うかは本質的ではない訳は、金を支払った新所有者は、財産を大切にするからだ。かくて、私達は、疑わしい主人を、更に疑わしい資本を、そして数十万の失業者を獲得した次第だ。」(第11面)

このような解説が続いて、無人と化した廃墟と化した各地の諸工場の様子を写した13葉のカラー写真が載せられている。シャヴァツの肥料工場ゾルカは、1938年以来の大工場だ。1969年にチトー大統領がゾルカを訪問した時の様子が第14番目の白黒写真に映し出されている。それは、2009年に抗議するゾルカ労働者のカラー写真と対になっている。労働者達にノスタルジーとメランコリーしか残されていない。

インテリゲンチャの自由のジレンマ

ここ四半世紀のポーランドや旧ユーゴスラヴィアのセルビアにおける脱国有化、脱社会有化、すなわち私有化の最大受益者は、先進資本主義諸国の有産富裕支配グループである。しかしながら、夫々の国の内部における最大の受益者は自由主義・市民主義の人文知識人層、すなわち文学者、詩人、映像作家、哲学者、歴史家、経済学者等々であるかも知れない。自分達が官僚社会主義の上からの抑圧や労働者自主管理社会主義の横からの風圧を自力で打破したわけではないのに、自分達が希求した個人的自由を獲得して、現在エンジョイしている。とりわけ、ブッキッシュな経済学者は、市場の抽象理論像の完璧さを信仰して、自由化と市場競争だけを語り、ネオリベ資本主義の弁護論者となっている。人文インテリ主流は、思想の自由競争を金科玉条となし、ソロス財団のような外貨大投機の常勝富豪が運営する資金を、開かれた社会実現のために利用できる。開かれた社会の闇を手探りしようとしない。かくして、常民層労働者大衆にとって自由が敵となりつつある。常民にとって自由が大切でないわけがない。そして、彼等にとって生活が安定してこそ自由が生きるのだ。その生活の安定が、現在あらゆる所で自由によって脅かされている、とも言える。資本主義に敗北した左翼は、常民労働者の中に一部ノスタルジーとして残っていても、それ以上でも以下でもない。常民労働者がどうにか自己に期待出来るのは、カトリックや正教の僧侶達にすがることかも知れないし、伝統・歴史・神話にとじこもることかも知れないし、民族排外主義に立って無方向的アクティヴィズムに討って出る事かも知れない。

かかる危うい社会潮流は、金融資本主義の自由(金の創造と自由の流れを本性とする。)との共生を選び取り、それとの緊張を捨てたように見える人文知識人の自由一辺倒(知の創造と流れの自由を本性とする。)の大気流が産み出しているようだ。

私=岩田がポーランドやセルビアの最近年四半世紀を観察して思う仮説的所見である。私は「映像作家」を強調体にした。アンジェイ・ワイダのことである。ワイダ監督がワレンサ三部作の第3作品を「ワレンサ 連帯の男」ではなく、「ワレンサ 大統領の男」を製作し、ポーランドの脱連帯的資本主義化の渦中のワレンサを映像化していたら、こんな所感をいだかなかったにちがいない。

映画監督に裏切られたショックに比例して映画芸術の偉大さを知る。
平成28年9月1日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6239:160902〕